松山光伸

国際芸人の先駆者、ジンタローの生涯
第4回

新聞や雑誌記事の入手

 前述したように、どうしても見たいものに Ally Sloper’s Half Holidayの記事があった。この記事を確認するために力になってくれたのが、前述のテリー・ライト氏で、氏は大英図書館(British Library:日本の国立国会図書館に相当)に出向いてくれたのである。該当号(1891年12月12日号)を見て報告してくれた内容は、驚きであった。

  • ジンタローが演じた場所は、Westminster Aquariumで、ショーは12:30から夜の11:25迄11時間も続くものだったこと。
  • 当時、この場所は、毎日長時間にわたって頻繁にエンターテインメントのショーが繰り広げられていた唯一の場所だったこと。
  • 演者として記事に出てくるのはジンタローを含めても10人足らずで、自転車の曲乗り、動物ショー、水中バレー、サムソンの剛力ショーといったものが演じられていたこと。
  • ジンタローはイラストで紹介されている3人の出演者の一人で、ブロックを使ったバランス芸の姿が描かれるとともに、本文では「頭のいいジャグラー(very clever juggler)」と紹介されているのみで、「英国の演芸場ならどこにも出演している人物で、水中曲芸を演じた」とは書かれていないこと。
ジンタロー資料
写真11:初期に活躍したことのあるロイヤル・アクエリアム

 別途、この会場がどういう性格のものだったかを、各方面に当たって調べた結果、正式にはWestminster にあるRoyal Aquariumと言い、インペリアル劇場も備えた堂々たる立派な建物である。建物名にあるように小さな水族館が付随しているものの(多分、水中バレーは水族館を利用したと思われる)、その当時はショーの会場として頻繁に使われていたとされ、有名なマジジャンだったチャールズ・バートラムもここで演技を行なっていたことがわかった(写真11)。建物が完成した後もこの水族館は長い間オープンすることはなかったことから「魚のいない水族館」と揶揄されていたいわくつきのところでもあった。いずれにせよ英国到着後まもない頃と思われる1891年に、若きジンタローが大勢の観客を相手に長時間の演技を行なっていたことが確認できた。

 ほどなく、大英図書館でも海外からの注文を受けてこの種の資料を複製し送付するサービスを実施していることを知った。戸籍証明の取得と同じように、かなりのやりとりを経たが、このサービスのおかげでAlly Sloper’s Half Holidayの記事のみならず、ストランド・マガジンの記事についてもコピーを入手することができた。

ピーター・レイン氏の個人コレクション

 ジンタローが持っていたとされる漢語で書かれた新聞の切抜きや、Ziskaの名前で演技していたという情報が伝えられてきたということは、既に触れた。

 漢語の切抜きについては、ほどなく孔子の論語の一部である「為政第二」の冒頭部分であることを突き止めた。これは為政者の心構えを説いた部分である。なぜ彼がこれを持っていたのかいまだに不明である。子供が渡航時からもっていたとは思いにくい。ある時期に、たまたま出合った日本人の誰かが持っていたものを貰い受け、いつか誰かに内容を聞こうとして持ち続けていたか、内容を知った上で座右の言葉として携えていたのであろう。

ジンタロー
写真12:第2次大戦中にZISKAの名で出ていたステージ
(所蔵:Peter Lane氏)

 また、テリー氏は「ジンタローがジスカ(Ziska)という別名を使っていた」という。どうしてそう断定できたのだろうか。聞いてみて納得した。実は、Ziskaの名が書かれていた別個のレターヘッドが見つかり、そこに記されている住所がジンタロー名の書かれたレターヘッドの住所と同一だったのである。では、どうやってZiskaの名前と使い分けていたのだろうか。セント・ジョージ・ホールのマスケリンとの契約で演ずる際にはジンタロー名で、それ以外の独自に獲得した仕事の場ではZiskaを名乗ったのかも知れない、と推量してみたが、それは誤りだった。というのもZiskaの名が出てくる初めての記事は1943年(昭和18年)のものであったため、日英が敵国関係となった第二次大戦中に、身に降りかかる危険を避けるための苦肉の策だったと考えられるのである。第二次大戦中に滞米生活をしていた石田天海師がその時期ステージ・ネームをウェン・ハイ(Wen Hai)に変えていた話はよく知られているが、それと同じ苦労を強いられていたのである。当然のことながら、それ以降トレードマークにしていた日本の衣装はお蔵入りとなったが、当時の写真を日英が同盟関係にあった第一次大戦中のもの(40才前後)と比べてみると非常に興味深いものがある(写真12、13)。また、彼が少なくとも68才まで現役ジャグラーとしてステージに立っていたこともこの1943年のZiskaの記事があったことで確認できたのである。

