松山光伸

西洋人が耳にした初めての日本の音楽
第6回

17年前に行われていた初めての採譜

 前回(第五回)の説明の中で、エドワード・H・ハウスは自身が編集発行していたThe Tokio Timesの中で次のように記していたことを述べました(1877年8月25日号)。

「多分、日本で最高のものといえばせいぜい17年ほど前に小生が“All the Year Round”で紹介した「ひとつとや」でしょう。


 17年ほど前といえば彼はいまだニューヨーク・トリビューン紙の記者だったことは前述した通りです。では彼の言う“All the Year Round”とは何のことでしょうか。紆余曲折ののちにわかったのはこれはチャールズ・ディッケンズ(Charles Dickens)が編纂していた“All the Year Round”のことで世界中の話題を豊富に取り上げる週刊紙のことでした。ハウスが言っていた「ひとつとや」の記事が1861年5月11号に“Music Among the Japanese” というタイトルで掲載されていたのです(pp.149-152)。実はこれが日本の曲が歴史上初めて西洋の誌面に現れたもので、ここにその譜面と歌詞が紹介されていました。チャールズ・ディッケンズといえば『オリバー・ツイスト』や『クリスマス・キャロル』などで知られる当時を代表する英国の文豪ですが、英国のマジック史に詳しい人であればディッケンズが熱心なアマチュアマジシャンであったことを知っている人も多いことでしょう。


 その記事を見て驚きました。この記事は当時ニューヨーク・トリビューンの記者をしていたエドワード・H・ハウスが書いたものをディッケンズが取り上げたものですが、記事の中身は初めて日本人使節が米国を公式訪問した万延元年(1860年)の遣米使節団とのやりとりでした。そして日本の数え歌「ひとつとや」をメンバーから聞き出した顛末が書かれていたのです。タウンゼント・ハリス(Townsend Harris)との間で交わした日米修好通商条約の批准書を相互交換するために一行はワシントンDCに1860年5月15日に入り、しばらくウィラーズ・ホテル(The Willard’s Hotel)に滞在することになったのです。

 ホワイトハウスに大統領を訪問したのちは、議事堂や博物館などの見学を行うだけでなく、自由時間もあってアメリカを楽しむことができた一行ですが、ワシントンDC滞在は25日間に及んだため、現地の記者は競うようにホテルを連日訪問して使節のメンバーを見つけては取材を試みていたのです。そしてその記者の一人にエドワード・H・ハウスがいました。当時まだ24才でしたが、10歳代で作曲した軽交響楽曲がボストンで演奏されるほど天賦の音楽の才能に恵まれていた彼は日本人が親しんでいる音楽に触れるべく機会をうかがっていたというわけです。ちなみにウィラーズ・ホテルは随員が記者を相手にバタフライ・トリックを演じてみせたところでもありました(注4)。


 最初のうちは音楽の話を振り向けても、それを避けるようにしていた使節のメンバーでしたが路上の楽隊やホテルで聞き覚えた歌を彼らが口ずさんでいたのをキッカケにアメリカ人が親しんでいる曲を3曲ほど教えたところようやく親近感を持ってくれるようになったと述べています。ただ17才の通訳補佐(立石斧次郎)でさえ口で伝える歌詞のlとrをとらえることが難しかったようで適当に口まねで歌っていた様子を伝えています。そしてある日のこと医師のいる部屋で処方箋とにらめっこしている人物が日本の歌を口ずさんでいるのを目にして、このチャンスを逃がさずに採譜をしようと繰り返しもう一度歌って欲しいとおねだりしたのです。最初のうちはいぶかしげに躊躇されていたものの再び通訳(斧次郎)の助けを借りて説明したところ趣旨が判ったと見えて結局協力してもらえることになりました。

 そして完成した譜面をホテルのピアノで弾いてみたところ、正史や副使ら三役を除くほとんどの人が寄り集まりみんな有頂天になって口を揃えて歌うという感動的な情景が描かれていました。中でも坂本泰吉郎(小人目付20歳:Sakanoto Tekeshiro)が声を張り上げて歌ってくれたくれたことが印象的だったようでその名前が特記されています。そして松本三乃丞(外国奉行支配定役30歳:Matsumoto Sanojouh)が書き留めてくれたカタナナの歌詞も一緒に誌面で紹介されています。


Hetotsutoyah

松本三乃丞による直筆の歌詞

 再度ジョン・クロッカーにおねだりしてこの譜面を弾いてもらうと現在に伝わっているものは若干編曲されていることがわかりました(あるいは地方によって違いがあった可能性も考えられます)。何よりも嬉しかったのは、この遣米使節のメンバーがバラフライ・トリックのみならず、日本の歌を初めて演じ伝えていたという事実が確認できたことでした。そして奇遇なことにチャールズ・ディッケンズがその歴史的な事実を残すことに一役買ってくれていたということにも因縁めいたことを感じた次第です。

 繰り返しになりますが、日本の手品が世界に広がりだした当時の歴史を調べはじめて以来、三味線をはじめとする伴奏が西洋人の耳には雑音にしか聞こえないという記述を頻繁に目にしてきました。それを端的に示す初期のものに“Narrative of The Earl of Elgin’s Mission to China and Japan in the years 1857, 1858, 1859” (1859)、を著したローレンス・オリファント(Laurence Oliphant)の言葉があります。改めてその言葉を最後に記しておきます。1858年8月に初めて長崎の地で食事をとった茶屋での経験をオリファントは次のように綴っています。

“Presently, another troop of damsels with lutes and tomtoms come tripping in; but they elicit from their musical instruments the most discordant sounds to our non-Japanese ears, so that we were glad to take refuge in the balcony”.
【訳】ほどなくリュート〔三味線〕と太鼓とを持った別の娘たちの一群がいそいそと入ってくる。しかし彼女たちがその楽器から引き出す音は、日本人ならぬわれわれの耳には、実に調子はずれの音なので、縁先に逃げ出してほっとした。(翻訳引用「エルギン卿遣日使節録、雄松堂書店」)


 この書は発行直後から英米圏の識者には広く読まれていたようで、この評価自体が先入観として広がっていた可能性が高かったように感じます。ところがハワード・E・ハウスが遣米使節から聞き取った歌や接した団員の人柄を報じた記事のおかげで日本人の音楽に対する素養など英米人の印象は少なからず軌道修正されたようです。加えてケロッグ女史の好意的な言葉が広がってからは少なくとも「欧米人の耳には耐えがたい」というステレオタイプ的な感想はほとんど消えてイメージは大きく塗り替えられることになりました。

 今回の調査によって、日本が置かれた不合理な立場を国際社会に訴え続ける活動をしてくれたエドワード・H・ハウスの存在と、彼の音楽面での客観的な論評など多くの業績を知りえたことは予想外の収穫でした。そして調査の過程でチャールズ・ディッケンズや立石斧次郎というマジックにかかわりのある人物がここでも細い糸でつながっていたことに因縁めいたものを感ずる結末になりました。

注4:バタフライ・トリックが演じられたエピソードは次のリンクで解説されています。 http://www.tokyomagic.jp/labyrinth/matsuyama/update-01.htm

【2018-11-2記】

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