松山光伸

国際芸人の先駆者、ジンタローの生涯
第10回

英国からもたらされた突然の連絡

写真25

 ジンタローの発見に関しては日本経済新聞の紙面で紹介したのに合わせ、ザ・マジック・サークルの月刊機関紙「ザ・マジック・サーキュラー(The Magic Circular)」への掲載にも挑戦した。英国の読者の中にジンタローの情報を持っている人物がいるかも知れないとの思いからである。数ヶ月分の紙面が既に埋っていたこともあって、掲載が実現したのは2005年の新年号となったがその分内容的には日経の記事よりも詳しいものになった(写真25)

 発刊の報は年末も押し詰まった12月29日にあったが、2つの驚くべきニュースが同時に飛び込んできた。1つは、掲載の労をとってくれた編集長のピーター・マッキャホン氏(McCahon)が2週間前に突然亡くなったという報である。この編集長の快諾なくしては、この寄稿記事が載ることは不可能だったばかりか、重大な情報が読者からもたらされることもなかったのである。テリー氏の校正協力を得られたことと合わせ、ここまでの協力に感謝するばかりである。そして、もう一つの驚きはジンタローの道具を持っているという王室芸人TARO(Taro the Jester)、本名スチュワート・フェル氏(Stuart Fell)からのメールが舞い込んだことである。

 今回の記事をいち早く目にとめたフェル氏の話では、「20年程前、ブロック芸をしているZISKAの写真(第4回の写真12)の中でGintaroの後ろに立っている人物から古いジャグリングの写真と道具を買いとった。その人物はZISKAが引退する前までGintaroのステージ・アシスタントだったということで、舞台で使われていたとされる壊れたブロックや、10個の曲独楽、2つの扇子、2つの傘、等が手元にある」という信じがたいものだった(写真26)。その人物は、ジャック・テイラー氏(Jack Taylor)、芸名をタール・ジャックス(Tal Jacks)といい、その後まもなく亡くなったという。テイラー氏は2メートルもある長身だった、とのこと。写真の中には、甚太郎がストランド・マガジン誌で触れていた通り、現地で製作させた曲独楽を手にして、その出来不出来を選別している貴重なものもあった(写真27)

ジンタロー資料
写真26
(撮影:Stuart Fell氏)
ジンタロー資料
写真27
(所蔵:Peter Lane氏)

甚太郎の生い立ち

図1
図2

 最後の謎がこれである。夷町にいた愛敬兄弟の母親が甚太郎の母ではないとの報告があった時は、もはやこれまでと諦めかかったが、それまでに得た情報を使って、ミズハラと愛敬の2つの家族の動きを整理したところ、そこから真相が浮かび上がってきた。驚いたことに「甚太郎の母が再婚したAIKIO氏はこの兄弟の父親に違いない」と考えていた仮説は大間違いで、本当は「二人の兄弟のうち、ドイツ人女性と結婚しスイスで亡くなった兄が母の結婚相手だった」のである(図2)。というのも愛敬兄弟の父親は甚太郎が渡英した1887年(明治20年)には既に他界しており、その一方で、愛敬兄の渡航時期が甚太郎の渡英タイミングと符合したからである。加えて、この兄はドイツ人と結婚したほど語学が得意だったため甚太郎の渡英に同行し得たものと考えられる。すなわち、ここにいた愛敬兄こそが甚太郎の継父になった人物であり、その住居を甚太郎が留守宅としているのは当然のことだったのである。

 ところがそれを確認すべく更に問合せをしてみて驚いた。実は愛敬一家がまだ熊本にいた明治10年、この兄には失踪届が出されており、その後明治33年になってドイツ人妻との結婚と帰国の事実が届けられ、失踪が解除されたというのである。従って、失踪中の20数年の間に仮に甚太郎の母と所帯を持っていたとしても届出をしてなかったがために一緒になった記録が戸籍上は確認できないのである。とはいえ海外に一旦出て、その後戻ってきたことだけはハッキリしており、この愛敬兄こそが甚太郎の渡英にあわせて一緒に出国した継父だったのである。改めて整理すると次のようになる。

  • 甚太郎の母は前夫に死なれた後、たまたま熊本から長崎に来ていた愛敬兄と知り合って一緒に暮らすようになった。
  • 表向きは再婚と称し、ミズハラ一家は愛敬姓を名乗るようになった。ただ正式に入籍されていないため、ミズハラ兄弟を愛敬姓の家族として戸籍から探すことは出来ない。
  • 一方、愛敬兄の熊本の実家ではいつまでも戻らない本人に対し失踪届を出した。
  • 元来気の多い愛敬兄は、外国語にも才があったため、甚太郎の渡航話に乗って一緒に渡欧し、英国にいられなくなってからは、巡り巡ってドイツ人と結婚し、帰国後結婚届を出し、失踪の解除を受けた。
  • その後、愛敬兄は再び渡欧し、スイスで亡くなった。

 もし愛敬兄が正式に婚姻届を出していれば、その情報から甚太郎の母親の籍をたどることによって、首相秘書になったとされる弟の名や、その他の手掛かりが得られたと思われる。ただ、この道はついに閉ざされてしまった。

 ミズハラ一家を探すため、念のため国勢調査記録の有無についても問合せてみたが、長崎市で行われた初めての国勢調査は大正9年で、それも人口把握が目的だったことから個人名は調査対象になっていなかったとのこと。弟が首相の秘書だったかどうかは、甚太郎の人生には無関係とあきらめ、むしろ戸籍が原爆による焼失を免れていた幸運と、ここまで全体像がわかったことを素直に喜びたい。

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