長谷和幸

第十回 デヴィッド・カッパーフィールド
「テラー・トレイン」


「テラー・トレイン」

第一回の冒頭に申し上げさせていただいた通り、本稿の主旨は“あまり知られていない、ただしマジック史的には重要な作品を皆様に御紹介すること”にあります。正直、私個人の思いとしては、後半よりもむしろ前半、あまり知られていない、という箇所に力点をおいています。ただ、依頼主様より「たまには有名な作品も取り上げてみては?」とのアドバイスをいただいたこともあり、今回のみ連載第十回の節目を記念して、例外的にメジャー中のメジャー作品を解説致します。
デヴィッド・カッパーフィールド出演「テラー・トレイン」です。

同作は1980年のカナダ映画。「ハロウィン」「13日の金曜日」等、謎の殺人鬼によって人々が次々残忍に殺されてゆく、所謂“スプラッター・ムービー”“スラッシャー・フィルム”等と呼ばれるジャンルの後続作品です。
作品の成立背景について、最初に説明しておきましょう。前述通り、1978~80年前後にかけてスラッシャー・フィルム群が大ヒットすると、制作費をかけず有名俳優が出演していなくても一攫千金を狙えるため、同工異曲の映画が乱作されました。おりから、1970年代中頃からカナダ出身の映画監督、デヴィッド・クローネンバーグ(トロント大学では、カナダを代表するマジシャン、ダグ・ヘニングの学友でした)のホラー映画が世界市場でヒットしており、それまで商品として儲かる映画にはあまり縁の無かったカナダ映画界が、俄然食指を動かし始めていた時期でした。そのため、スラッシャー映画のうちの何本か、具体的には「プロムナイト」「誕生日はもう来ない」「血のバレンタイン」等は、一見アメリカ映画風の実はカナダ映画だったのです。そしてこの「テラー・トレイン」も、そのうちの一本ということになります。

監督のロジャー・スポティスウッドは、サム・ペキンパーの名作「わらの犬」等の名編集者でしたが、監督としてはこれがデビュー作。最近こそあまり名前を見かけなくなりましたが、この後着実にキャリアを伸ばし、「エア★アメリカ」「刑事ジョー/ママにお手上げ」「シックス・デイ」等スター主演の娯楽大作を手掛けます。中でも「007 トゥモロー・ネバー・ダイ」では主要キャストに、やはり有名マジシャンのリッキー・ジェイをキャスティングしていました。
他のスタッフで目を引くのは、やはり何と言っても撮影を担当しているジョン・オルコットでしょう。「2001年宇宙の旅」以降「時計じかけのオレンジ」「バリーリンドン」(アカデミー撮影賞。一部本作と同じ特殊レンズで撮影しています)「シャイニング」等、86年に亡くなるまで完璧主義者として名高いスタンリー・キューブリック組専属だった巨匠です。この作品でも、逆光等陰影に富んだ映像を生み出しており、スポティスウッドとは「アンダー・ファイア」でも再び組んでいます。
ヒロイン・エレイナ役を演じたのはジェイミー・リー・カーティス。ブームの火付け役となった「ハロウィン」でもヒロイン役でしたから、その人気を当て込んでのキャスティングでしょう。名前から分かる通り、両親はトニー・カーティスとジャネット・リー。言うまでもなく、映画「魔術の恋」でハリー・フーディーニとその妻ベスを演じた俳優夫妻です。(母ジャネットはLeigh、娘のジェイミーはLeeで、何故かスペルが異なります。両親が後に離婚したことが、何か関連しているのでしょうか?)

「魔術の恋」

日本での公開状況についても解説致します。
当時この映画は配給元の20世紀FOXからあまり期待されておらず、大都市圏では公開されず地方でのみ、メイン作品の二本立て同時上映の添え物として公開されました。これを業界用語でスプラッシュ公開と呼び、私も当時、あの数年に一度しかテレビ放映されないカッパーフィールドのマジックが観られるということで「ぴあ」等の情報誌を片手に、二番館・三番館を探し求めた懐かしい青春の思い出があります。スプラッシュ作品はパンフレットすらろくに製作されないことが多いのですが、この作品に関しては無事販売されていました。中には、“マジシャン、デビット・カパーフィールドは語る”という記事も掲載され、撮影中のエピソード等を明かしています。スタッフ欄の、Illusions created by David Copperfield という表記が、幻影制作デビット・カパーフィールド、という意味不明な日本語になっているのがちょっとおかしいのですが、これはおそらく、訳者の方がイリュージョンに大がかりな奇術の意味があるのを御存知なかったためでしょう。

