松山光伸

国際芸人の先駆者、ジンタローの生涯
第1回

 明治から大正にかけて英国を中心に活躍した日本人芸人が偶然に見つかった。彼は西洋奇術史の黄金期の最重要人物とされるあのマスケリン(John N. Maskelyn)やデバント(Devid Devant)らと長きにわたってステージショーを繰り広げたジャグラー(曲芸師)だった。

 パスポートが初めて発行された直後の幕末の慶応年間以降、軽業師等の一座が相次いで渡航し欧米各地で大変な評判を勝ち得たことはかなり知られている。ところが今回見つかった人物はそれらの先人に勝るとも劣らぬ足跡を残していたのである。

 ここでは調査の流れに沿って具体的な史料を紹介しながら、この人物の変化に富んだ一生を共に追体験してみたい。

きっかけ

 平成16年の5月の連休のこと、まだ滞在したことのないロンドンで過ごすことを考え現地に降り立った。特に目的はなく、19世紀後半にマジックの殿堂として有名だった「エジプシャン・ホール」の現在地の様子を眺めたり、機会があれば世界で最もクローズドで格式のあるマジック・クラブとされる「ザ・マジック・サークル」にも立ち寄ろうかと、その住所を控えた程度の軽い気持ちだった。

写真1:セント・ジョージ・ホールの本
写真1:セント・ジョージ・ホールの本

 初日は連れがダウンしたため、一人、ダベンポート・マジックショップに出向き、「エジプシャン・ホール」が有名だった頃のことを記した本がないかどうか尋ねると、それはないがこれならあると言って手渡された本が分厚い「セント・ジョージ・ホール(St. Goerge’s Hall)」というタイトルの本だった(写真1)

 それは馴染みのないホールの本だったが、エジプシャン・ホールと同じくらい重要な意味のある劇場であったにもかかわらず、いままで詳細な研究がなされていなかったため、コレクターのジョン・サリッセ(John Salisse)とマジシャン一家として有名なダベンポート一族の3代目の夫人であるアン・ダベンポート(Anne Davenport)が当時の細かなメモや記事をもとにまとめた労作ということがわかった。

写真2:ジンタローの立ち姿
写真2:ジンタローの立ち姿
(所蔵:Peter Lane氏)

 そしてパラパラとめくってみると凛々しい立ち姿のM. Gintaroの写真が目に入った(写真2)。どうやらいままで日本では知られていない人物がこの時代のロンドンで活躍していたらしいと何はともあれ買い求めることにした。実際ページをめくっていくと彼は「エジプシャン・ホール」から「セント・ジョージ・ホール」にマスケリンのショーが移動した1905年の当初から重用されていたことや、1930年までこのホールに頻繁に出演していたことがわかり、これはきちんと紹介しなければいけない人物と思うようになった。とはいえ、これだけでは内容が乏しく何らかの追加情報が欲しくなってくるが、何といっても100年も前のことである。

ザ・マジック・サークル

 いずれにせよロンドン滞在中に次に繋がる何らかのツテを確保しておく必要があると考えザ・マジック・サークルを訪れることにした。やっと連絡がとれ運良く訪問できたのが本購入後4日目のことであった。移動が一切ないロンドン1ヶ所だけの滞在スケジュールにしていたことが幸いだった。

テリー・ライト氏(左)とマイケル・ピアース氏(右姿)
写真3:テリー・ライト氏(左)とマイケル・ピアース氏(右)

 会員以外は入館が許されていないが、当方がマジシャンということで、会員が集まる日に特別の計らいで招いていただいことは幸運だった(写真3)。いろいろ内部を丁寧に案内していただく途上、「セント・ジョージ・ホール」の本を示しながら「Gintaroという人物の存在を知ったが日本では知られていないので、何らかの追加情報が手に入らないかと思って来た」と訪問の意図を伝えると、急遽、ライブラリアンのテリー・ライト氏(Terry R. Wright)がサポートしてくれることになった。

 氏が最初に出してきたのは ”Who’s Who in Magic (Bart Whaley, 1990)”という古今東西のマジシャン紳士録で、これによってGintaroの人物チェックを試みようとしたものだった(見るまでもなくここにはGintaroの名がないことは承知していた)。次に出してきたのは、ザ・マジック・サークルの初代会長でマスケリンと並んで高名なデバント(David Devant)の自伝「私のマジック人生(My Magic Life, 1931)」だった。「セント・ジョージ・ホール」の本にGintaroがマスケリンやデバントと接点があったということが記されていたためデバントの自伝で確認しようという試みである。そしてこの中にデバントが少年Gintaroに出会い、その演技に魅了され、いずれは自分のプログラムの一端を担って欲しいと申し出ていること、また、1907年にウィーンにデバント等と遠征公演をしていることが書かれていた。

