長谷和幸

第十一回 ヴィンセント・プライス
“The Mad Magician”

血生臭いサスペンス映画が続いて恐縮なのですが、今回はアメリカ映画“The Mad Magician”を取り上げます。
この映画は3D(3 Dimensional=三次元的な、の略。やさしく言うと立体)映画です。そこで本題に入る前に少し寄り道をして、映像が立体に見える仕組みと、3D映画の簡単な歴史を御説明致します。

当然の事ながら、人間の左右の目は7~8㎝程離れています。つまり左右の目は、やや横にずれた二種類のヴィジョンを各々目視することとなります。この視差を脳が受けとめると、立体として認識します(ずれの小さなものは遠く、大きなものは近くと判断する。顔の前に人差し指を立て、左右の目を交互に閉じてみてください)。であれば、平面上の映像であってもそこに左右に少しずれた二種類の映像を同時に投影し、何らかの仕組みにより左右の目にいずれか一方の映像のみを見せられれば、脳はそれを立体と誤認・錯覚するわけです。


「The Mad Magician」

この原理は、写真が発明されて間もなく、19世紀には既に発見されていました。1950年代にテレビが普及すると、それに対抗する手段を模索した映画界が立体映画に着目し、1953年には3Dがブームとなります。代表作には、「ブワナの悪魔」「大アマゾンの半魚人」、ヒッチコック監督の「ダイヤルMを廻せ!」等が挙げられます。ブームは日本にも飛び火し、東宝が短編映画「飛び出した日曜日」(撮影は特撮の父、円谷英二)「私は狙われている」を製作・公開しました。当時の立体映画はアナグリフ方式と呼ばれ、カメラを横に二台並べて片方は赤・もう片方は青で撮影した左右にずれた映像がスクリーン上には重ねて投影され、一方観客は左右に各々赤と青のセロファンを貼った眼鏡を掛けてこれを観賞すると、赤いセロファンを通して見た片目は赤い映像を視認出来ず、もう片方は青い映像を視認出来ませんので、脳はこれを立体と判断する、という仕掛けでした。
この50年代前半の立体映画ブームの中で、特に評判を呼んだ映画の一本に、ワーナーの「肉の蝋人形」があります。30年代の同名作のリメイクですが、蝋人形師が制作する人形は、実は死体を蝋で固めた物だった、というホラー映画です。これがヒットしたため他社が早速便乗し、同じプロデューサー、同じ脚本家、同じ主演俳優で、似た内容の映画を即製で制作しました。主役の職業が蝋人形師では盗作の謗りを免れませんので、死体に絡む謎めいた別の職業として製作陣はマジシャンに目をつけました。 それが今回取り上げる“The Mad Magician”です。


主演のヴィンセント・プライス

1954年コロムビア映画(現在のソニー・ピクチャーズ)作品。 主演は「肉の蝋人形」に続いてヴィンセント・プライスです。
元来は演劇・映画の名優ですが、前述「肉の蝋人形」を契機に50~60年代にロジャー・コーマン監督、エドガー・アラン・ポー原作のAIP作品「アッシヤー家の惨劇」「恐怖の振子」「黒猫の怨霊」「忍者と悪女」「怪談呪いの霊魂」(これのみH.P. ラブクラフト原作)、ウィリアム・キャッスル監督の「地獄へつゞく部屋」「ティングラー 背筋に潜む恐怖(TV)」等の怪奇・恐怖映画に連続登板。既に故人ですが、晩年にはマイケル・ジャクソンのMV「スリラー(ビデオ)」でゾンビの現れる間奏部分のナレーションを担当したり、「シザーハンズ」でタイトルロールの人造人間を生み出す発明家を演じたりしていますので、そちらで御存知の方も多いでしょう。
監督はジョン・ブラーム。40年代の「不死の怪物(DVD)」「謎の下宿人」「戦慄の調べ」等で知られる典型的なB級映画の職人監督ですが、「謎の下宿人」は御大ヒッチコック監督「下宿人」のリメイク、50年代末には活躍の場をテレビに移し、中でも「ヒッチコック劇場(TVシリーズ)」「ミステリーゾーン(TVシリーズ。別題「未知の世界」「ミステリー」、近年では「トワイライト・ゾーン」として知られる)」を多数監督していますから、当時恐怖映画の演出家として、一定以上の評価を得ていた事が窺われます。
マジック監修(クレジットはmagical effects)はボブ・ハスケル。同作には、マジシャンのアシスタントとして出演も果たしています。クロースアップ&ステージ両方をこなすパートタイム・プロマジシャンで、対角線で二分したカードが一致する仕掛けデック「スプリット・デック」の考案者であり、おそらく「アピアリング・キャンドル」の考案者でもある可能性が大です。得意なレパートリーはビル・イン・レモンとカードソード。Genii誌創刊第3号では、20代にして表紙を飾っていますので、当時西海岸ではかなりポピュラーな存在だったのでしょう。あいにく演技を拝見したことはないのですが、映画から推察すると、独創的なアイディアで個性溢れる演技をする、というよりは、オーソドックスな演目をそつなくきれいにこなすタイプのようにお見受けします。映像のアドバイザーとしては、適任と言えるでしょう。

