松山光伸

西洋人が耳にした初めての日本の音楽
第4回

1870年代前後の三味線下座音楽の不評と意外な反響

 初めて海外に渡った曲芸や軽業の一座の演技には伴奏がついていましたがその音は外国人の耳には大きな違和感をもたらしました。そのことはアチコチの記事に見られますが、特に三味線の音は騒音でしかない、と言う人が少なからずいたのです。

 ところがこういった評価に一石も二石も投じた人がいました。当時の米英の音楽界で人気を博していたソプラノ歌手のクララ・ケロッグ(Clara Louise Kellogg: 1842-1916)がその一人でした。若くしてオペラ界で名を成しプリマドンナとして活躍していた彼女でしたが、ニューヨークの月刊紙 ”Scribner’s Monthly”の1877年8月号(実際の発行日は7月)で日本人軽業一座の下座音楽について第一級の賛辞を寄せたのです。そしてその記事は大きな反響をもたらしました。


 “Some Japanese Melodies” と題したケロッグ女史の寄稿記事は次のような文章で始まっています。

Several years ago when the troupe of Japanese jugglers were in New York, I happened to remain in town late in the season, and attended a number of the remarkable entertainments given by them at the Academy of Music. The only drawback to my enjoyment of their wonderful feats with ladder, pole, tubs, butterflies, etc., —and especially those of little All-Right and his father, —was the exceedingly harsh and disagreeable noise made by the Japanese orchestra, consisting of five performers seated on the floor at the rear of the stage.


 要約すれば「ニューヨークでの日本人の一座の興行はいずれも素晴らしくオールライト(Little All-Right)親子の演技は特に良かったが、5人の下座音楽があまりに耳障りで不愉快だったことが唯一の欠点だった」という書き出しなのです。ところが彼女はこの公演を十数回繰り返して見るうちに、長竹竿の上で曲技を見せている息子を支えている父親が三味線の音に合わせて歌っているのに気づき、その旋律を書き留めることに成功したのです。通訳と共にオールライト(空中芸をする主役の子供の名)と個人的に面談する機会を得た彼女が採譜した譜面に沿ってオールライトの指を取って鍵盤を弾かせたところ「あ、これは空中芸をしている時にお父さんが歌っている曲だ」(“Oh, that is what my father plays when I am up on the pole!)と目を輝かせて喜んだとも述べています。

 その後、ケロッグは自身がロンドンに行った時に再度オールライトと会ったと述べていますが、その際、彼がニューヨーク公演中にポールの高いところから落下するという事故を起こしていたことを聞かされています。そのことと、オールライトが長竹竿を支えている父親の頭上で上乗り芸を行っていた事実からこの一座は隅田川浪五郎も加わっていた帝国日本人一座(Imperial Japanese Troupe)であったことが判明することとなりました(実はLittle All-Rightという少年軽業師は多くの渡航一座の少年がその名を使っているためケロッグがどの一座と接触したのか判別が難しかったのですが、この親子は帝国日本人一座の濱碇定吉とその息子Little All-Rightこと梅吉だったのです)。

 ケロッグは再会した機を逃さずに日本の他の曲を収集したいと申し出ました。ところが三味線による伴奏の評判があまりに悪かったので伴奏部隊は先に引き上げたとオールライトから聞かされました。(一座は大西洋を二度往復していてロンドンには少なくとも3回訪れていますが、この話は一座の半分が先に帰国した後のことなので3回目のロンドンでのやりとりと考えられます)。ケロッグ自身も最初は耳障りな三味線だったこともあって、伴奏のメンバーが途中からいなくなったのはやむを得ない、と感じたのだそうです。そのくだりが以下です。

I had desired while the troupe was in London, to gather more of their melodies, and expressed my regret at the absence of the native orchestra. All-Right replied that their music was so widely objected to that it had been withdrawn. I was not surprised at this for the same feeling prevailed in this country, and was shared at first by myself.


 そしていよいよ本題です。彼女は耳で拾った日本の曲に対し、次のように最大限の賛辞を送ったのです。いわく

曲の構成、オリジナリティ、素晴らしい簡明さ、豊かな情緒性、暗示的な言葉といった点で完璧なもの」とし、また「初めの二小節のアクセントが卓越したものになっていて、欧米の優れたミュージシャン何人かに繰り返し聞いてもらっても誰一人として説明解釈できる人はいなかったばかりか、或る著名なロンドンの批評家に至ってはベートーベンのメロディーに比肩する価値があるとさえ言わしめた。


 と述べたのです。以下がその原文です。

What shall I say of this melody? It is perfect in construction, original, beautifully simple, full of sentiment, and suggestive of touching words. The accent of the first two bars is remarkable, inasmuch as I have never met a musician who was able to annotate it at once, although I have repeated it to some of the most accomplished musical writers both in this country and in Europe. A distinguished London critic did not hesitate to declare the melody worthy of Beethoven.


 続けて彼女は採譜した譜面も紹介しています。オールライトが「父が歌っているものだ」と喜んだ小曲がこれで、ベートーベンの曲のように価値ある一品と評されたものです(音はまとめて後述)。


 ケロッグはこれに加えて他の2つの日本の小曲も紹介しています。一つはケロッグが友人から教えてもらったもので、最初のものほど印象的ではないものの途中で意表を突いたEナチュラルの導入に新鮮な驚きを禁じ得ないと書いています。

 もう一つはフランスにおける日本研究の第一人者だったレオン・ド・ロニー(Léon de Rosny)が日本の詩歌に関して書いたものにあったと述べていますが、こちらはロニーが直接採譜したものか、曲のない詩に氏が日本的な曲を付けてみたものなのか不明です。



 こちらも友人のJohn Crockerが弾いてくれたものを紹介することにします。三つのうち最初(the first piece)のものがケロッグを特に驚かせたもので、後半部分に少し聞き覚えのある旋律があるように感じます。江戸末期に日本を出た一座が使ったものであることを考えると「木曽節」とか「コチャエ節」の一節に聞こえなくもありません(後者は「お江戸日本橋」の原曲とされる)。

 ケロッグの文は更に続きます。

日本の音楽に我々はもっと注目すべきである。曲芸一座に同行してきた伴奏者は最高の曲を奏でているわけではないだろうから、こういった曲はアートというよりは日常生活に溶け込んだ民衆のものに違いない。もっと高度な音楽があるのか、それとも彼らの詩や装飾品が簡素で直截的で示唆的なものであるようにすべての音楽もそうなのだろうか。


 月刊紙であるScribner’s Monthly(New York発行)の1877年8月号(実際には7月に刊行)にケロッグの記事が出るや否や、その記事は他紙ですぐさま取り上げられ大きな注目を集めることになりました。全文をそのまま転載した紙面だけでも、例えばアメリカではDwight’s Journal of Music(ボストンの月刊紙, p.61-62, July 21, 1877)やThe Churchman(ハートフォードの週刊紙, p.127-128, August 4, 1877) があり、イギリスでもThe Musical Standard(ロンドンの週刊紙, p.120-121, August 25, 1877) が大々的に取り上げました。また日刊紙でもThe New York herald(July 22, 1877)が要約を報じるなど大きな反響を巻き起こしたのです。

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