ジンタロー
写真13:日英同盟下にあった第1次大戦中のステージ(40才頃)
(所蔵:Peter Lane氏)

 テリー氏が次々と伝えてくれるこれらの情報は一体どのように手に入れたのだろうか。はじめのうちは気にもとめていなかったが、南アフリカやローデシア、更にアメリカ合衆国に行っていたという話が舞い込んできたり、果ては、ジンタローとイザベラの写真が送られてきたりするに及び、とても偶然に見つかったものとは考えられなくなった。そこで遅ればせながら事情を聞いて我が耳を疑った。これらの情報は、ザ・マジック・サークルのエクゼクティブ・ライブラリアンであるピーター・レイン氏(Peter Lane)のコレクションの中に見つかったのである。レイン氏は、ジンタローの地方公演時に助手を務めていたパーシー・メイヒュー氏(Percy Mayhew)が持っていた2冊のスクラップ・ブックを氏の死後親戚が保管していたことを知り、ある時期にそれを手に入れていたのである。まさに幸運の女神が微笑んでくれたとしかいいようがないような驚きだった。

ハリー・ローダーとの出会い、そして米国での活躍

 このスクラップ・ブックには、これ以外に、ジンタローがハリー・ローダー卿(Sir Harry Lauder)の一座に度々参加していた記事があった。ハリー・ローダーという名は日本ではあまり知られていないが、19世紀生まれのスコットランドの代表的な喜歌劇芸人(シンガーソング・コメディアン)である。敢えて日本人に例えればエノケン(榎本健一)のような人物で、知識人にも多くのファンを持ち一世を風靡した大芸人だったようだ。子息を戦争の前線で亡くしたことをキッカケに、最前線で従軍している兵士を慰問する活動やチャリティに人生を捧げ、後年ナイトの称号を与えられ、その芸歴等は資料館になっている程の人物である(グラスゴー大学のスコティッシュ演劇博物館にローダー卿のコレクションがある)。

ジンタロー
写真14:ハリー・ローダー卿との米国行き
(所蔵:Peter Lane氏)

 同じようにナイトの称号を受けたチャーリー・チャップリンと並び称せられるこのハリー・ローダーからの要請を受け、1920年代になるとジンタローはローダーの公演にたびたび参加することになる。例えば、ロンドンのパレス・シアター(1921/3/1~3/31)や、エジンバラのキングス・シアター(1921/8/15~8/20)で行われたショーにその記録が残っている。そして、1922年になると米国に渡って1927年までの5年間を過ごすが、はじめの2年間はローダーの一座と行動を共にし(写真14)、その後の3年は全米を代表するオーヒュアム(Orpheum)とキース・オルビー(Keith-Albee)のボードビル・サーキットに参加して各地で演技を行なっている(注3)。もはや完全に現地に同化した国際的パフォーマーのジンタローの姿をそこに見ることができるのである。

ジンタロー
写真15:関東大震災直後のカリフォルニアの新聞記事
(所蔵:Peter Lane氏)

 スクラップ・ブックにあった地方紙の記事は、そんな米国公演時のものである(写真15)。最初、このスクラップを見せられた時は「いつどこで行われた公演の記事か不明」とのことであったが、記事には明らかに関東大震災のことが書かれていた。となると1923年9月頃のもので、米国公演時の記事ということが判った。ここにある「パンテージス」という名の劇場名は当時各地に存在していた系列館の名前で具体的な公演地の特定には至っていないが、記者の目には、ジンタローの当日の演技が若干精彩を欠いていた感があると写っており、その原因は「日本の首都で空前の大地震が起き、親戚の安否が気がかりだったためだろう」としている。そして、この記事の中に、更に興味深いことが見つかった。それは彼の弟が日本の首相のセクレタリー(秘書)をやっていること、そして、彼自身がこの国にやってくる前に陛下の御前(Mikado’s court)でエンターテイナーとして演技を見せていたという事が記されているのである。出国前の日本での履歴がわからない中で、この情報は極めて貴重である。売り込みのために事実とは無関係な誇大宣伝をする例も多いが、既に一級の契約履歴や公演実績を持つジンタローが、下手をすると信用にかかわる法螺を吹いたとは思いにくいからだ。

注3: このサーキットというのは、全米に広がる劇場やボードビルを組織化することによって劇場と芸人の双方のニーズに応えようとする一種のプロダクション・システムである。本部は、契約した芸人を各地に紹介する仕組みで、質の高い芸人と劇場をうまく組織化したサーキットのみが生き残った。このオーヒュアムとキース・オルビーのサーキットは当時最もレベルの高いものとされ直営の劇場も構えていた。

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