松山光伸

海外渡航第一号となった日本人手品師の体験
第5回

ヨーロッパ興行の成功と、一座の解散・合従連衡

 その後イギリスを経由して万博が行われていたパリに向かいました。パリ到着は慶応3年6月24日(1867年7月25日)でしたが、西回りでイギリス興行を終えて先に到着していた松井源水や浅之助の一座がパリで公演をはじめているのを知り、その翌日に見学に行って再会を果たします。浪五郎らの一行の公演は6月28日からで「ナポレオン円形劇場」での3ヶ月に及ぶ興行を果たし大成功を収めることになりました。その初日、日本から将軍慶喜の名代として万博に派遣された弟の徳川昭武の観覧を受け高額な祝儀を与えられたことが現地の新聞に紹介されて評判を得たことも成功の一因だったようです。

パリ万博での浪五郎(ル・モンド・イリュストレ紙、1867年11月23日)


 その後はフランスの地方興行を皮切りにアレンジされるままにイギリス(ロンドンは予定していた劇場が火事になったため地方に回る)、オランダ、フランスを経て再度イギリス(ロンドン)、スペイン、ポルトガルと巡演していますが、総員18名の帝国日本人一座の中で源水一家を率いていた松井菊次郎が途中イギリスの地で病気で亡くなるという不幸に見舞われます。一家の支柱を失った他のメンバーは濱碇一家に編入されて旅を続けますが、幕府に届け出ていた予定期限の二年間もいつしか超え、帰国時の仕置きが彼らを不安に陥れます。
そこでパリ万博で出会った徳川昭武に相談すべくパリの滞在場所を再訪しますがすでに昭武は帰国しており、むしろ留守居の役人から日本では幕府が瓦解し新政府になったことを聞いて驚愕します。契約終了後の給金交渉がなかなか折り合わないまま、一旦はニューヨークに戻って興行を続けたものの、間に入って苦労していた通訳のバンクスが或る日突然お金を持ってドロンするに至り、一座は解散を決意します。17人のうち広八を含む8人は先に帰国(広八日記によれば帰国日は明治2年2月19日)しましたが、浪五郎の一家と濱碇定吉をなど他の9人はリズリーと再度契約を結んで再度各地をめぐることになります。

 これ以降の動きは『広八日記』にはないため『速記彙報』の浪五郎の話が貴重ですが、改めてヨーロッパに向かい、パリ、オランダ、ウィーンを回ったことが書かれています。ところが大陸では普仏戦争が勃発し、その戦況が日々厳しくなったこともあって途中で定吉など5人がニューヨークに行くと言い出し、一座は再び2つに別れています。残った浪五郎一家は自らの4人のメンバーに外国人芸人を加えた混成チームを編成し、オランダ、ドイツなどを巡りますが状況は好転せず、最終的には喜望峰経由で帰国するに至ったというわけです。いずれも事実を述べているとは思いますが、インタビューアが細かく質問していないこともあって簡単に過ぎるほどあっさりと述べているのが気になります。実際、リズリーの動きを詳しく追っかけたフレデリック・ショットの研究によって事情は随分違ったものだったことがわかりました。それによればアメリカ東海岸で明治2年の4月までしばらく興行し、その後イギリスに回っていたのです。氏の調査でイギリスに明治3年2月まで1年近くいたことが分かっていますが、その間リズリーが訴えられる事件が起き、大きく新聞沙汰になった結果彼の名声に傷がつくことになりました。結局無罪放免にはなったもののこれを機に、リズリーは一座を離れ故郷のフィラデルフィアに向かいます。浪五郎が言うところのパリ、オランダ、ウィーンでの興行はその後のことだと考えられます(詳細は “Professor Risley and the Imperial Japanese Troupe”, Frederik L. Schodt, 2012, Stone Bridge Press)。
帰国日は明治5年6月2日と述べていますがこれは明らかに記憶違いで、実際には明治4年の6月2日の帰国だと考えられます。その根拠ですが、明治4年10月の招魂社(その後の靖国神社)で行われたフランスの曲馬師スリエ(Louis Soullier)の興行が、浪五郎の口利きによって実現したことがこのインタビューで語られているからです。結局浪五郎の海外興行は慶応2年の末から明治4年の6月初めまでの足掛け6年の長旅だったのです(正味は4年半でした)。

