松山光伸

海外渡航第一号となった日本人手品師の体験
第1回

 少しマジック史に詳しい方であればこのタイトルの手品師が一体誰のことなのかお分かりでしょう。そう隅田川浪五郎のことです。実は、開国直後に海外に出た平民の大多数は芸人でした。それは日本の民衆の芸を連れて世界で演じさせればいい商売になると考えた外国人が彼らに渡航話を持ち掛けたからです。軽業師、手品師、曲独楽師などがその対象です。最初の一団は江戸幕府がまだ持ちこたえていた慶応二年暮れに東回りと西回りの二つのグループに分かれてほぼ同時に日本を発ちました。東回りは米国各地で大評判となりそのあと欧州に向かい、西回りは先ず英国で興行し、王室の招待まで受けていますが、どちらもパリ万博まで歩を進めています。

 ただ、具体的な興行日程やエピソードについては、東回りのほうが圧倒的に多く明らかにされています。それは一座を率いたリズリー(Richard Risley Carlisle)という人物が西洋サーカスの創成期の人物で、日本の足芸を中心にした軽業芸を世界に広めたことで有名になり内外の研究者から調べ尽されてきているからです。加えて、このグループのまとめ役だった高野広八がつけていた日記が残っていて一座の動きを知るうえで大いに役立ったからです。

 いずれにせよごく普通の一般人にとっては海外に行くことなど冒険以外の何物でもなく、平民が出国を願い出ることなど考えられない時代でした。具体的にどうやって出国に至ったのか、どのように相談がまとまって最初の旅券が彼らに発給されたのかなどはほとんど明らかにはなっていません(高野広八の日記も乗船したところからしか書かれていません)。

 ところがその一部始終を記した材料が見つかりました。いままで研究家の間でも知られていなかった隅田川浪五郎の思い出話を私が偶然見つけたのは10年ほど前のことでした。手品そのものの描写があるわけではないので埋没させていたのですが、幕末芸能史には重要な資料であり、2009年に芸能史研究家の三原文氏に託していました。ところが氏が2013年に急逝してしまったいま、この話を記しておかねばならないとのプレッシャーが日に日に強まりここに書き残すことにしたというわけです。そしてその思い出話を紹介するだけでは意味がないので彼の渡航が西洋のマジシャンにどのように影響したのかも最後に触れるようにしました。東西マジック交流史に起点を垣間見てみようと思います。

二つの芸人一座の概略

 話を進める前に、あらかじめ出国した二つの日本人一座の概略を頭に入れておく必要があります。そうしないと浪五郎の話が理解できないからです。以下、拙著『実証・日本の手品史』から必要な部分を抜き書きします。

 西欧各国との修好通商条約締結から8年目の1866年4月、ようやく渡航規則(海外渡航差許布告)が発令された。これを受けて初めて旅券申請を行ったのは軽業や曲芸師の芸人一座であったこと、そしてその中に手品師がいたことについても早くから知られている。1977年になって当時の一座のまとめ役だった高野広八の日記(広八日記)の存在が明るみになり、加えて初期の旅券下付記録(パスポート発行記録)や乗船記録が確認されるに及び、これらの初期の渡航芸人は、慶應2年10月26日(西暦1866年12月2日)に横浜港からネパール号に乗って西回りで欧州に行ったグループと、それと相前後して10月29日(西暦1866年12月5日)にアーチボルド号で東回りに米国・欧州に発ったグループの二手に分かれて出発していたことが明らかになっている。

 1867年に開催されたパリ万国博覧会を目指した両一座であるが、欧米の新聞記事を見ると、前者は「日本人一座(The Japanese Troupe)」、後者は「帝国日本人一座(Imperial Japanese Troupe)」と称していた。艱難辛苦を舐めながら、日本に無事に戻ってきたもの、そのまま現地に留まったもの、外地で没したもの、行き先知れずになったもの等、そのドラマはいくつかの書に記されている。手品師として西回りの一行にいたのはアサキチ(柳川蝶十郎の前芸名で、本名は浅之助)であり、ロンドンのセント・マーチンズ・ホールでの1867年2月11日(慶應3年1月7日)の初演を皮切りに5月初旬まで演技している。一方、東回りの一行にいたのは隅田川浪五郎で、サンフランシスコのアカデミー・オブ・ミュージックでの1867年1月9日(慶應2年12月4日)の演技が初演であった。ちなみに栄誉ある旅券第一号を受けた人物として歴史にその名をとどめたのはこの隅田川浪五郎である。いずれにせよ両人が演じた「蝶の曲」は大変な評判になった。

 

 このうち、西回りの一行には曲独楽で有名な13代目松井源水も参加していて、その技も欧米ではカンジュリング(conjuring:手品)とされ大変な評判をとったが、ここでは曲独楽師はとりあえず手品師の範疇から外しておくことにしたい。
 ただ、この時代は日本手品師の多くが曲独楽もレパートリーに入れており、現代の芸域との違いは念頭に置いておく必要がある(例えば三代目柳川一蝶斎は曲独楽の名手でもあったことが子息の遺品の中の資料に記されている)。
 またこの一行は4月半ばにはウィンザー城で王室一家の前でも演じ、5月に入ると綱渡り等の軽業で名を高めた鳥潟小三吉一座が合流して一緒に公演をしている。
 東回りの隅田川浪五郎については少し補足が必要だ。実は、浪五郎が用意した演目のほとんどはカラクリ人形であった。そのことはパリ万博に向かう渡航芸人の調書で明らかになっている(旧幕府引継書の中にある毛筆書きの市中取締書留にこの調書はある)。

日本出発前からサンフランシスコの
新聞に出ていた前評判
(Daily Alta California紙の1866年11月22日号)
 

この調書には芸人の履歴や同道するメンバー、持ち出す道具類一切等が記されているが、この一座には派手な軽業曲芸を売り物にしていた濱碇定吉のグループがいたため、浪五郎が演ずるところの「からくり人形」の新聞評はほとんど見られず、その分、西回りのアサキチに較べるとハンデを負っていたといえる。

 実は、この浪五郎とアサキチが最初の渡航芸人として選ばれたのには伏線があった。それは、ジョン R. ブラックとの接点である。ジョンは、在日イギリス人ジャーナリストの草分けで長崎を本拠に活動していたアルバート・ハンサードに誘われ、横浜で発刊されていた英字新聞のジャパン・ヘラルド紙に招かれた後、自身でジャパン・ガゼット紙や日本語新聞『日新真事誌』を創刊することになる人物である。その彼は、横浜に来て間もない1864年の夏、居留民の西洋人の楽しみのために「Evenings At Home(くつろぎの夕べ)」という催しを自宅で頻繁に催すが、そのプログラムにアサキチや浪五郎一家の手品を何度となく招いていたのである。そしてこの場で演じたアサキチの「蝶の芸」などが各国の要人を含めた居留地の人の間で大いに評判になったのである。ちなみにアサキチのバタフライは最後に華やかな千羽胡蝶で締めくくられていることが報じられている(The Japan Herald, 9月3日号)。渡航一座に組み入れるべき手品師として彼らに真っ先に白羽の矢が立ったのは自然の流れだったのである。

Harper's Weekly誌の1867年6月15日に掲載された一座の演技(NY興行の図)


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