松山光伸

「オリジナリティ」と「権利」 第2回

1.法律とのかかわり

 まず、はじめに法的な視点で全体像を一通り眺めてみることにします。抽象的で且つ理屈っぽい話になりますが、問題の広がりやその深さを概観することで、マジックにこれらの法律を適用する場合の限界といったものもある程度見えてきます。ここでは著作権を主体に考えますが、最初に創案者や解説文を書く者の立場での注意すべき点を、その次に実演者の視点での考慮すべき点、最後に奇術のタネの保護についても少し付け加えてみたいと思います。

1-1.創案者、著作者、翻案者の権利関係

1-1-1.海外の解説書を翻訳する場合

 一般に海外の書物を翻訳する場合、当然のことながら著作権者から翻訳権や出版権を正規に取得する必要があります。めでたく許可を得て翻訳出版すると、翻訳者には翻訳著作権という二次的著作物としての権利が生じます。もちろん翻訳されたことによって原著作者の持つ本来の権利が制約を受けるわけではありません。

 ここで「著作権」を持つ著作者の定義ですが、これはその名の通り著作物を創作した人です。ですから権利の譲渡を受けない限り、出版者が著作権者になることはありません。別の言葉でいえば出版者が著作権者になっている場合は権利譲渡が行なわれていることになります。例えば、ダイ・バーノン・ブック・オブ・マジックという本を考えてみます。この本の著者はルイス・ギャンソン氏ですが、その著作権は発行元のハリー・スタンリー氏(イギリスのユニーク・マジック・スタジオのオーナーだった人)が一時期所有していました。その後ユニーク・マジック・スタジオは解散し、ハリー・スタンリー氏の持つこの本の権利は同じ英国の大手ディーラーであるシュプリーム・マジックが買い取りました。
 従って日本語に翻訳をする場合はシュプリームと交渉することが必要だったのですが、シュプリーム社はその後廃業してしまいました。そんなこともあって著作権の変遷を確認するだけでも意外に難しい実態があります(いずれにせよ原著者のLewis Gansonの死後70年まで著作権は残っているため2050年までフリーにはなりません)。

「The Dai Vernon Book of Magic」

 このような例もありますから、発刊後何年も経った本や絶版になっている場合には、著作権を持つ人を特定し許諾を得ることが難しいケースがあります。ただ最近の本ではベルヌ条約の規定に基づいたcマークの表記を見ることによって、著作権者の特定等が簡単になっています(和書では奥付に、洋書の場合は最初のページに表示されています)。いずれにせよ、翻訳は国を越えた契約事になりますから、専門家の手を借りて著作権者に当たるのがよいでしょう。

著作権を出版社が買い取るケースが多い洋書の事例
(Persi Diaconisの本の著作権はPrinceton University Press社である)

 さてトリックの創案者と著者が一致する場合は問題ありませんが、これが別人の場合、どうなるのでしょうか。前述のダイ・バーノン・ブック・オブ・マジックではバーノンの作品を解説しているわけですがギャンソン氏が著者になっているなど、この種の事例はマジックの世界では散見されます。
 当然のことながら「実質的な内容は創案者のもの」と考えるのが奇術界の一般的な常識ですが、著者の立場に立ってみると「創案者に文才がなく適切なライターがいたからこそ、その創案者の存在やオリジナリティを正しく伝えることができた」という主張があるかも知れません。

 とはいってもその著作に対する著者の貢献度は創案者と半々に過ぎないと考えるのが一般的だと思います。ところが著作権法によれば著者だけが著作権者になります。この種の矛盾は文芸作品ではありえませんし、奇術だけの特殊な形態なのかも知れません。その意味で現状の著作権法はマジックのオリジナリティを保護する上で馴染まない部分があります。上記の矛盾を回避するには「共同著作物」すなわち「共著」の形をとることが一つの解決策かも知れません。