スリエとの出会いと二度目の海外渡航

 実は、スリエという曲馬師は日本に来た最初の本格的なサーカスとされていて日本の芸能史では非常に重要な人物です。そのスリエの日本での興行にリズリーと行動を共にしていた浪五郎が関わっていたことがこのインタビューで語られているのを知ったのは大きな発見でした。彼の言葉によればスリエの世話をするまで4年経っていたかのようになっていましたがそれではスリエが日本に登場した明治4年10月とはタイミングが合いません。多分4カ月と言ったのを速記者が書き起こした際に4年と誤記したものと考えられます。文中、浪五郎が松五郎と東京の寄席や高小屋で演じていた時にスリエと出会った経緯は次のように語られています。


パリ万博での浪五郎(ル・モンド・イリュストレ紙、1867年11月23日)


寄席と高小屋で打ちました。打っているとフランス人のスリーという曲馬師が来て招魂社で曲馬をやった。アレは私が招魂社の松岡さんに口を利いてそれでアスコで打ったのさ。招魂社からスリーは浅草へ行って打った。浅草では新門の辰が世話ぁしてやったが、そのうちにスリーは馬を無くしてドッかへ行っちまって行方が分らなかった。翌年の正月の幾日だったか忘れたが、西洋人が竹蔵という世話人を連れて私の所へやって来た。見るとスリーだ。ドウしたと言った所が今長崎にトヤをして居るが一緒に行ってくれないか、行ってもよろしいが給金や何かはドウだと、段々相談をしたが初手の様には出せない。併しコッチにいても思わしくないから連中を拵えて今度は大夫は金町の豊吉という足芸の大夫とその倅の由太郎、それから私と倅の松五郎と角兵衛が二人、花蝶という後見と控乗の虎吉と大九の大次郎という大神楽をやる人と都合九人で行くことにしました。


 スリエが横浜の居留地で興行できたのかどうかは定かでありませんが、当時は居留地以外では興行は許されていませんでした。どうやって浪五郎の存在や居場所を知ったのかは不明ですが、浪五郎に相談すれば何か打開できるのではないかと期待しながら訪ねてきたのでしょう。 そのスリエが招魂社の境内で30日間の興行を実現できた背景に浪五郎の口利きがあったとは思いもよらないことでした。 その後は浅草の顔役だった新門辰五郎の口利きで場所を浅草に移し、途中日本人の軽業芸人などと組んだりして半年近くを浅草で興行しています。 その後は関西にまわってから再度東京に戻って再演を試みていますが、もともと外国人の長期滞在は許されていなかったこともあって許可を得ないまま無断興行をしていたと見られます。 そして明治7年頃からは消息記事が見えなくなっていたのです。

 ところが浪五郎の説明でようやくスリエの行動が見えてきた。大多数の馬をいつしか失ってしまったスリエは長崎くんだりまで来てトヤをしていたのである。浪五郎の話の中に「鳥屋(トヤ)につく」という言葉がでてくるが、これは旅興行が不入りで役者や芸人がその地を発てずに宿にこもっている状態をいうのである。そして日本を離れる決意をするに当たってスリエは「一緒に座を組めないか」と浪五郎に相談に来たのである。

 結局、浪五郎はスリエの頼みを受け止め、仲間を募って再度明治8年2月(航海人明細録で年月は確認可能)に上海に向かったのです。浪五郎はスリエの帰国に合わせて上海からフランスに向かう腹積もりだったのでしょう。ところが給金の支払いが滞ったり金主とスリエの間で民事訴訟が起きたりで半年で一旦長崎に戻ったのです。長崎に戻った時のことを次のように語っています。

十五日休んでいました、そのうちにアジヤロシヤのブラダーストツクという所から来た石炭船がありましたが、その石炭船に乗ってアジヤロシヤに渡りアチヨチ歩いて十一年目で帰りました。その時は実にひどい目に遭った。その辛苦といふものは実にひどかった。なかなかチョイとは御話は出来ないて、もう年を取ったからね。忘れたことが多くって話が前後していけません。


