松山光伸

国際芸人の先駆者、ジンタローの生涯
第3回

セント・ジョージ・ホールに通った住まい

ジンタロー
写真8:ジンタローの住所が記されているレターヘッド
(所蔵:Peter Lane氏)

 一方、テリー・ライト氏からは引き続き断片的な情報が寄せられ、本名はMuzuharaらしいこと、海外への遠征先としては「セント・ジョージ・ホール」に記されている国以外に、南アフリカ、ローデシア、アメリカ合衆国にも行っていること、最後の住所が印刷されたレターヘッド(名前入りの便箋)が見つかったこと(写真8)、Ziskaの名前で演じていたこともあったこと、本人が持っていた漢語で書かれた記事の切抜きが見つかったことなどの連絡があった。

 Muzuharaという苗字は日本語を正しく置き換えた綴りとは思えなかったがそれなりに重要な情報だった。というのもこの姓はそれまで目にしていた幕末から明治初期の渡航芸人の記録にはどこにも現われないため、それらの一座との直接的な関係が薄れたこと、そして、もう一つはこの住所と姓によって公文書等の記録を探す手掛かりが得られたことである(最終的にはMuzuharaの綴りは誤りだったことがわかった)。

 一方、住所情報を頼りに彼が住んでいた場所がどういうところだったのかを調べ始めた。彼が居を構えたシェパーズ・ブッシュ(Shepherd’s Bush)という所はロンドン中心から西方に位置し、セント・ジェームズ・ホールからも約6キロ離れた場所だった。100年前のことでもありこれだけの距離をどのように毎日劇場に通ったのかという疑問が頭をかすめたが、その頃はキャリッジ(馬で引く車両)による交通手段が広く発達していて移動には全く支障がなかったようだ。

 ところがその後更に判ったのは、この時期には既にいくつかの地下鉄が開通しており(ロンドンでは1863年に世界最初の地下鉄が開業)、彼がセント・ジョージ・ホールに出演しはじめた1905年には、シェパーズ・ブッシュから劇場のあるオックスフォード・サーカス迄、一本で行ける路線も完成していたのである。ちなみに、日本の地下鉄は昭和2年(1927年)12月30日の上野~浅草間の開業が最初であり、地上を走る鉄道でさえ新橋~桜木町間が開通したのは明治5年(1872年)であったから、ジンタローは国力の差を痛感していたに違いない。

 さらに判ったのは、このシェパーズ・ブッシュは、1908年にオリンピック大会が開催された場所であること、また1910年には期間中800万人以上が入場したとされる日英博覧会が5カ月半にわたって開催されていたことなどである。となると、ジンタローがこの場所に住居を構えたのは、これらの国際イベントの前なのか、後なのかが気になりだした。それによってこの地に住み着いた動機もうかがえると考えたからである。

住所地の役所で得られた手がかり

 さて、住所が判ったということは、そこを管轄する役所には当時そこに住んでいた人物についての何らかの記録があるはずで、それを確認しようと現在の管轄行政区がハマースミス・アンド・フラム(Hammersmith and Fulham)であることを割り出した。そしてその戸籍部門とのやりとりを経て貴重な情報を数多くもらうことが出来た。最初に提供を受けたものだけを記述してみると、

  • 姓も名も、種々の似て非なる綴りが書かれた資料が存在するが、納税者名簿、投票資格者名簿、埋葬記録等を見る限り、大多数はミズハラ(Mizuhara)姓であること。(Muzuharaではなかった)
  • 彼がシェパーズ・ブシュの記録に最初に現れるのは1910年4月の納税者名簿であること。その後2度にわたってシェパーズ・ブッシュ内で住所を変えていること。
  • 同居人にイザベラ・ミズハラ(Isabella)という夫人らしき人物がはじめて出てくるのは1921年の投票資格者名簿であること。またジンタローは1914年の納税者名簿では外国人と付記されているため、その時点ではまだ帰化していないこと。
  • ジンタロー
    写真9:シェパーズ・ブッシュの町並み
  • 1929年5月から1936年10月迄の投票資格者名簿には、ジンタローとイザベラ以外に、エリザベス・ウェィア(Elizabeth Weir)という人物も同じ世帯に出現すること、その後1951年11月迄はジンタローとエリザベスの2名に減り、1952年の11月の名簿ではエリザベスだけになること。
  • イザベラは1937年に72才で亡くなり、ジンタローは1952年10月に77才で亡くなっていること。共に埋葬地はハマースミス・ニュー・セメトリーで、具体的な埋葬区画についても調べてくれたこと。
  • 彼の名がシェパーズ・ブッシュの納税者名簿に初めて載った1910年に、日英博覧会があり、公式ガイドブックを確認してくれた上で、日本の有名な16代目松井源水が芸を見せるという記述があることから、ジンタローがそれに関係してた可能性を指摘してくれたこと。