 この翻訳のケースで問題になるのは、出版を意図せずに個人で翻訳したり、愛好家仲間で分担して翻訳した場合です。それが個人や仲間内での研究に使われるうちはいいのですが往々にして広く頒布しようとするケースが出てくるため注意を要します。すなわち、いわゆる出版物として販売するのではなく、実費で頒布する場合であっても、事実上販売と区分が困難である限り著作権者からは糾弾を受ける可能性があります。特に奇術の場合はマーケットが小さいため著作権者は著しく自身の権利を侵害されたと感じ損害賠償等を迫る事例があります。
 なお一般に頒布会との名目で広く営業行為が行なわれていると判断された場合、著作権の問題とは別に、税務当局からも脱税行為と見なされる可能性がありますからモノを販売する場合は常に注意を払う必要があります。

Persi Diaconisの本の日本語訳では訳者が著作権者になっている事例

色々な原典から転載してアンソロジー(名作集)を出版する場合

 著作権法ではこの種のものは「編集著作物」として扱います。ここでいう編集著作物とは、数個の独立した著作物、または単なるデータ等に新たに創作性を加えて集録作成するもので、その創作性に対し編集者に著作権を認めています。
 例えば、同一現象のトリックを集めたり、年代順にある奇術家の作品を整理してその特徴を分析したりする著作は十分創作性を備えたものと考えられます。このような著作では、個々の作品の著作権と編集物全体に及ぶ著作権とは別のもので、素材となっている原著作物の権利は編集著作物の有無には関係なく守られます。

 しかし奇術の場合一字一句そっくりの転載というのはほとんど例がありません。文学名作選のようなものにはこの種の例が確かにありますが、通常こういった場合は自社で出版した作品をいくつか集めて選集の形にするのが多いため(これは結合著作物といいます)権利的に問題になることはあまりありません。
 これに対し奇術の世界で時折見られるのはエンサイクロペディアや事典の類ですが、これに比較的似たものとしては「パズル集」があります。すなわちパズルブックでは多くの場合、ヘンリー・E・デュードニー氏やサム・ロイド氏のパズルを初めとして多くのパズル作家のアイデアが「焼き直しされ」一冊の本として発刊されています。
 その場合「個々のパズルの骨格や原理は同じでも表現や演出を若干変える」のが一般的になっています。換言すれば「他人からアイデアをソックリもらい自分の言葉で『リライト』した場合はどういう扱いになるのか」という問題に帰着します。

 このような場合、著作権法では、これが二次的著作物としての「翻案」にあたるのか、それとも別個の作品として認められるだけの創作性があるのか、を判断の基準に置いています。この「翻案」については項を改めて検討しますが、私は上記の「リライト」というのは非常に微妙な問題を含んでいると考えています。似た例を考えてみましょう。

 例えばワープロ・ソフトの場合、通常そのメーカー自身が取扱説明書を作成し本体に添付していますが、それとは別に全く第三者が別個にそのソフトの解説書をいろいろな形で発行出版しています。この例では解説文そのものをまるまるコピーしているわけではありませんからリライトしたからといって問題になるものではありません(もちろんこの種のマニュアルでも全くのコピーとなると話は別です)。別の例として趣味や実用のための「ハウツー本」はどうでしょうか。投資指南書、園芸等は別としてもゲームのやり方やゴルフのスウィングの仕方等を説明しているものでは、ある種の「手順」を解説しているにもかかわらず複製行為とは考えません。そこでもし奇術解説書をハウツー本と定義すれば比較的自由に既存のものを解説したり独自のものとして著作してもいいことになります。

 ところがマジックの著作物ではこのワープロの解説書やハウツー本と異なる非常に大きな点として「タネ」と一部の「物語性」の存在があります(マジックの手順自体はワープロの操作手順と基本的に同じ概念と考えられます)。
 即ちマジックの場合、仮にある奇術解説書を元にして表現を変え、全く別個の解説書を仕立てたとしても、その「タネ」や「ストーリー/セリフ」といったマジックとしての骨格部分が原案と同じ場合、創案者にしてみれば権利を侵害されたと感ずるのが極めて自然です。この場合少なくとも自分の発案のように誤解される記述は道義的に許されませんが、著作権法ではタネ(方法論)の保護は対象外にしているため、残るストーリー/セリフに対する判断が問題になってきます。

