松山光伸

海外渡航第一号となった日本人手品師の体験
第3回

給金の交渉

 今までは幕末の記録を集大成した「続通信全覧」の記録をもとに、濱碇定吉の一座が年三千五百両、隅田川浪五郎の一座が年千百両、松井菊次郎の一座が年七百両で買われたとされており、それ以上のことは分かりませんでした。高野広八が残してくれた日記も乗船した日から書き始めているため、浪五郎がここで述べている一座結成の経緯や契約に至るまでの具体的な心の動きや条件交渉の様子などはとても貴重です。

サー困った。その時分には給金の安い時で一座一日に十両十貫といえば大したものだった。「どうか十両十貫で決めた日から貰いたい」と濱碇定吉が言った。それから私の一座は七両七貫なら行こうと言った。源水は困った。源水は座というものは無く往来で「ハイ、左様でございっ」て歯磨きを売ったり意合ぬきをしたりしていた時分のこったから幾ら取ったらよかろうか夢中だったが親子三人だから五両五貫でどうだろうと言った。


 ここで当時のお金の価値に触れておきます。貨幣単位の「両」は明治への移行とともに「一両=一円」とされました。その頃の一円(すなわち幕末の一両)の価値については『戊辰物語』の中に高村光雲談として次のように書かれています(p.19)。「どうもこの頃(注:明治元年の話)の職人の生活などはすこぶる呑気なもので月に一両二分(一円五十銭)あれば親子五六人は大した心配もせず、寝酒の一合位ずつは飲んでいけた」とあり、続けて「職人なんかの住む九尺二間の棟割長屋、今のバラックのお隣のようなものではあるけれども、一月八百文(八銭)出せば大家のはげ頭などはビクともいわせなかった」と記されています。ここでいう九尺二間とは、間口が九尺=約2.7m、奥行が約3.6メートルで、「四畳半プラス土間一畳半」のイメージです。

 では当時の一両を今日の価値にすると一体いくらになるのでしょう。 芸人はおろか商人に雇用されている一般の町人に税金(当時では運上金とか冥加金)はなく、社会保険料もローンの返却もマイカーや電化製品など耐久消費財へも出費もなかったため、稼いだ収入のほとんどは可処分所得としてそのまま使えました。ところが当時の一両の価値を特定するのは簡単ではありません。 社会の仕組みや購入する商品の価値が現在とは大きく違うからです。 一説では、江戸時代中期の一両の現在価値は10万円と言われていますが慶応年間の小判といえば大幅に小さくなった万延小判で、金の含有率が減って価値が大きく下がっているためここでは含有量換算でその現在価値を1万3千円と考えてみます。
 ただ万延小判は鋳造量が少なかったため、2枚で一両に相当する二分金が広く流通していたり、まだ天保小判や安政小判が通用していたためそれらを万延小判に交換する人で両替商が殺到したという現象も起きたようです。さて一両(現在の1万3千円)で1カ月過ごせるものなのか気になりますが、物価も安かったので一両にはかなりの「使い出」がありました。例えば、そば・うどん(かけやもり)一杯は十六文でした。 これを単純に現代の感覚で500円と考えてしまうとたしかに1万3千円の月収では高すぎますが、蕎麦屋自身も仕入れ材料費等を除いた収入のほとんどは可処分所得になるため現代より遥かに安い値付けが可能でした。 また、幕末の銭相場は下落の一途をたどり金一両に対して銭10貫(1万文)までになった(『貨政考要:上、p.6-7』)とされています。そこで一両を一万文と考えれば一文は1.3円ということになるので、そば一杯の値段は16文×1.3円=21円に過ぎませんでした。
 ただ『守貞漫稿』によれば「二八そばは、寛文8年(1668年)四代家綱のときにはじまる。値段は十六文(十六銭)。慶応年間(1865-1867)に至って諸物価がしきりに騰揚したので、江戸のそば屋どもが幕府当局に請願して二十銭に、次いで二十四銭にあげてもらった」とあり、幕末には24×1.3=31円になっていました。現代に比べれば15分の1の水準になります。 1万3千円の月収(可処分所得)をこの比率で現在価値に逆算すると約20万円の可処分所得ですから当時は一両もあれば一人が一カ月ゆったり暮らせたのです(注)。ちなみにここに出てくる「二八そば」というのは16文だったそばが2×8=16だったため付けられた名称とされています(別説もあります)。 また家賃で考えると、一ヶ月800文の裏長屋(専有面積6畳=10m²)では800×1.3×15=15600円となりますし、表長屋(専有面積10畳=16.5m²)ではその2倍強になるので2000文と考えて39000円となりますから、その面積を考慮すればそれほど矛盾はないでしょう。