舞台は19世紀のアメリカ。マジシャン、ドン・ガリコは新しいトリックをマジシャン達に提供するクリエイターでもあったが、新作披露のための自らの公演をビジネスパートナーのロス・オーモンドと、ライバルマジシャン、グレート・リナルディによって妨害される。ガリコのアイディアの権利は全てオーモンドにあり、しかもそのオーモンドはリナルディと契約を結んでいたのだ。自身の発明した回転鋸の胴切り、火葬イリュージョン等を用い、ガリコはオーモンド、リナルディ、そして今はオーモンドと再婚した自分の元妻、クレアに復讐を開始する…。
プロットは典型的な恐怖サスペンスの 定石通りです。いつも通り、未見の方々のためこれ以上物語の詳細を述べることは避け、以下登場する主なマジック・シーンについて説明致します。この映画は、セールスポイントがまず何よりもマジックを、しかも3Dで見せることにある、と言えるでしょう。

映画はいきなり、マジックショーのリハーサルシーンから幕を開けます。ここでプライスが、科白を喋りながらマジック用具を畳んでゆくのですが、この用具が“Fastest Trick in the World(世界最速のトリック=一本脚テーブル上の鉢植えの毛花が、鉢ごと瞬間消失する)”です。テーブル上に鉢を平たく分解し、毛花をテーブルのある部分に入れてゆきます。

Fastest Trick in the Worldの仕込みシーン

現象として演じられるシーンはありませんので、観客には意味が分からず問題は無いと思われますが、どこかからクレームが来なかったか、他人事ながらちょっと心配です。

ここから以降、マジック関連のシーンは計4つに分けられます。純粋にマジックが演じられるシーンが2つ、映画のためにスタッフが創作したイリュージョンが2つです。順を追って見てゆきましょう。

ヴィンセント・プライスとアシスタント

最初のマジックショーのシーン。まずはプライス演じるマジシャンが、光と煙と共に、突然ステージ中央に出現します。

フラッシュアピアランス

この現象は実在し、“Flash Appearance(瞬間出現)”等の名前で知られますが、劇中では箱も台も無いステージ上にきれいに出現しますので、ここでは映像の特殊効果が用いられていると思われます。
そうして登場したプライスが次に演じるのが、何と水芸です。


水芸のワンシーン

と言っても、所謂ファッションスタンドに近い形状の噴水の水を、手にしたウォンドに移し取ってみせたりする、小規模なものです。主役をたてつつ実際の操作はアシスタントが行い俳優の負担を減らす、という計算に基づく選択ではないかと思われます。なかなか的確な判断です。
水芸のフィナーレは、噴水の前を一瞬布で覆うと、水の中から女性が現れる、というものです。脚と脚との間に鏡を張った、スフィンクス式テーブルが用いられています。

水芸のフィナーレ

ところがどうしたことか、カメラポジションと俳優の立ち位置が悪く、テーブルの下にその横に立つプライスの足が、はっきりと映ってしまっています。通常ならばリテイクになるショットですが、何故かそのまま使われています。スケジュール等、何か抜き差しならない事情でもあったのでしょうか(現在のビデオと異なり、当時のフィルムは撮影の完了した後、現像・プリントを経た数日後にならないと、撮影した映像の確認が出来なかった。この映画は3Dなため、更に日数を要したと思われる)?あるいは、普通人間はテーブルの下など注目しませんので、ラッシュ(内容チェックのためのスタッフ試写)を観ても誰もプライスの足に気付かなかった可能性もあります。3Dに気を取られていれば尚更です。いずれにせよ、これも当時のマジシャン達の反応が気になるところです。

続いて登場するのが、電動回転鋸による人体切断。

回転鋸の人体切断 シーン1
回転鋸の人体切断 シーン2

ガリコの新作として紹介されます。ベッドの中央部分が凹み女性はそこに上半身を隠す、すると偽の頭部が現れる、と説明されますが、これはむしろ、“Girl Without a Middle(胴体の無い女性)”の原理に近いものです。映画後半では、この用具がオーモンド殺害の道具として利用されることになるわけです。もしかするとこの映画は、1920年代のホーレス・ゴールディン×P.T.セルビットの胴切り考案者論争にヒントを得ている可能性がある、と私は推測しています。

