松山光伸

国際芸人の先駆者、ジンタローの生涯
第11回

独り立ちへの試練

 当初はタンナケル・ブヒクロサンがスポンサーとなっていたジンタローの生活も、氏が1894年に亡くなったあとは苦しいものになったに違いない。

 ただ、ジンタローは7年間に及ぶ滞英生活でそれなりの実績を積んでいた。一つのきっかけはウォータールー・パノラマ(Waterloo Panorama)への出演である。ウォータールー・パノラマというのは75年ほど前にあった有名なウォータールーの戦いを描いた壮大なパノラマ展示のことで1889年の暮れに公開になったものである。メインとなるものは戦闘の様子を描いた130mの長さに及ぶパノラマ絵だったが、中にティールームもあって時々エンターテインメントが行われていた。1890年12月のこと、ダグラス・ビューフォートという手品師がブックされて演じていたが、或る日、友人のデビット・デバントに代役出演してもらったところデバントは同じプログラムの出演者に少年ジャグラーのジンタローがいることに気付きその芸に感心したのである。この時のことをデバントは自伝My Magic Lifeに書き残し「いずれ機会がきたらサポートしようと決めた」と記している。ジンタローが15才の時の重要な出会いであった。

 継父アイキオとの喧嘩別れをしたのは1891年の春を過ぎた頃だったと思われる。というのもその年の3月末の国勢調査で、二人がロンドン南西部に部屋を借りて住んでいるのが確認されており、少なくともこの時点まではアイキオと一緒だったからである。ブヒクロサンも1888年半ばに日本人村博覧会を閉場したあと規模や人数を大幅に絞ってリバプールやエジンバラなど地方回りをするなどやりくりに苦労しており、もはや頼れる存在ではなくなっていた。このままギャンブル好きの継父との生活を続けていたのでは将来がなく覚悟の決別だったのはないだろうか。これ以降、ジンタローはアイキオの名を使うことはなく、必要なときはミズハラ姓を名乗ることになるのである。

 その後は、1891年の12月にロイヤル・アクエリアム(Royal Aquarium)という大きな建物で催されていた演芸ショーに連日出演し、広く芸能新聞に取り上げられるほどになり、以降、The Era誌に彼の動静が見えるようになる。そして1899年春から2年間は鏡味仙太郎と行動を共にして益々芸に磨きをかける。一方、デビット・デバントがマスケリンのエジプシャン・ホールに加わるのは1893年のことである。デバントはその才能によってほどなく一座の中核メンバーになるが、1899年からスタートした別組織の地方興行部隊(The Maskelyne and Cooke Provincial Company)を率いたデビット・デバントは、1901年、そのメンバーとしてジンタローに声をかけるのである。ジンタローの30余年に及ぶマスケリン一座とのかかわりがここに始まるのである。

イザベラの生い立ち

 ジンタローとの結婚届の記述から、イザベラは再婚であったことが早い段階で判っていた。その時の名前はイザベラ・マックアンドリュー(McAndrew)、英国海軍の水兵だった父親(その時点で既に故人)ウイリアム・アービンの名から、元々の名前はイザベラ・アービンだったこともすぐに確認できた。これらの情報を頼りに、前婚の結婚届や、本人の出生届を求めて、ジンタローの調査と同様の追跡を行なったが、なかなか見つけることができず、ようやく探し当てることが出来たのはイングランドの記録とは全く別個に存在していたスコットランドの戸籍データの中でそこにイザベラの初婚時の届があった。歴史的な背景から、スコットランドの戸籍データは、イングランドやウェールズとは別の仕組みで独自に管理されていたのである。

 さて、この記録によると、前夫アレクサンダー・マックアンドリュー(Alexander McAndrew)とは1895年の12月のクリスマスイブに、エジンバラの自宅で結婚式を行なっている。それぞれの父親はこの時既に他界していたが、アレックスの父親は鉄道の信号手、イザベラの父親はポーターとなっていることから、父親同士が知り合いだった可能性が高い。この結婚届にあったイザベラの年齢はその時点で31才だったため、逆算すると1864年生まれということになる。一方、既に入手していたイザベラの死亡届からも逆算によって1864年4月から1865年3月までの間に生まれたことが判っており、双方の記録が符合したのである。

 さて、1905年7月にマリーン・エンジニアだった前夫はエジンバラの精神病院に5年半もいたあと43才で亡くなった(この時イザベラは41才)。死亡届を仔細に確認してもらうと、性病に起因する神経障害で収容されていたものと読み取れるとのこと。となると10年に及ぶ結婚生活の半分を、アレックスは病院で加療していたのであろうか。ところで、ジンタローの帰化申請書類にもイザベラの出生のことが簡単に記されていた。それによれば最果ての北端の地、オークニー島(Orkney Isles)の生まれとされていた。推測するに、父親は海軍でこの地を母港として北方警備に当たっていた艦に乗り組んでいて、その地に住んでいた母親と知り合いになり、イザベラをもうけ、除隊したあと、一家はスコットランドの首都エジンバラに出たものと考えられる。そしてその地で父親が鉄道のポーターになったという経緯のようだ。

 さて、イザベラが、ジンタローと結婚したのは前述したように1906年11月3日であった。では、いつ、どのようにジンタローと出会ったのだろうか。ジンタローの公演記録を追っかけていった結果、1903年の10月から11月にかけて、エジンバラのクィーン・ストリート・ホール(Queen Street Hall)にいたことを突き止めた。主要日刊新聞であったザ・スコッツマン(The Scotsman)にその広告や公演内容についての記事が出ていたからである。この時期、マスケリンの一座はまだエジプシャン・ホールを本拠地としている時で、時々、デバントが分隊を率いて地方まわりをしていた。ジンタローは、デビット・デバントと共に、エジプシャン・ホールでのショーを連日エジンバラで演じていたというわけである。イザベラはこの時、偶然ジンタローと出会ったのかも知れない。或いは、前夫の死後、遠縁を頼ってロンドンに上京し、そこでジンタローに出会った可能性も考えられる。(写真28)

ジンタロー資料
写真28
(所蔵:Peter Lane氏)

 ところで、1906年に創設されたミュージックホール組合というのがある。女性芸人と男性芸人の夫人をメンバーとする相互扶助の親睦組織で、後に「芸人レディ組合(Variety Artistes Ladies Guild)」と改称されたものである。そこでは寄付や慈善興行による資金を元に活動を行っていたが、イザベラは1911年に副会長の任に当たることになる。ジンタローは既に名高かったこともあってイザベラが選任されたのであろうし、現地女性だったからこそ、この役割を果たせたものと思える。

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