他人の作品を下敷にして一部変更したものを掲載する場合

 他人の作品を参考に、自分の言葉に置き換えて作品を紹介する場合、原著作者(通常は原創案者)の許諾を得る必要があるのかどうかを考えてみましょう。実際にはこのケースが最も多いと思います。ここには原著者の作品を表現を変えて紹介しようとするケースから、いわゆる改案のようなものまでかなりのバリエーションが考えられます。

 まず「改案」という言葉の意味が非常に曖昧ですが、著作権では「変形的複製権も著作者の権利」であるため、その範囲内で改案をする場合は原著作者の許諾が必要ということになります。この変形的複製権には原著作物の単なる修正増減のみならず、原著作物に基づく新たな著作物(二次的著作物)を作る権利までが含まれ、これには原著作物の翻訳・編曲・変形・脚色・映画化・翻案といったものが対象となります。

 さて奇術界で言うところの「改案」ですが、創造性が高い場合は著作権法上も当然オリジナルの作品ということになります。ところがこれが上記の「翻案」の範中に留まる場合は二次的著作物ということになって原著作者(原創案者)の許諾を得る必要が出てきます。
 その上で二次的著作物を著した人には新たな著作権が生じることになりますが、その場合でも原著作物に対する原著作者の権利がこれによって影響されることはありません(二次的著作物は原著作者の変形的複製権の中での著作ですから二次的著作者の権利は新たな創作部分のみに限られると解するのが自然です。米国の著作権法ではこれが明示されています)。

 では「奇術にとっての翻案とか二次的著作物とは一体どういうものか」、「独自の著作物というのはどこまで原案から変えたらいいのか」という点ですが、これには定説もなければ判例も見当りません。むしろ個人個人が思い思いの解釈をしているのが現実です。結論を先にいうと、技法・手順・仕掛といったものは著作権法では保護の対象としていません。すなわち著作権の観点から見る限りこれらは著者の承諾なしに記述してもいいということになります(もちろん自分のアイデアのように振舞っていいということではありません)。

 それに対し「ストーリーやセリフ」は、まさに「物語」であり「思想や感情を表した文芸作品」ですから、その基本的な部分をそのまま使うのであれば「原著作物の翻案」すなわち二次的著作物になり原著作者の許諾が必要になります。この辺の解釈について「著作権法のノウハウ(有斐閣刊):1990年」から尾中普子氏による翻案についての解説を引用しましょう。

‥‥『翻案は、狭義では、外国の小説を日本を舞台にして変えて作成したり、古典を現代語訳にするように、小説や戯曲などの既存の著作物を使用し、その大筋は採用し細かい点では趣向を変えることをいう。広義では、‥‥』


すなわち、ストーリーとしてのセリフや手順をそのままもらい受けると二次的著作物になる可能性が高く、その一方で、方法論としての手順や技法についてはあまり心配する必要がないというのが私の考えです。

そのストーリー性に高いオリジナリティがあるRobert Nealeの本の一例

 ただ奇術の場合、文字や美術等、他の芸術的表現と比べて二次的著作物が作りやすいことから、応々にして「盗作」的批難を受ける可能性があり別の意味での弊害も考えられます。
 即ち、二次的著作物の作成には原著作者の許諾が必要ですから、通常はその面倒な手続きを避けるため出来るだけ自分のオリジナリティを前面に出そうとする心理が働きます。これが過ぎると、オーソドックスな良い奇術をベースに「改案自体が目的の改悪」が発表され、更にそれを元に次なる改悪が数多く案出されるといった「悪貨が良貨を駆逐する傾向」が出てきます。

 これを避けるには、発想のベースとなった原典を示し「どこが改良点なのか」「原案との得失は何か」等を明記することが必要です。改案を正しく評価して貰う上でも、また歴史的な名作を正しく認識し受け継いでいく意味でもこれは非常に重要なことです。

 ≪ 前 回                次 回