ストーリーは、典型的なスラッシャー映画の定石です。
ある大学の医学部。新入生歓迎会でのいたずらの度が過ぎ(気分を害される方もおられると思いますので、詳細は控えます)、被害者の少年ケニーは精神を病んで大学を去る。
それから3年後の大晦日、その時の学生達が卒業の記念にと列車を一編成丸々借りきり盛大な仮装パーティーを開催する。ところがその走る車内で、学生達が殺されてゆく。しかし、仮装パーティーであるため学生達には(そして映画を観る観客にも)一体誰が犯人なのか分からず、犠牲者は次々と増えてゆく。疾走する列車内には、どこにも逃げ場はない…。

映画の冒頭、列車内にマジック用具を搬入するケン
(D.カッパーフィールド=右)

…という物語のどこにカッパーフィールドが出演しているのかと言うと、実はその車内パーティーに、余興としてマジシャンが呼ばれており、それが彼なのです(ただしポスター・チラシの表記はデビッド・コパーフィールド)。メインタイトルが明けて間もなく、動き出す前の列車に乗り込むシーンから、ほとんどラスト近くまで、ほぼ全編出演しっ放しの大活躍です。それどころか映画の後半では、学生達はマジシャンがあのケニーなのではないかと疑い始め、物語に大きく関わってきます。背が低くうだつの上がらないケニーとカッパーフィールドとでは、どう見ても同一人物とは思われないのですが、まあそれを言うのは野暮でしょう。何しろ、カッパーフィールド演じるマジシャンの役名はケン、ケニーの趣味はマジックなのですから、あまりと言えばあまりに分かりやす過ぎます(ケンはマジシャンの本名ではない、とする説もあり。またケニーの趣味については、実は真犯人の伏線になっている)。しかしそのカッパーフィールドも、ラスト近くで剣刺しボックス内で血塗れとなって発見される。果たして意外な真犯人とは…というのが映画のクライマックスとなります。

ドコルタ・チェアーを演じるカッパーフィールド

今回は特に、各々のマジック・シーンを詳細に解説しましょう。
列車が走り始めて間もなく、車内が騒がしくやりにくいことを気にするケン(D.カッパーフィールド)にアシスタントの女性が、まずはクロースアップから始めれば、とアドバイスします。そこでエレイナに近づいたケンは、25セント硬貨を借り、「シガレット・スルー・クォーター」を演じてみせます(シガー・スルーは間違い。シガーは葉巻です。もし敢えて略すならばシグでしょう)。

シガレット・スルー・クォーター

これは、カッパーフィールド特番の第二弾(1979年)で演じられたレパートリーであり、周りを囲まれた状態で演じる・まずコインに煙草を付ける・コインに刺さった状態で煙草を吸ってみせる・最後はコインを消してしまう等、演技もほぼそのままです。ちなみにほとんど知られていませんが、同トリックの考案者はプレスリー・ギター(Presley Guitar カッパー/シルバー/ブラス・トランスポジション=スリーコイントリックの考案者でもあります)、TVショーの演目としてカッパーフィールドに勧めたのはコメディマジシャンのマイク・ケイヴィニー(Mike Caveney)です 。余談ながらマイクはかつて、ジョンソン・プロダクツでギャフ・コインを加工していた経歴があります。

マイク・ケイヴィニー

次の登場シーンが、いよいよ車内特設ステージでの、本格的なマジックショーとなります。
まず最初は、カードプロダクション。ファンプロダクションではなく、ファンカードからシングルプロダクションへと繋げ、最後は右手の表裏をゆっくりと改めてからラスト一枚を出してみせる、という流れです。これは特番第一弾のオープニングで演じられた手順とほぼ同一であり、使用する捨てかごまで一緒ですが、クライマックスで両手からカードを出す点がテレビとは異なります。音楽も、特番では既成曲「ソウル・トレイン」を使用していましたが、ここではオリジナル曲に差しかえられていました(音楽ジョン・ミルズ-コッケル)。
続けて演じられるのが、人体浮揚。これに関しては、恐らくマジシャン間で物議を醸すでしょう。仰向けに横たわった女性アシスタントを、まずスタンダードな後ろから棒で支える方法で顔の高さまで浮かべた後、マスケリンの方法(これをグースネック=ガチョウの首、と呼ぶ)で切れ目のない輪を二度通してみせます。その後、女性をマジシャンの胸の高さまで降ろします。果たして列車内で実演可能なのか、という問題はさておき、ここまでは特におかしなところはありません。問題なのはこの後です。胸の高さの女性に、マジシャンはすっぽりと赤い布を被せます。その女性は布を被ったまま、再び浮き上がります。するとマジシャンは、手をのばすと突然布を剥ぎ取ってしまいます。女性は、空中で一瞬にして消失してしまったのです…。

