松山光伸

明仁親王殿下が戦後に目にした初めてのマジック(1)

 戦争末期や戦後の数年間の日本人の生活は、改めて記すまでもなく食料さえ事欠き、空襲に脅えて過ごす厳しい日々であった。これは芸能者にとっても同様で、次々と芸人や役者が召集されて一座の維持ができなくなっていく時代であり、自ずと戦地や病院などを訪問して演ずる慰問活動が増えていくことになった。その様子は、例えば、「日記魔」として知られていた古川ロッパの『昭和日記』に克明に描かれており、いまなお戦中戦後の芸能者の厳しい姿を伝えてくれている。

 一方、多くの皇族も同じような緊張した日々を送っていた。陛下は従来皇居内の明治宮殿に住まわれていたが空襲には無防備ということで御文庫という新たな建屋が用意され昭和18年からは政務のみが明治宮殿で行われていた。その明治宮殿は昭和20年5月25日の大空襲で全焼、やむなく宮内省の庁舎の一部を仮宮殿にして政務をそちらで行うとともに、戦況の悪化を受けて隣接地の地下に防空壕(御文庫付属室と呼ばれた)を作って緊急時に備えられた(ポツダム宣言受諾に関わる会議などがここで行われた)。一方、明仁親王殿下も赤坂離宮構内の東宮仮御所から疎開先に移られるなど皇室も国民と共に耐乏生活を送られながら終戦を迎えられていたのである。そのような状況下、皇太子殿下がマジックを身近で楽しむ機会が意外にも早く訪れた。それは戦後の昭和23年のことで、なんとアメリカ人マジシャンの演技をマン・ツー・マンで目にしていたのである。

戦争直後の明仁殿下

 マッカーサーはそれまで皇族や華族子弟のために設けられていた学習院や皇太子だけに帝王学を施す教育の廃止を求め、その結果、殿下が通っていた学習院は昭和23年4月から新制の私立学習院として新たなスタートを切っていた。明仁親王殿下は終戦後の昭和20年11月、疎開先の栃木・奥日光からご帰京になったが、住居だった赤坂離宮構内の東宮仮御所が5月25日の空襲で焼失していたため、同じく被災し小金井市に移設されていた学習院中等科に通われることになった。校舎はもともとその地にあった中古の木造建物に手を加えたもので、窓ガラスがところどころ破損していたものの、脇には紀元2600年のお祝いで使われた立派な光華殿が移設されていて学習院の一部として使うことになり、ようやく中等科の再開が実現するという経緯だった。

 殿下の住まいには中等科の隣接地に建てられた御仮寓所(仮御所)が充てられ、21年5月からようやく中等科に通われることになったのである。

旧光華殿裏での級友との集合写真、1948年(出典:学習院アーカイブズ)
後列右から6人目が明仁殿下、後列左から7人目が弟宮の義宮

旧光華殿の前のグラウンドでの級友との体操(出典:『天皇』、1948)

 明仁親王がマジックを目にしたのは、この小金井校舎の講堂とそこに隣接していた仮寓所であった。このことはいままでほとんど明らかにされていなかったが、それが実現するまでの経緯や当日の様子についての詳細が、殿下にマジックをご覧に入れたジョン・ブースの体験記の中で語られているので、それを中心に当時の事情を追いかけてみよう。

記者として日本にやってきマジシャンのジョン・ブース

 戦後GHQ/SCAPの通称で知られるマッカーサーの連合国軍最高司令官総司令部が日比谷に置かれ、占領政策が次々と施行されるようになっていった。この時期日本人の海外への行き来は禁じられていたばかりか、占領政策に関係のない外国人も特別の許可がない限りは日本に立ち入ることはできなかった。そこにジョン・ブース(John N. Booth)がやってきたのである。昭和23年6月27日のことであった。

 ジョン・ブース(John Nicholls Booth)はユニテリアン派の牧師の家に生まれ、教会活動に参加しながら高校大学時代を送りました。卒業時がちょうど大恐慌の真っただ中にあったため、趣味で得意だったマジックを収入源にするようになって時々ナイトクラブや一流ホテルでプロとして演じるようになり、更にはマジックに関する著作も出したりしています。それでも本分は牧師であるとの誇りからユニテリアン派の教義に関わる書を何冊か著すようになり、この宗派として最も広く読まれる啓蒙書になりました。文筆の才能もあったため、1948年にサバティカルイヤー(研究のための休暇制度)の機会をもらうと、世界を旅行して見聞を広めるために出来たばかりのシカゴ・サンタイムズ紙の特派員とユニテリアン派の週刊紙であるクリスチャン・レジスター紙の代理人にしてもらい、その一環で日本にやってくることになったのです。

 さて、来日した翌日の28日のことである。戦災から立ち上がろうとしていた福井市を未曽有の大地震が襲うというニュースが飛び込んで来た。 弱り目にたたり目の福井市とその周辺は壊滅、占領軍も事態を重く見て翌29日にその被害状況を把握するためニュース映画の記者や特派員を乗せたC-54機を立川飛行場から飛び立たせた。 ブースも急遽搭乗を許され、上空から市街の惨状を目にするとともに灰燼と化した町を歩き回ることになったが、彼の眼には敗戦直後の東京の惨状もかくやあらんと映ったに違いない。

ブースが福井地震の被害視察に乗ったÇ-54機

 氏はマジック専門誌のリンキングリング誌にも福井の惨状の様子を手始めとして1948年9月号から日本での体験談を寄稿しているが、そこには日本で出会ったマジシャンとのエピソード等も数多く記述されており、当時の日本のマジック事情を知るうえで貴重な記録になっている。例えば、滞在中に知り会ったマジシャンから、福井市に住んでいた天一の孫がこの大震災で亡くなったことや、福井が世界的に有名な日本の絹織物業界の中でその生産高が全体の4割を占める大産地であることを知って世界のマジシャンへの影響も必至であろうと言及しているのが興味深い。

 更に特筆されるのは、当時まだ被災した状態のままだった皇居や東宮御所に戻ることが出来なかった明仁皇太子殿下にマジックをご覧に入れた話である。この話は特に印象的だったためかその後20年にわたって何度となく語られることになった。

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