松山光伸

明仁親王殿下が戦後に目にした初めてのマジック(2)

マジック仲間との出会い

 ブースは福井から戻るとすぐに占領軍のニュース紙である ‟Pacific Stars and Stripes” の編集部を通じてマジック愛好家のジェイコブ・トロップ(Jacob Tropp)と知り合いになった。マジックを愛好する駐留アメリカ人が少なからずいることを知っていた編集部が彼らの中で特に熱心だったトロップをブースに紹介したのである。実はこのトロップがその後の皇太子殿下へのマジック披露に大きな役割を果たしていたので、まずはその背景を少し遡って書き留めておかねばならないだろう。

 トロップはもともとニューヨーク出身のアマチュアマジシャンでIBM(International Brotherhood of Magicians)のニューヨーク支部に属していたが占領軍の一員として昭和21年春に日本に着任していた人物である(役割は軍属の人事を扱うマネージャー)。その彼は一年経ってから一時帰国が許されたが、昭和22年秋に再度日本に戻って第一ホテル(新橋)に投宿したところそこでアマチュアマジシャンの上原浦太郎と劇的な出会いをし、それ以降両者は親しく付き合うようになった(このことは上原氏が亡くなったあとにトロップが寄せた追悼文(Linking Ring, Nov. 1960)に詳しく記されている)。

 一方、そのトロップは着任してまもなく占領軍のメンバーの中に何人かのマジック好きがいることを知り、彼らとマジッククラブを作る相談をして昭和22年9月11日にMOMOTO(Mystical Order of Magicians of The Orient)という名の少人数のクラブを作った。会長にはSAM会員だったA. S. ヤングマン(Andrew S. Youngman)が就き、トロップ本人は副会長となって活動をスタートさせたのである。ちょうどこの時期はトロップが上原浦太郎と出会った時期であり、上原も外国人マジシャンと日本人マジシャンの交流の場として国際素人奇術倶楽部を翌23年に設立することになった(ちなみにヤングマンは半年後に人事異動で本国に帰国することになる)。

Andrew S. Youngman(出典:“Pacific Stars and Stripes,” May 9, 1948)

皇太子殿下に演技することになったマジシャン達

 さて、話をブースとトロップの出会いに戻すことにしよう。彼らは一緒に皇太子明仁殿下にマジックをご覧に入れることになるが、それはブースが来日してわずか半月しか経っていない7月14日のことであった。そのような話が短期間に電光石火でまとまったとは考えにくかったが調べていったところ、実はその前に伏線があったことがわかった。

 上述したようにトロップは上原と前年に面識を持っていたため、MOMOTOのメンバーの何人かはすでに日本人マジシャンと接点を持ち始めていた。そういった背景があったためトロップは来日したばかりのブースを日本のアマチュアグループやプロマジシャンと懇談する場に誘ってくれたのである。そのアレンジのおかげでブースは日本奇術連盟(JMA)や東京アマチュアマジシャンズクラブ(TAMC)の幹部と会うことができたばかりか、プロの中心的立場にあった松旭斎天洋も或る晩十人ほどの仲間を自宅に集め、日米双方が持ちネタを披露しあう場を持っている。具体的には、長谷川智、上原浦太郎、安部元章といったアマチュアや、天洋、井上充(井上天遊)、陳徳山、西尾天芳、広子、天花といったプロの名が特に彼の記憶に残ったようだ。中でも特筆されているのが上原浦太郎である。ある朝、ブースは上原に連れられて当時の芦田均総理大臣の官邸を訪れて約30分面談する機会を得、上原が日本の要人と行き来するほどの立場にあることを知って驚いたと述懐している。(注1)

 こういった交流を通じて、ブースは日本の近代手品史における天一・天二・天勝の活躍を知る一方、「日本ではマジックにしか生活の糧を見出せないプロよりも、しっかりとした職業を持ったアマチュアの方が社会的な立場は上にあるようだ」と日本の実情を紹介している。

