松山光伸

海外渡航第一号となった日本人手品師の体験
第4回

三日ばかり経つと南北の奉行所から御呼出しがあった。北へ先に呼び出された。北の奉行所では東條八太夫様という人が掛りで、此の人はなかなか幅のきいた人でその時分に八代目団十郎か東條八太夫かという位な評判の人だった。 出ると「一同揃ったか」「揃いました」めいめい名前を言った。「今般公儀の御許しを以て大事な我子同然の者を異国に遣ることになったが必ず日本に失礼の無いように腕を揮って名を轟かせろ。 名前が揚がれば国の名物だぞ」とおっしゃった。実に涙が出た。 「生きて再び還ると思って行くか、親もあろうし子もあろう、世界に稼業ほど怖いものはないな」とおっしゃった。 この言葉はいまだに思い出すと涙が出ます。
それから南の奉行所へ出ろということで南に行きました。 南は秋山久蔵さんという人が掛りで、出ると「異国行きの者揃ったか。 北の奉行所で東條から此方へ相談を致すということであった。 それでその方たちを呼んだ。東條の申した通り、あちらへ行ったらば日本の誉れを現わせ、腕を揮え、失礼のない様に致せ、負けるなよ」とおっしゃった。喧嘩にでも行くように「負けるなよ・・・然るべきときには命を差し出せ。目出度いな」とおっしゃった。


隅田川浪五郎が受け取った旅券第一号

 旅券が発行された慶応2年といえばまだ大政奉還に至っていない江戸幕府の再末期に当たります。旅券の発行当事者は江戸でいえば北町と南町の奉行がその任とされていました。当時の奉行というのは現在の裁判所の長官とは違い、警察権や行政権も管轄していたためいわば知事職に近い役職だったのです(ちなみに明治になってからは府県の県令の名で発行されています。県令というのは現在でいうところの県知事のことです)。その奉行が旅券第一号を芸人に支給するにあたって、このような訓示を与えていたことが分かりました。その場面を想像するに、浪五郎のみならず、言い渡した奉行自身にも、現代に生きる我々の胸にも高揚感が伝わってきます。


それから御判を戴いて一同その足で家へ帰らずに異人の所へ行った。ところがもう船は七月から頼んである。いつ立てるか決らんからそのまま停泊していたが行くと決れば直ぐ出るといふ手筈になっていた。それでその船に乗込むことになった。 その船に乗込む前の晩、吉原から火事が出て燃え広がってその火事の為めに道具を焼いて仕舞う騒ぎだったがよろしいあんばいに荷の番がやってあったから焼けなかった。立派な道具をフンドシで縛ったり何かしてナカナカ大変な騒ぎだった。もっとも手荷物なんか幾らか無くなして仕舞ったが荷は大抵出しました。 異人の所へ行った晩から連中は人質に取られて仕舞った。源水と濱碇と私だけは行ったり来たりしていたが、連中は皆捕まってしまった。その時は実に困りましたよ。あちらの人間の様にちょいと手をこう握って「ハイ、さよなら」っていうような訳には日本の人はいきません。どんなにゾンザイにしたって挨拶をして歩かなければならんから三日猶予して貰いました。 それから十一月の二十日となって、慶応二年のな、十一月二十日の日に船に乗込んだ。昼間は連れて行かないで日が暮れてから乗込んだ。大勢送りに来た人と海岸で別れた。


 「吉原から火事が出て」というのは横浜の大火(通称「豚屋火事」)のことである。慶応2年10月21日(1866年11月26日)朝8時頃、末広町(現太田町)の豚屋鉄五郎宅より出火し、燃え上がった炎は、鉄五郎宅近隣の港崎町遊郭に燃え移り仕事を終え寝入っていた女郎約400人が犠牲になりました。炎は西風に煽られ居留地の一部と日本人街を延焼し市街地の3分の2を焼失し、鎮火したのは午後10時と記録にあるほどの大火でした。

 浪五郎の言うところの乗り込んだ日というのが、連中(座員)が乗船した日のことを言っているのか、本人の乗船日なのか定かでありません。いずれも火事のあった日と辻褄が合わないからです。一方、出帆した日も慶応2年10月29日(西暦1866年12月5日)ですから、浪五郎が乗り込んだという11月20日とは一カ月程ずれています。インタビューを受けた時点で採用されていた新暦(西暦)で説明しようとして計算違いをしたのかも知れません。