前半部の浮揚は特番第二弾及び結末を変更して第五弾にて、後半の所謂“アシュラ・レビテーション”は同第一弾のトリとして演じられたレパートリーです(更にこれを大型化し、後にフェラーリやオリエント急行の浮揚として再演)。問題なのは、この2つは種の原理が全く異なり、少なくとも映像通りに演じるのは不可能であることです。はっきりと申し上げれば、このシーンにはフィルムの編集がなされています。これを許容範囲内とするかどうかは、マジシャン間で意見の分かれるところでしょう。私自身は、マジックショーならばアウト、ただしこれは劇中のマジックシーンなので許容範囲内、という立場を取ります。この演目は後に、シークフリード&ロイの手によって実現されました。


フローティング・ローズ

次は再び、ケンがエレイナに個人的にマジックを見せるシーンです。赤いバラの花を浮かばせ、エレイナにプレゼントしてみせます。普通の、インビジブル・スレッドを用いた単純な浮揚現象ですが、驚いたエレイナが思わず浮かぶバラの周りに手をかざしてみせる演出が巧妙です。これは支える物が何も無いことを示す動作であり、通常はマジシャン自身が行うのですが、それを驚いた観客にさせることにより、錯覚を更に強めています。もちろんこれは、エレイナ役のカーティスが予めの演技指導通りの箇所に手をかざしているだけなのですが、本当の観客を相手にしたマジックショーではなく、劇中のマジックシーンならではの策略です。ターベルコースの中でも、演劇内でのマジックの成功例として、敵役の俳優にあえて陰で密かに現象成立の手伝いをさせる、という事例が述べられていました。前述の浮揚の編集トリックと合わせ、映像内でのマジックの演技について、色々と考えさせられます。

更に、周りを学生達に取り囲まれてのクロースアップのシーンが続きます。演目はカードスタブで、床に撒いたデックに新聞紙を被せ、上からナイフを落とすと観客の選んだカードが刃先に刺さる、というスタンダードなスタイルです。これも特にどうということの無いトリックですが、ただしナイフを取り出すタイミング、そのナイフを落とすタイミングが絶妙で(「子ども騙しのインチキ手品だ」と言われた次の瞬間、いきなりナイフを取り出す)、普通に演じられれば退屈な演技に成りかねないところを、さすがに終始緊張感を持って見せられます。些細な差なのですが、重要なポイントです。

最後は再びステージ・ショー。
まず観客の女性を選び、その後椅子に座ったケンは、頭からすっぽりと布を被ります。女性に好きな数だけ指を立たせ(劇中では7本)、布を被ったケンがその本数を当てる、という訳です。ところがマジシャンを覆った布を女性が剥ぎ取ると、椅子に座っていた筈のケンの姿が忽然と消失します。次の瞬間、客席の後ろから「7です!」という声がし、観客達が振り返ると客席最後尾にケンが立っている、という流れとなります。

カッパーフィールドが女性に変わるシーン

方法に賛否はあれ(後述)、走る列車内という特殊な状況から、会場前後の移動という現象を導き出したのは慧眼といえます。消失は所謂ドコルタ・チェアーですが、列車の床で演じられるのか?という当然の疑問はひとまず置くとして、さらにどうやって走る列車内を後ろに移動したのか?という方法論も不問に付すとして、まず学ぶべきは読心術のための目隠しとして布を被る、という必然性を設けたアイディアだと思います。考案者も、どちらが先かも不明ですが、やはりシークフリード&ロイが同様の演技を自身のテレビ特番で演じていました。