 この場ではこれ以上の情報を見つけるのは難しい、ということで該当ページのコピーを頂戴し、あとはどうしたものかと思っていると、横から年輩のジャグラーであるマイケル・ピアース氏(Michael Pearse)が話しに加わり、「Gintaroの演技は小さい頃一度見た記憶がある。確か、Gintaroの記事を持っていたように思うので、探して後日送ろう」と約束してくれた。この時の訪問がその後の調査に向けての重要な足掛かりになったのは言うまでもない。このザ・マジック・サークルでは、内部の見学のみならずメンバーのためのショーも楽しむことができ、非常に中身の濃い訪問となった。

ストランド・マガジン

 次の手がかりとして考えたのは「セント・ジョージ・ホール」の著者に直接問い合わせて、本には記述できなかったGintaroに関するその他の情報がないかどうかを聞いてみることであった。2人の著者のどちらも連絡先が示されてなかったが、アンの方は、身内のダベンポート・マジックショップ経由で連絡がとれるはずと考え、日本に戻ったその日に協力依頼を発信した。その後連絡がとれた彼女の話によると、こまごまとした資料そのものはコレクターのジョン・サリッセ氏が持っているとのことであったが、ジョンは高齢で体調が優れないこともあって実質的には調査をお願いできる状況にはなく、新しい情報は得られなかった。ただ、アンからは「デバントが著書の中で触れたGintaroは当時少年で、その時期は1890年頃であることが読み取れる」と教えてもらうことが出来た。

 一方、マイケル・ピアース氏が探し出したGintaroの記事が思いがけなく早くテリー氏を経由して手元に届いた。有難い事に、これ以降ザ・マジック・サークルでわかった情報はすべて、テリー氏が仲介してやりとりしてくれた。驚いたことに、ピアース氏から送られてきた記事というのは、新聞の切り抜きではなく、ストランド・マガジンという専門誌にGintaro本人が書いた7ページもの論文だったのである。

テリー・ライト氏(左)とマイケル・ピアース氏(右姿)
写真4:ストランド・マガジンに出たジンタローの論文

 タイトルは「日本の曲芸(Japanese Juggling Tricks)」で、そこには、四角い木の箱を積み上げてバランスをとる芸(枕返し)や、傘の上で小物を回す芸(傘の曲)といった太神楽曲芸をはじめとし、曲独楽のいろいろ、水の入った壷を長いロープの両端にぶら下げてそれをこぼすことなく振り回す芸(水流星)、更には薄い紙で両端を支持した水平の棒を紙にダメージを与えることなく木刀で2つに分断したり、壊れやすいコップや玉子を積み重ね最後に玉子を水入りコップに着水させる慣性を利用した芸、コップを逆さにもってその底面に置いたコインを息を使って立上げ回転させるお座敷芸など、幅広いジャンルの芸が解説されていた(写真4)

 この記事の英語化や写真撮影には、現地の人の協力を得ているものの、この種の解説が当時の海外の雑誌に日本人の手で書かれていたことは驚くべきことである。ちなみに、マジックの関係で日本人が海外の雑誌に同様な論文を明治から大正にかけて書いたものがあったかどうかを考えてみるとそういったものはいままで皆無であり、この論文はかなり重要な意義を持つと共に正に快挙と言えるものである。更に、この記事で特筆すべきは、いくつかの芸の起源に関していままで聞いたことのない歴史が紹介されていたことである。

 例えば、木箱を使った芸の起源は、ある罪人が牢屋で使っていた高枕の木箱がその原点で、これを投げ上げ、もてあそびながら運動不足を補ったことに端を発し、それを芸に昇華していったという説を紹介している。また、傘の上で小物を回す芸は、ストリートパフォーマーのグループが城外で芸を見せていた際に崖の上から見ていた子供がふざけて小石を芸人に投げつけることがあって、それが翌日も行われるに及び、リーダー格の芸人が傘を広げ回転させることでそれを撥ね付ける内に、ある時小石が傘の上を回転することに気付き、それを芸に仕上げていったのが発祥の起源だったという話を記している。いずれも聞き伝えの話としての紹介ではあるが十分ありうる話と説明されていた。

 こういった記事に接するに及び、マジック史における役割とは別に、日本の曲芸界でもGintaroは知られていない人物なのか、そして、これらの曲芸の起源が耳新しいものなのかについても見極めたくなった。

                                  第2回