松山光伸

チャールズ・バートラムと日本
第1回

 開国後の来日外国人マジシャンとして重要な人物は、ドクター・リン(文久3年の来日時はワシントン・シモンズを名乗った)、ジョセフ・ヴァネク(明治7年)、ヴェルテリ(明治8年:本名ジョン・マルコム)が特記されるべきベスト・スリーだと感じます。一方、影響力でいえば東京の大劇場での興行を果たした明治21年のワッシ・ノートン一座が群を抜いており、こちらは多くの新聞紙上で詳細に記事にされるほどの人気でした。

皇室の私邸に単独で招かれて初めて演じた西洋マジシャン

 今回紹介するのは、彼らとは別の意味で日本のマジック史に重要な足跡を残した人物です。それが明治34年に来日したチャールズ・バートラム(Charles Bertram: 1853-1907)で、彼は二つの点で大きな意味を持っています。
 その一つは、初めて単独で日本の皇室一家に手品を演じた西洋マジシャンになったことです。それを理解するために、まずは皇室と大衆芸能のかかわりの歴史を知っておく必要があります。そもそも明治を迎えるまで天皇陛下は大衆の演芸を直接目にする機会はなく、歌舞伎なども低俗なものとして忌避されていました。幕末に海外からやってきた初期の外国人もその多くは浅草を訪れて芝居小屋を覗いたり歯磨き売りの松井源水が客寄せに演じていた大道芸(独楽の技)に接して目を見張ったりしていたものの、いずれも高尚な演芸とは認識されてはいませんでした。急速な西洋化の中でこの状況は対外的にもみっともないことで「演劇改良運動」の機運が本格化したのはようやく明治19年のことでした。

 天覧能こそ明治9年に実現していましたが、これは例外ともいえるもので、陛下がはじめて大衆芸能を目にしたのは明治19年11月1日のことでした。それはなんとイタリアから来たチャリネ曲馬団男女数十名の演技鑑賞だったのです。皇居内の吹上御苑に特設された曲馬場で行われた乗馬曲芸十数番を皇后陛下と一緒にご覧になったのが大衆芸能を楽しまれた嚆矢で、外国人がその栄誉を受けていたのです。

チャリネ大曲馬御遊覧の図(画:楊洲周延)

 次いで明治20年4月26日にようやく歌舞伎が当時随一の大きさを誇った新富座で執り行われました(歌舞伎座ができたのは二年後の明治22年)。その新富座は初めてガス灯がともされた最新の劇場として知られていました。一方、手品の天覧の機会は意外に早く訪れています。歌舞伎の天覧が実現した翌月の明治20年5月7日、有栖川邸に行幸された際に帰天斎正一が晩餐後の余興で御覧に入れたのが最初でした。次いで明治25年7月4日に後藤邸で松旭斎天一が、5日後の7月9日には鍋島邸で春風蝶柳斎(後の3代目柳川一蝶斎)が、陛下が行幸された先での余興としてその演技を御覧に入れています。ただ、天一と蝶柳斎についてはどちらも講談師などと一緒に招かれた余興でした(『明治天皇紀』で確認できます)。
 一方、今回取り上げたチャールズ・バートラムの場合は、後述するように当初こそ天覧に向けたアイデアも取り沙汰されましたが、実際には皇太子殿下(後の大正天皇)の私邸(葉山の御用邸)に外国人でありながら単独で招かれたものでした。直接殿下と言葉を交わしながら演じるなど破格な扱いを受けており「事件」ともいえるものでした。 日本では無名だったバートラムの来日がどのように伝えられ、どのように声が掛けられたのかはきわめて興味深いところですが、氏自身の体験談や宮内庁の記録を追っかけることで演技内容など当時の様子が分かってきました。

日本手品に関心の高かったバートラム

チャールズ・バートラム

 もう一つの重要な点は彼が西洋マジシャンの中で、日本に早くから興味を持ち本格的に日本手品に取り組んだ初めてのマジシャンだったことです。
 ところが実際にはエドワード七世(1841-1910)が皇太子だった1882年頃、バートラムの評判を聞き及んだ彼がMarlborough House(皇太子のロンドンにおける社交用の館)で演じてもらったのを手始めに、その後少なくとも21回は招いたほどのお気に入りの人物でした(”Isn’t it wonderful”, 1896, p.71に記載)。
 Court Conjurer(宮廷手品師)と称された由縁がここにあります。