もう1つ、クリマトリアム(火葬場)イリュージョンもスタッフの創作です。

火葬イリュージョン シーン1
火葬イリュージョン シーン2

棺位の大きさの箱の中に仰向けに寝たまま、その箱に点火します。すると箱内の人物が消失し、ステージ後ろから登場する、という現像です。ベッドの床がどんでん返しに回転し下に抜けられる、という種明かしがなされますが、やや説得力に欠けた説明です。“Cremation(火葬) Illusion”も実在しますが、種は異なります。もう御明察の通り、プライスとヒーロー役の警部補がお互いをこの装置の中に押し込もうと揉み合いになるのが、後程映画のクライマックスとなります。

リナルディを殺害したガリコは、得意の変装で彼に成りすまし、マジックショーを開演します。
ここでまず演じられるのが“消える鳥かご”です。

消える鳥かご シーン

通常ならば主演者が身体にギミックを装着しますが、ここではアシスタントが消失のセットを身につけ、その鳥かごに布を被せてマジシャンに受け渡す時に密かに助手が鳥かごを消し(これがおそらくボブ・ハスケル)、鳥かごを受け取った(振りをした)マジシャンがそれを鮮やかに消してみせる、という流れに改められています。これもおそらく、俳優に負担を掛けさせないための配慮と思われますが、編中私が最も感心した演技でした。
続けて演じられるのがカードソードです。

カードソード シーン

これは前述通り、ボブ・ハスケルのレパートリーということもありますが、空中を舞う一組のカード、そしてその中に突き出される剣、という絵柄が真に3D向きであり、また剣という素材がさりげなく殺人を連想させ、理想的な選択と言えるでしょう。カメラに向けてカードを飛ばすと何故かそれがマジシャンに向けて戻ってくるという設定、選ばせるカードは三枚、ただし選ばせる過程は省略されていました。

以上が、マジック絡みのシーンということになります。前妻のクレアは単に絞殺されてしまうのが、ちょっと残念です。もし私ならば例えば、ポケットからロープを取り出すが首を絞めるには短か過ぎる、そこで両手でロープを引っ張って伸ばし…というような流れにしたいところですが、いかがでしょうか?

ここで少し、俳優とマジックの関係性について私見を述べます。
私自身の経験では、名優・ベテランと言われる役者程、ことマジックを演じるシーンになると異常に緊張したり、いくつかレパートリーの候補を用意するとあえて一番難しいものを選んだりしがちです。これは、“舞台で演技することにかけては私は一流なのだから、初体験のマジックだからと言って恥ずかしいものは見せられない”というプライド・矜持の所以だと思われます。また、これはジャグラーやマイム役者にもよくあるのですが、逆に自身の生身の肉体だけによらず種・仕掛けの補助を必要とするマジックを、一段下の物と見下す傾向のある方々もおられます。
そこでプライスの場合ですが、ファーストシーン、ショーの準備で大勢の人間が右往左往するロングショットの中にも関わらず、あれが主役のマジシャンだ、とすぐに分かる存在感・朗々とした美声は流石です。マジックに関しても、真摯に取り組んでいるように見受けられました。プライスが最晩年まで愛され続け現役でいられたのも、そこに答えがあるような気がします。

実は私は実際に観賞するまで、この映画のストーリーをただ“狂ったマジシャンが、マジックの演目を用いて次々殺人を犯してゆく”だけの内容であろうと高を括っていたきらいがあります。

ロビー・カード
クレアを絞殺しようとするガリコ
マジシャン、ガリコ(ヴィンセント・プライス)

まさか、人気実演家とその陰に隠れた優秀なクリエイターとの確執を描いた物語だとは、思ってもみませんでした。おそらくガストン・ルルーの「オペラ座の怪人」を下敷きにしたと思われる物語は、特に前半ガリコを、“同情すべき被害者”として描きます。
現在でも、マジックの種明かしやアイディアの盗用はしばしば問題となります。

どうやらマジック界の現状は、1950年代からあまり変わってはいないようです。
あるいは、情報伝達網の発達により、むしろ更に憂慮すべき世界へと向かおうとしているのかもしれません。

※参考映像:
“The Mad Magician”Blu-ray(Powerhouse Films)

※参考文献 :
“The Complete Films of Vincent Price”
(Lucy Chase Williams, Citadel Press)
“I Like What I Know”(Vincent Price, Open Road Distribution)
“Vincent Price :The Art of Fear”(Denis Meikle, Reynolds & Hearn)

※画像出典:
IMDb(Internet Movie Database)
English Language-Wikipedia

第10回