The Daily Japan Herald(Dec 6, 1886)で報じられた前日出帆したArchibald号の乗客名

乗込んだ晩は何だか分らなかったが身体を、波が荒くっても動かない様に船に身体を嵌める所が出来ていて、その所に寝る所が出来ていました。 アチコチを見ると米が三十八俵積んであった。唐三盆が二樽、酒樽が三本、ベセテというパンが二樽、それから脇を見ると大概の乾物屋へ行ったより余計にイロイロの物があった。人参もあり大根もあり野菜物が沢山あり、コロ柿だのカコイの梨だの、塩物では鮭だのサンマの乾物だのが山の様にあった。それを見て驚いた。「濱碇チョットここへ来て見な。大変だぜ。勘定して見ると米が三十八俵あるぜ、三十八俵ある所を見るととても一と月や二た月で行けるところじゃぁないぜ。十九人で三十八俵米が要る所で見ると大変に道中がかかるに違いねい」と言いましたよ。


 ペセテとはパスタのことであろうか。カコイ梨とは囲い梨(=長期保存可能な梨)のこと。十九人は単純ミスのようです(正しくは十八人)。

船に乗込んだまま三日の間というものは測量をしていて船が動かなかった。それから直ぐと小舟で行って左官を頼んで来て、そうして五升炊きの釜を買って来て、船の台所みたいな所へ壁吹をこしらえさせた。それで先ず飯を炊くことが出来るようになりました。三日いますと随分退屈だった。三日目の晩に今なら十時ごろ、四ツ時分にズドーンと鉄砲が鳴った。そうすると船が動き出した。「アー、今のが御別れだ。なさけない」と島へでも捨てられたる様な心持で、皆な当り前の顔色は無かった。そうすると異人の方から「誠に目出たいから今夜一つ鳴物を出してやって呉れろ」「イヤ鳴物は長持の一番下の方へ入れて仕舞った」「それでは一つ三味線をやって貰いたい」。三味線ひきの中にお豊というのがいて、それに「三味線をひけ」と言った。私は「船の中で鳴物をやると龍神が好くから断るがよろしい」と言った。そうするとベンクスは「龍神とは何です。ソンナものはありませぬ。おやりなさい。御酒を出しますから・・・と勧められた。それから鳴物を稽古ながら始めた。酒や有合せの肴が並んでそれを飲んだり食ったりしている中は船は極く平らで少しも動かなかった。


 三味線弾き「お豊」というのは前述した「とう」のことです。

 以上がいままで『広八日記』や居留地の英字新聞等ではハッキリしなかった出発までの経緯であり今回紹介したかった部分の内容です。『速記彙報』が聞書きしてくれていたおかげで「どうやって話がまとまって渡航の決心に至ったか」ということが明らかになるとともに、旅券第一号の対象が幕府などの留学生ではなく賤民といわれた芸人に下付することになった幕府の困惑も感じ取れる証言です。言うまでもなく一般の平民にとって見ず知らずの国に危険をおしてまで行きたいと思う人はいませんでした。金策はおろか観光案内人や旅行者のための通訳なども存在していなかった時代だったからです。それを可能にしたのはいち早く日本人一座を連れ出して一儲けを企んだ外国人の存在があったからこそで、それによって日本の民衆芸が世界に広く知られるようになりました。 なお、ここで紹介した『速記彙報』は国立国会図書館に所蔵されています。最近デジタル化されましたが現時点ではオンラインでの閲覧はできません。

海外での足取り

 その後の彼らの行程や興行の評判や行程については『広八日記』に沿って現地調査を行った宮永孝の『海を渡った幕末の曲芸団―高野広八の米欧漫遊記』(中公新書、1999)や、海外の新聞記事を丹念に調べてまとめた三原文の「軽業師の倫敦興行―ロイヤル・ライシアム劇場、一八六八年」(『日本人登場』、松柏社、2008)などが参考になりますが、ここでは彼らのその後の動きについてポイントのみ紹介しておきましょう。 アメリカにはサンフランシスコに上陸し、そこのアカデミー・オブ・ミュージックで最初の公演を行いました。慶応2年12月4日(1967年1月9日)でした。その時の劇場主はトーマス・マッガイアでしたが、座長のリズリーはそのマッガイアとタッグを組み同行してもらいながら先々の興行の手配等を託します。その後は船で南下し、パナマ運河を経由して東海岸に回り、次いでフィラデリフィア、ボルチモア、ワシントンDC、ニューヨーク、ボストンなどで興行をしています。大都会では三千人程収容できる劇場などで公演をしていますが入場料は通常最上等席が1ドルで、天井さじきのような席は25セントでした。

彼らが1867年に出演した
The Academy of Music, Philadelphia (現存劇場)

 ワシントンDCでは時のアメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジョンソンに招かれ、ホワイトハウスの内部を見学させてもらったり、今後の興行の成功に向けて激励されたりと歓待を受けています。


ホワイトハウス訪問を伝える新聞(The Daily Evening Telegraph, 1867/4/19)

 

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