松山光伸

西洋人が耳にした初めての日本の音楽
第3回

1863年に初めて来日した西洋人ミュージシャンの音楽

 1863年8月19日(文久3年7月6日)というのは、初めて日本の土を踏んだドクター・リン(Dr. Lynn)の来日の日(長崎に上陸)に当たりますが、実はそのリンと一緒の船(ドルフィン号)で来日した西洋音楽家がいました。ドクター・リンの当時の名はワシントン・シモンズ(Washington Simmons)で、同船していた音楽家はピアニストのマーキス・チゾーム(James Marquis Chisholm)でした。またほぼ同時期に相前後してバイオリニストのロビオ(Signior Robbio)や、ソプラノ歌手のアメリア・ベイリー(Amelia Bailey)なども来日しており、正に日本の音楽史にとって初めて尽くしのことが起きていたのです。

マーキス・チゾームを描いた絵

 そのチゾームは紀行文 “Adventures of a Travelling Musician in Australia, China and Japan, 1865” を残しています。ドクター・リンも体験記を残していてこちらの方は大言壮語が多いものになっていますがチゾームの話と照合することで二人が長崎での数日間の行動を共にしていたことなどが確認できました。そのチゾームは一旦上海に戻った後、1864年7月に日本に再入国していますが、日本で親しまれている歌を何とか知ろうと採譜に努めた様子も記されています。

 その彼によれば、当時の日本では上流階級の男の人にとっては歌うといった習慣はないものの下層階級の中の労働者(例えば大工など)は年がら年中仲間と歌っていると記していました。チゾームが「何故歌っているのか」と問いかけてみたところ「歌うことで気合が入り仕事の出来栄えも変わってくるのさ」(”Danasan(旦那さん), if we do not sing, how can we work with spirit? And if we do not work with spirit, how can our house be strong?”)との返事があったというエピソードも綴られています。

 そして特に叙情的な歌として紹介されていたのが、男の子が好んで歌うという次の歌でした。


 概略以下のような意味でしょう。

小さな鳥が海まで飛んでくる、
私のところまで寄ってくる。
波に揺られて進む大きな船より早いなと思っていると、
そのまま急いで岸に向かっていく。
こっちだ、こっちだ、行かないでおくれ。

 残念ながら楽譜は示されていませんでした。また少し調べた限りでは江戸時代から続く「わらべうた」にこの詩に該当するものは確認できませんでした(注3)。とはいえチゾームは数々の採譜に成功したようで、それらの曲はすぐに横浜の在留西洋人向けのエンターテインメントの場で紹介されたのです。それは“Evenings at Home” という名で定期的に開催されていたもので、横浜で発刊されたJapan Gazette紙や日本語新聞である日新真事誌の発行人であったジョン・ロデリック・ブラック(John Roderick Black)の主催になるものでした。ここで紹介したのは1864年9月13日のプログラムですが、第一部には隅田川浪五郎一家の演芸が組まれ、第二部ではブラック自身が母国でよく知られた物語風の唄を歌う構成になっていました。ブラックはもともと歌唱で身を立てようとしたほどの人物だったこともあって自らこの会で数々の歌を披露することが定番となっていたのです。ついでながらこのジョン・R・ブラックは後に快楽亭ブラックの名で有名になる石井ブラック(当時はハリー・ブラック:Henry James Black)の父親です。息子である石井ブラックは子供の頃から日本の寄席芸人や手品師とやりとりがあったことで知られていますが、その背景には父親の影響下で小さい頃から日本人芸人との接点があったことが大きかったように思えてきます。

注3:江戸時代から続くポピュラーなものとしては、例えば「通りゃんせ」「かもめかもめ」「ずいずいずっころばし」などがあります。ただ、これらが採譜された形跡は見当たりません。

 話を9月13日のプログラムに戻すことにしましょう。チゾームの演奏による“Fantasia on Japanese Airs” という演目がありますがこれが日本の曲を披露したものです。プログラムの説明を見ると「最良の歌手や弾き手から採譜した多数の曲の中からブラックとチゾームの両氏が曲の美しさや人気度を勘案して選んだものを紹介する」と書かれています。

MR. MARQUIS CHISHOLM will play a Fantasia on Japanese Airs, especially selected for their beauty or popularity from vast numbers taken down by Mr. Black or himself, from the best Singers and Instrumentalists they could find during their stay in Yokohama.



 具体的にどうやって日本の歌を習得したのかその手掛かりがないものかと彼の紀行文にあたってみたところ、次のような箇所が見つかりました。

For this purpose, I engaged a native Dominie to visit me every other day, and an old lady music teacher, who came three times a week.


 当時の教育事情からすると、彼が見つけた先生(Dominie)というのは地域の寺子屋の先生で、old lady music teacherというのは唄のお師匠さんだったのではないかと想像できます。きっと三味線に合わせて唄われていた端唄の中から西洋人に受け入れやすいものや、日本で広く知られているものが選ばれ採譜されたのではないでしょうか。いずれにせよ週3日ほど指南を仰ぎながら採譜していたのです。そしてそれらはブラックの歌う数々の曲の合間に “Fantasia on Japanese Airs”(日本の曲のメドレー)として演奏されました。ただ残念なことにそこに含まれていた個々の曲名は明らかになっていません。

前 回              次 回