当時のMarlborough Houseの内部

 その彼の日本贔屓ぶりは早くから現れています。“Charles Bertram, The Court Conjurer” (1997, Edwin A. Dawes) によれば、現存しているもっとも古い彼のプログラムはプロになった前後の1881年12月8日にロンドン西部のターナム・グリーン(Turnham Green)で演じた “Bertram’s Séance Magique” の時のもので、この時点ではすでに本格的なショー構成が出来上がっていたことが確認できます。そしてそのフィナーレを見ると、そこになんと “A novel Japanese Illusion, entitled NAKITO”という演目があり、早くから日本の手品に親しみを感じていたことがわかります。ここでいう「優雅な日本手品」(a novel Japanese illusion)が一体どんなものだったのかが気になります。

1881年12月8日から演じられたプログラム

 この興行は2、3週間続けられましたが、年が明けた1月25日にシャーリエ(M. Charlier:注)という引退マジシャンのために彼が行った慈善興行でもほぼ同じプログラムが演じられ、ここでも最後にNAKITOという演目で締めくくられたことが報じられています。
注:フォールス・シャフルの一つとして知られるシャーリエ・シャフルを考案した人物で親交が深かったようです。

シャーリエのための慈善興行でもNakitoが演じられたことを報じる記事
(The Observer, Jan 29, 1882)

 その彼は、1885年(明治18年)3月16日から5月の初めまでロンドンの中心にあるセント・ジェームズ・ホールの小ホール(Drawing Room)でワン・マン・ショーに打って出ることになりました。 その時のポスターで目を引くのは、日本の芸姑さんや提灯のシルエットがデザインされていることで、ことさら彼の日本趣味が強調されたものになっていることです。ただ、このポスターには演目は一切書かれておらず、皇室の面々の前で演じた時の評判を記した新聞評を中心にして、左側の枠の中にはPrince of Wales(皇太子:後のエドワード7世)をはじめとして、その家族や多くの貴顕の名を掲げて彼らの面前で演じた実績を誇示したものになっています。

 前述したように、1882年以来バートラムはPrince of Wales(皇太子)の社交場だったMarlborough Houseに何度も招かれパーティなどでマジックを披露していました。皇太子が開いたそういったパーティの場などに同席していた人物の名がここに記されているのです。バートラムの伝記記事や新聞の演技評を見る限り、演じられたのはいずれも西洋奇術がほとんどで、この時も最後の二週間のみJapanese IllusionのNakitoがフィナーレに演じられました。ところがいまもってNakitoがどのようなものだったのかは謎に包まれたままです。
 当時の事について詳しく調べたピーター・ブラニング(Peter Brunning)によれば、このセント・ジェームズ・ホールにおける興行は後述する「日本人村博覧会」と競合したこともあって収益的には失敗だったとされ、資金繰りには大変苦労していたことが分かっています。そのことは当時の民事裁判の記録から掘り起こされました。実は、バートラムはこの時のショーの飾り付け用に日本人の商人からランタン(提灯)などいくつかを借り出していますが、その支払いをしてなかったため訴訟を起こされていたのです(News of the World, 1886, August 15, p.5に裁判記録が掲載されています)。続報を見ると、その後支払いが約束されたため訴訟は取り下げられたとありますが、そのいわく付きのランタンが正にプログラムに描かれていたのはなんとも興味深いところです。

1885年のセント・ジェームズ・ホールで行われたバートラムの広告

 1885年になるとロンドン中心部で「日本人村博覧会」(Japanese Village)が開催されました。日本人の血を引くと自称するタンナケル・ブヒクロサンが率いて実現した大掛かりなもので、途中で火災事故という不幸にあったにもかかわらず数カ月で再開場を果たし、2年以上にわたってジャポニズムを巻き起こしたイベントでした。その会期終盤にあたる1887年4月11日から会場内の芝居小屋(Theatre Nippon)に、バートラムは3時からの部と8時からの部の二度出演していることを示すプログラムが残されています。ただこの場でNakitoが演じられたかどうかは不明です。ちなみにこのプログラムを見ると皇太子の前での彼の演技はその時点では累計10回だったことがわかります。

1885年のセント・ジェームズ・ホールで行われたバートラムの広告

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