 濱碇定吉が口にした「一座一日で十両十貫」に話を戻します。上述したように「十両」部分は1.3万円×10=13万円、「十貫」部分(一貫=一千文)は1.3円×1000×10=1.3万円なので合計すると一日当たり計14.3万円(十一両相当)ということになり、これで一座を養うことになります。ただ芸人稼業では仕事がないときは収入もないため月収(可処分所得)はそのまま30倍の430万円にはなるわけではありません。次から次へと先の仕事をとっていかなければならない事情は現代と変わらないのが芸人の世界です。 さて、その濱碇一家は八人構成の一座でこの話に乗ろうと考えていました。その八人とは定吉(35)、長吉(11)、梅吉(12)、岩吉(47)、伝吉(19)、兼吉(27)、林蔵(30)、繁松(38)でした。
 ちなみにこの中の岩吉が『広八日記』を残した高野広八で日本人の中ではマネージャー的な役割を果たすことになりました。 さて一日当たり十両十貫を年換算すると契約金は年間約四千両(現代の円換算で5200万円)になりますが、やはりこの額では決着を見ませんでした。


そんなには出せないと言うことでそれから今度銘々で附木の裏へ金高を書いて隠して置いていちどきに見せることにしました。濱碇が書いた、私も書いた、源水も書いた。実にモチャクチャ相場さね。そうした所が「よろしい、行って下さい」と言うことに決った。濱碇定吉が一座で一年三千五百両、私が千七百両、源水が千両。ところで「よろしい、四文も負けろとは言わないが源水さんのが高い、人数が少ないから千両は高い、七百両でおいでなさい」と言われた。七百両ぢゃぁ仕様が無いのだがその時分のことだから知らないで「ようございます」と言って仕舞った。「サー決りましたから御願いなさい。今晩手金を渡しましょう」と言った。「まだ行けるか行かれないか決らないのだから手金は・・・」と言ったら「イヤ、もう決りました。取ってくれないと事が決らないから取って下さい」と言った。 それからその晩千五百両受取ることになった。 (中略) ところが千五百両という金はナカナカ持てませんだったて。よく昔から賽銭を破って千両箱を幾つ取ったなどという話があるが、どうして千両箱を幾つも盗むなんということは出来るもんじゃありませんね。濱碇が五百両だけ胴巻きへ入れて立とうとしたがね、力持の癖に立てなくなって仕舞った。仕方がないから外へ行ってアンペラ(注:筵のような敷物)を拾ってきてその中へ受取った金を包んで麻縄でグルグル縛って、まるで泥棒でも縛るような按配しきに縛って、かぢづか(注:船の舵を回すときに握る取っ手)の折れたのを二本拾ってきて子供のおともらいみたようなものを二つ拵えた。そうしてそれを担いで帰ろうという騒ぎで浜から鈴ケ森へかかってやって来ました。 人気の立つと云うものは奇体なもので用も無くって夜中に鈴ケ森あたりを通るのは何だか薄っ気味の悪いもんだが金を担いでやって来たときは、こわくも恐ろしくも無かったね。互に「ドッコイしょドッコイしょ」つって担いで来た。馬鹿馬鹿しい話さね。


 ここで二点補足が必要です。源水が七百両となっていますが、この額には源水自身は頭数に入っていません。源水は西回りのグループとして行くことになっていたため、ここでいうところの源水の一座というのは源水一家の中から東回りのグループに組み込まれた五人のことで、源水の弟である松井菊次郎(30)、菊次郎の娘つね(9)、松五郎(37)、梅吉(18)、藤松(10)でした。また浪五郎の千七百両は記憶違いか誤記と考えられます。旧幕府引継資料である『市中取締書留』に綴じられている「番所に提出した申請書類原本」や、明治になってから旧幕府の外交文書を外務省が編集・分類した『続通信全覧』のどちらの記録にも千百両となっているため千百両が正しいと思われるからです。ちなみに一座の構成は浪五郎(37)、とわ(35)、松五郎(17)、とう(20)、梅吉(36)の五人でした。

 現在価値への換算を上述した方法で行うと、定吉一家(8人)の三千五百両は4550万円、浪五郎一家(5人)の千百両は1430万円、松井菊次郎一家(5人)の七百両は910万円ということになります。これは極めて高い給金でした。というのも通常と違ってこの渡航契約では興行があろうがなかろうが経過日数に応じてこの額が支払われるという契約だったからです。一方で、移動時間や劇場探しに時間をとられたり、客の入りが落ちたりすれば売り上げ収入は減ることになって、金繰りが厳しくなりますから、一座を率いるリズリーなど外国人金主にとってはリスキーな契約条件だったと考えられます。