シークフリード&ロイ カラースチール

シークフリード&ロイとホワイトタイガー

カッパーフィールド自身も、ドコルタ・チェアーは特番第二弾と十二弾とで珍しく二回、床の切り穴を用いない方法で演じています。前者はバリー・マニロウの歌唱“Weekend in New England”が、一方後者はアランナ・マイルズの“Who Loves You”が、ひときわ印象深い演目でした。
客席後ろのケンは「ショーのフィナーレには、やはり先程消えてしまった女性にも再登場してもらいましょう」という趣旨のことを述べ、自身の姿を布で隠します。その布がゆっくりと下がると、ケンが女性アシスタントに一瞬にして変化します。前方ステージ上にはいつの間にかケンがおり、客席後ろのアシスタントを招いて二人で礼をして、ショーの終わりとなります。体の前面を布で隠し、その布を下げると人物が変化している、という現象は、特番第一弾のカードプロダクションの前振り(年老いた母親が若い女優シンディ・ウィリアムスに変化し、「これだからマジックは止められない」と微笑む)を初めとして、カッパーフィールド自身何度か演じています。後年には“Cocoon”という演目として、更に進化した姿を披露しました(Cocoonの指導はペンドラゴンズ。流石です)。

Cocoon

以上が劇中演じられるマジックですが、実はこの映画で重要なのは、今まで述べてきたような一つ一つの演目ではありません。
映画の中でカッパーフィールドは、フィルム一コマ一コマの中で光り輝いています。ヒロインのカーティスや大ベテランのベン・ジョンソンと比較しても、一歩も引けを取りません。
大切なのはネタでもアイディアでもテクニックでも現象でも作られたキャラクターでも芸でもなく、まずはその人の持って生まれた先天的な存在感であり、その人物が良い歌を歌ってこそ、良い演技をしてこそ、スターというものは誕生するのだ、ということを、この映画は思い知らせてくれます。
レビューを拝読すると、“この映画にマジシャンは必要なのか?”という疑問をよく目にします。実は映画の脚本に当初、マジシャンは全く登場しませんでした。

ところが撮影の準備段階でカッパーフィールドの特番がテレビ放映され(映画の撮影は1979年の11から12月にかけて行われたため、おそらく1979年の第二弾)、たまたまそれを観た、元々マジック好きのアメリカ人プロデューサー、サンディ・ハワード(ただし、プロデューサー名がアメリカ人ではカナダの税制優遇措置が受けられないため、本作ではノークレジット)がキャラクターに惚れ込んで急遽出演交渉、脚本が書きかえられ大きな役でマジシャン登場、と相成りました。個人的な判定では、カッパーフィールド特番の絶頂期は、内容・タレント性の両面で第二弾から四弾にかけて(1979~81年)だと思いますので、正にそこにいるべき人物が歴史のいるべきタイミングで存在した、ということなのでしょう。(同年同氏は、A.M.A.よりマジシャン・オブ・ジ・イヤーを授与されています)
本人はあるインタビューで、世界中を移動して公演している理由を問われ「誰にもテラー・トレインを観られたくないから、その街のレンタルビデオ屋に行ってはテラー・トレインのビデオを借りっぱなしで返却せず、撲滅させるのが目的なんだ」と、ジョーク交じりで自虐的に答えていました。
確かに映画はあまりヒットせず評価もまあまあ、編集と不可能設定の多いマジックシーンの出来も本人の意向に沿ったものではなく、またその世界観も本来の趣味とはかけ離れていたのでしょう。以後カッパーフィールドに主演クラスの映画出演はありません。

かつて、イギリス最高のマジック界の大御所、デヴィッド・バーグラスは、マジシャンにとって必要不可欠な要素を問われ、以下の三つを挙げました。拙訳致します。

「第三に、マジシャンから見た良い種(アイディア、テクニック、高品質な用具etc.)。 それより大切な第二に、観客から見た良い現象(不思議さ、インパクト、面白さ楽しさ、意外性、美しさetc.)。
しかしそれより何より大切な第一に、マジシャン自身の存在感(カリスマ性、タレント性、オーラ、天性の魅力etc.)」

私も、全く同感です。

※参考映像:
「テラー・トレイン」Limited Edition Blu-ray(KADOKAWA/角川書店)

※参考文献:
「テラー・トレイン」劇場パンフレット

※画像出典:
IMDb(Internet Movie Database)
English Language-Wikipedia

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