 ブラダーストツクとは多分ウラジオストックのことでしょう。この二度目の外遊では明治17年2月に帰国しているため(海外旅券勘合簿で年月は確認可能)9年間海外を回っていたことになります。外国人の先導がないまま九人の一座で飛び出すような無謀なことはしていないと想像できますがリズリーのような経験の豊富な人物がいないままでの旅興行となると思ったような成果をあげることは無理なことです。とはいえ最初の渡航の2倍近い期間を世界で歩き回り色々な出会いがあったり事件に巻き込まれたりしたに違いありません。その経験談が語られていないのが残念です。

出国までの浪五郎のバックグラウンド

 『速記彙報』のインタビューが見つかったことをキッカケに初めて海外行きに挑戦した隅田川浪五郎の決断と出国に至る経緯がようやくわかってきました。ただ、インタビューでは彼の前半生が語られていません。ところがそのことが一部書き留められているものがありました。それは名主による人物像の記述です。実は旅券申請を受けた奉行所は本人の芸業や身元の確認のために地元の名主に対して人物調査とその報告を求めていました。後年の「海外旅券規則」(明治11年制定)では住所や年齢を記載した旅券申請書に戸長と県令(知事)の証明印が求められ、「外国旅券規則」(明治33年制定)では戸籍謄本の添付が定められるようになりましたが、旅券下付をはじめた当初の審査ではこのような手数をかけていたのです。

浪五郎一家の来歴や渡航に至る経緯を名主が記載し番所に提出した書面(一部)


 その書類は旧幕府引継資料である「市中取締書留」に綴じられていますが、倉田喜弘が氏の著書『海外公演事始』の中で浪五郎の来歴部分を読みやすく読解した上で補足解説していますのでそこから引用して紹介します。

浪五郎は千駄ヶ谷町吉兵衛店に住居を持つ矢師林蔵の子だが、父親は長年にわたって弓町の弥右衛門店に住み、浪五郎も天保元年(1830)弓町で生まれた。幼名を竹太郎といい、17歳の弘化三年(1846)まで父の許にいて仕事を見習った。 性来からだが弱く、父親も浪五郎の行末を心配するほどであった。 たまたま手品師の先代養老滝五郎と近付きになり、仕事の合間に手ほどきを受けたところ、ぐんぐんと腕が上がっていく。 そこで嘉永元年(1848)19歳のとき、神田相生町に住む手品師鈴川春五郎の弟子となる。 結婚したのはそれから二年後の嘉永三年で、深川三軒町の人形職勘次郎の娘くにを迎え、本所松坂町二丁目に世帯を持った。 三年ほどたって浅草北馬道町へ引っ越す。 文久二年(1862)10月には神田相性町清五郎店へ、さらに元治元年(1864)10月に同町源蔵店へそれぞれ転居した。 いま住んでいる源蔵店は裏長家(注:原文は表長屋)で、間口二間、奥行き二間半の平家建てである。 妻のくには死亡したのか改名したのか明らかでないが、慶応二年現在、浪五郎の妻はとわという名前になっている。 とわは浪五郎より二つ年下で、小まんと名乗る手品師である。 とわの弟松五郎(17歳)は早くから浪五郎の弟子になっていたが、浪五郎には子供がいないので、文久三年(1863)五月松五郎を養子にもらい、登和吉の芸名で綱渡りをさせている。 同居人のとうは浪五郎の妹で三味線弾き。もう一人同居している梅吉(36歳)は神田岩本町の青物商に生まれたが、浪五郎に弟子入りして芸名を浪七という。


 年代から推測するに、若い時に近づきになった養老滝五郎というのは当時まだ30歳になっていない初代の滝五郎で、鈴川春五郎というのは二代目だったものと考えられます(初代の鈴川春五郎は初代の養老滝五郎の師匠)。 ただ養老滝五郎が演じた芸を浪五郎が引き継いだことを示す資料は見つかっていませんし、鈴川春五郎もどのような芸を演じたのか知られていません。 彼が準備したカラクリ人形はむしろ人形職勘次郎とのつながりが大きかったように思えてきます。
 一手品師だった浪五郎にとっては、ある日突然海外行きの誘いを受け、気が付いた時には世界に旅立っていたという波乱の人生でしたが、苦楽を共にした養子の松五郎の生涯はさらに変化に富んでいます。 松五郎も浪五郎と一緒に二度の海外行きを果たしましたが、浪五郎が帰国したのに対して彼は現地に単身とどまる決意をし、明治24年にベルリンで現地の女性と結婚、外地で生涯を送りました。

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