 またここでは原文を紹介していませんが、日本人にとって更に有利だったのは「船賃や着物・衣装代はもちろんのこと、渡航中の食べ物なども給金とは別にすべて船に乗り込んだ日から帰ってくる日まで先方持ちだった」とも浪五郎は述べています。 文中に出てくる「手金」という言葉は一般には「手付金」のことを意味しますが、次の段落を読み進むとどうやら給金とは別の「支度金」として千五百両が支払われていたことがわかります。この額の巨額さにも驚かされますが、バンクス等がこれだけの額を一時金として用立てることが出来た背景には当時の在留外国人が不当に儲けていたことを暗示してくれます。それにしても支度金千五百両というのは約2千万円です(購買力では3億円のイメージ)。それだけの小判を3人掛かりで担ぎながら深夜歩き回っていた姿が手に取るように伝わってきます。

それからその金を源水の家へ持って来て入り用の高に応じて割賦した。 道具をこしらえるのに多くかからないのが足芸の道具で階子や何かばかりだからタントのことは無い。 それで濱碇が八十両取りました。私のは手品だから一番道具に金がかかるから二百五十両取った。 それから源水が二百両取った。それでこしらえて見た所が私のは八十両ばかり足りなかった、源水のは百両ばかり不足した。 それで道具はあらまし出来上った。それから南の奉行へ願って出た。 その時分には北と南の奉行所があって南へ願出ると北の方へ懸合になりました。 ところが「相成らぬ」をくった。「日本人を異国へやることは相成らぬ」と来た。 サー道具は出来たが行くことは出来ない。どうしたもんだらうと唐人に相談すると、 唐人は「行けます、私の方で横浜に掛け合います。きっと行けるようになります。 今に私の国と日本と同じようになります」なんかんと言って居た。 こっちでは「方外なことを言やぁがる。唐人の国と同じになってたまるもんか」なんて言っていました。 「何しろ怠らず支度をして下さい」と言われて支度をしていました。 (中略) 行けるか行けないかアテにならないと言っている中に十月、 旧の十月の五日頃になって来ると何だかソロソロ行けそうになって来た。 「サー、行けますよ、行く積りで用意して居て下さいよ」と唐人が言った。


 ここで興味深いのは道具類を準備したり新調したりするために必要な費用の分配です。梯子や桶などを使う軽業芸の道具に多額の金を必要としないことはわかりますが、バタフライ・トリックの隅田川浪五郎やコマ回しの松井菊次郎が多くの金を使っていることに違和感を覚える人は多いでしょう。確かに浪五郎のバタフライ・トリックは有名でしたが、実は、番所に届け出た彼の演目や道具立てのほとんどはカラクリ人形だったのです。

浪五郎が準備した演目の一部(全16演目の内のここでは8演目を表示)

浪五郎一家が準備した演目全体(最後のバタフライ以外はほとんどがカラクリ人形)

 ただ、海外の新聞に現れた広告や論評を見る限り「カラクリ人形」に関する記事がほとんど出てきません。これは不思議です。 派手な軽業芸に目が奪われて記事にならなかった可能性が考えられますが、もしかしたら2、3千人もの客を収容する大型の西洋劇場では人形の変化(ヘンゲ)は遠目には見えづらく、いつしか演目から取り除かれることになったのかも知れません。
また、菊次郎の独楽も派手な仕掛けをほどこした特別仕立てのものがレパートリーに多くその制作に多額な費用がかかったものと考えられます。

 注:  以上は幕末慶応年間の一両を13000円と仮定した上での話ですが、 その当時の1ドルは「一ドル=一両=一円」の交換レートでした。当時のニューヨーク・ヘラルド紙(日刊新聞、8ページ)などの一部売りは4セントだったので1ドルの現在価値を13000円とすると一部520円ということになります(少し高すぎる印象です)。 ところがこの時の新聞価格はどうやら異常値だったようです。南北戦争終了時(1860年)の同紙(同じく8ページ)は一部2セントと半値でしたし、30年後の天一が渡米した明治34年(1901年)の同紙も一部3セントに下がっていました(ページ数は2倍になっているにもかかわらず)。 一方、明治5年創刊の東京日日新聞の一部売りは140文ですからザル蕎麦(24文)6杯分のイメージです。ただ創刊時はタブロイド判1枚(片面1ページ)に過ぎないのでこちらも異常に高価なものだったことがわかります。ところが天一渡米時の明治34年になると一部売りは2銭(江戸時代の200文)で若干高くなるもののページ数は10ページに増え版面も大きくなっています。いずれにせよ当時の新聞は誰もが買うようなものではなかったためか一般層には高価なものだったことは間違いないようです。

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