 これほどまでに重要な情報が手に入ると思っていなかっただけに、ここに至ってジンタローが一気に近しい存在になってきた。送ってもらったシェパーズ・ブッシュの当時の写真を見ると想像していた以上にきれいに区画整理された町で(写真9)、思わずタイムスリップして歩いて見たくなる程の清潔感ある街並みであることに驚いた。

渡英日の疑問と公的記録へのアプローチ

 大きなポイントはわかってきたものの、いつ何才の時に渡英したのかという重要な情報が一向につかめない状態が続いた。また、情報の信頼性を確実なものにするためにはメールによる関連情報のやりとりだけでなく、主要なものについては現物を入手し自分の目で確認する必要があった。

 渡航日の特定方法としては、英国サイドで調査をする場合は、国立公文書館(National Archives)に当たらなければならず、また、日本では外務省の外交史料館で旅券の発行記録を調べる必要がある。特に英国側にある史料は自分で調べるというわけにはいかないため、現地の有料調査員に依頼せざるを得ず費用的にも問題が出てくるが、費用をかけたとしても実際に見つかる保証があるわけではない。

 それに対し、日本では自分で直接マイクロフィルムや古文書を調べることが可能なため、実際に何度も足を運んで調査をすることにした。自分でやってみれば英国の調査員にお願いする場合でもどのような指図をすればうまくコミュニケーションがとれるのかという要領がつかめるという思いがあったことと、日本の記録に当たらない限りミズハラ・ジンタローの漢字表記が特定できないという思いもあった。

 旅券発行記録の調査は、7、8才と思われる1883頃から現地での活躍が明らかになっている1891年までを対象として、開港場を持つ府県庁別に発行した記録と、外務省本省で発行した記録(いずれも手書きでフォーマットはすべて異なる)をページ送りしながら探っていく根気のいる作業である。実際にやってみると当時こんなにも海外に出国した人がいたのかと思うほど多くの人が渡航をしていることがわかったが、結局のところジンタローの旅券記録は見つからなかった。

 一方、本人の死亡証明書(死亡届)や結婚証明書(結婚届)を現地から取り寄せる作業には少し手間取った。当時の証明書原本は手書きであり、データベース化されているのは「1837年以降の死亡・出生・結婚証明書の所在を索引化した総合台帳」だけなのでそれを頼ることにした。これをオンラインで検索し、当該記録がどこに収められているかを確認し、しかる後にその記録を管轄している現在の行政区か国立公文書館の戸籍部(GRO)にそのページのコピーを申し込むという手順を踏むのである。

 日本とは違いオンラインの行政サービスが整っていることには驚かされたが、検索するには検索対象者の苗字の先頭の3文字と証明書が発行された時の該当年月を入れなければならないことが判ったため、結婚年月がわからない結婚証明書などは探しようがないというジレンマに陥ることになった。もちろん時間をかけて延々とページをめくっていけばいつかは発見できる理屈であるが、このオンライン台帳は1ページ覗くごとに費用がとられるので、無駄な時間とお金を使わされてしまうのである。とはいえ、結婚証明書の様式には、届け出た時の住所や、旧姓のほか、父親の名前や職業が通常記載されているらしく、何としても入手したいものなのである。

見つかった婚姻届

 さて、前述したようにイザベラがジンタローと一緒に投票資格者名簿に出てくるのは1921年なので、その直前に結婚しているものと考え、順次、月日を遡って調べたが、そんな簡単に見つかるものではなかった。あとで教えてもらってわかったのは、当時、選挙権は男性が21才以上、女性が30才超となっており、それも自ら申し出てはじめて投票資格者名簿にリストアップされるルールになっていたとのことで、同居者として一緒に投票資格者名簿に出たという事実と結婚の時期とは無関係だったのである。紆余曲折した結果、二人は1906年11月に結婚していたことがわかった。

 ところで、死亡届によってイザベラはジンタローより10才年上だったことが判っていたが、入手した結婚届を見ると新婦は実際の年齢よりも若く、新郎は逆に年齢を多く記載していた。結婚届では年齢は作為的に変えることが多いとの話があったので多分その類のご愛嬌と理解できるが、新しい発見としては、ジンタローの父親の名がアサジローで、その職業はマーチャント(商人)であること、一方、イザベラは未亡人で、直前の姓はマックアンドリュー(McAndrew)、またイザベラの父親の名はウィリアム・アービン(William Irvine)で海軍の船乗りだったことがわかった(写真10)

ジンタロー
写真10:ギンタローとイザベラの結婚届の写し

 いままで子供と思っていた同居人のエリザベス・ウェィア(Elizabeth Weir)の姓は、イザベラの前姓(前夫の姓)と違うのみならず、旧姓(父親の姓)とも違うため、どうやらジンタロー夫妻の子供でもなければ、イザベラの連れ子でもないということがこの結婚届を確認したことで判ったのである(後にウェイアはイザベラの姪であることがわかった)。

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