 このエピソードの中で注目されるのは、最近陛下にアマチュアが招かれて皇居の中で手品を披露したという話を彼が耳にしたことである。実際、ブースらが皇太子殿下にマジックを披露するよりも2カ月前の昭和23年5月16日にTAMC会員が宮内府に参上しその会議室で11名が手品を三陛下(天皇・皇后・皇太后)・皇太子・義宮・他皇女にご覧に入れ、更に、夕刻には三陛下だけに5名の会員が円卓を囲んでテーブルマジックを披露している(「陛下と奇術」、永積寅彦、『TAMC50年のあゆみ』、昭和57年)。この催しは徳川義親と緒方知三郎が皇室関係者との仲立ちをされて実現したものであった(「天覧の記」、柳沢義胤、前掲書)。そんな経緯からTAMC側から「駐留アメリカ人マジシャンの芸も皇室の方に見ていただけるよう手配は可能ですが如何いたしましょうか」と話を持ち掛けていたものと考えていいだろう。蛇足ながら、TAMCのメンバーはこれ以外にも前年の10月26日に皇族の方々の集まりで手品を見せている。皇族の皇籍離脱に伴う「お別れの会」が赤坂離宮で催された際にTAMCの緒方・坂本・柳沢の三氏が余興として演じていたのである(注2)

 とはいえさすがに陛下の前で外国人に演技をさせるわけにはいかなかった。戦後とはいえ、天皇陛下は昭和21年から地方巡幸を始められてその途上にあり(巡幸が一通り終わったのが昭和29年)、ブースが来日した昭和23年6月は東京裁判がようやく結審したばかりで(判決は10月)天皇退位論なども取りざたされていた時期である。そのような時期なので、かつて敵国だった占領軍のメンバーが陛下に直接マジックを御覧に入れるということは考えにくく、急遽皇太子殿下に演技を披露する案が持ち上がったものと思われる。(注3)

  この話が明仁殿下にもたらされた時、殿下は即座に「自分個人のために見せてもらうのでなく、学校の行事としてみんなに見せてくれるのなら・・」と言われたことが以下のように伝えられている。

“When it was proposed to Akihito, he suggested that a show be given, not for himself alone, but also before his three hundred fellow students at the Peer’s School, near Tokyo.”


 殿下は当時14歳で中学3年であったが、その意を受けて華族の子弟が学ぶ学習院での演技が実現することになったのである。トロップはMOMOTOのメンバーであったポール・ヘンショウ(Dr. Paul Henshaw)とクリフォード・ウィットリー(Clifford Whitley)に声を掛けるとともに来日したばかりのジョン・ブースも誘って合計4人で小金井に向かうことになった(カメラマンも同行)。

 注1: 上原浦太郎は昭和30年になると世界最大のマジック組織International Brotherhood of Magicians(略称IBM)に支部創設の申請を行いRing 145を発足させています。以後IBMの機関誌であるLinking Ring誌への活動報告をおこなったり、上原自身もアメリカで行われた年次大会に出席して演技をしたりと、国際友好の輪を広げることに先導的な役割を果たしました。長年の友人で国際素人奇術倶楽部のメンバーになっていたジャイコブ・トロップもRing145の会員になっています。

 注2: 皇籍離脱はGHQに指令によるもので、14宮家の内、直系3宮家を除く11宮家が皇籍を離脱することになった。三笠宮寛仁親王は「皇籍離脱はGHQによる皇族弱体化のための措置であった」と発言されるなど、実際今日に至る「皇位継承問題」として影を落としている。

 注3: 明仁皇太子殿下が本格的なプロの演技に初めて接したのは一年後の昭和24年6月26日でした。宮内庁庁舎3階にあった仮宮殿表三の間で催された菊栄親睦会(皇族の懇親会)の場で、両陛下・皇族・旧皇族24名が一時帰国中の石田天海の名演技を楽しまれた。

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