松山光伸

海外渡航第一号となった日本人手品師の体験
第6回

浪五郎が与えた西洋への影響

 正式に旅券の交付を受けて飛び出した浪五郎は、一回目の海外巡業と、再度ロシア経由で回った二回目の渡航などを合わせ合計14年もの長期にわたって外国で演じたことになります。海外で生涯を終えた人を除けば、昭和に入るまで彼以上に長い期間を外国で演じてきた人物は存在しません。多くの逸話を残した松旭斎天一でさえも丸4年であり、天勝は5年、小天一は11年でした。その天一は現地のマジシャンと数度にわたって接点がありその結果サムタイの演じ方が西洋に知られることになりましたが、それ以上に多くの接点を持ったと思われる浪五郎の場合はそのような交流を示す断片情報がなぜかほとんど見つかっていません。今日では英字新聞等で名前を検索することで出演広告などを見つけることができますが、天一(Ten Ichi)などと違って浪五郎の場合は綴りが正しく記述されてないため(例えばZumindagawa Namingarooのような綴り)検索に引っかかりにくいことも一因でしょう。また演技内容やマジシャンとの接点などについては海外の古いマジック誌で確認できることが多いのですが、彼の時代にはマジック界の広がりがあまりなかったため業界ニュースを伝えるマジック専門誌が存在しておらず、もっとも古いものでも1895年(明治28年)に創刊したMahatma誌に過ぎないことも大きな制約になっています。とはいえ、浪五郎自身が海外での交流を語っている新聞の記事が見つかっています。以下は明治25年11月7日付けの読売新聞からの引用です(一部旧字体を新字体にしています)。

手品師本を忘る: 今は老い朽ちてさながら世捨て人の如くなる芸苑の老人に勇成と云へるあり。二十年前までは名を千成と呼びて柳川一蝶斎と並びて日本手品の二大家と囃やされしが明治八、九年の頃米人何某に雇はれて角兵衛獅子五、六名と共に西洋を巡遊し諸所の興行に喝采を博したるが、当時は彼の国の手品至って幼稚にて日本手品は魔法なりと言うやからもあり。中に就き千成が十八番ともいうべき「手中の傘」は一枚の半紙を掌中にまるめ込(こ)めばたちまち大なる蛇の目の傘数本を手中より出だしてこれを客に籤取りさせる芸なるが、その奇々怪々大いに彼の国の手品師を驚かし、しきりに伝習を望むもの多けれど元来我国の手品師間には師匠と弟子との約束ありて容易にその手術を教えべからざる定めなれば、同人も至極迷惑したれど余儀なく「桶底の達摩」及び「骨牌の当てもの」など手軽きもの二三種を教えたるが、外人が達っての望み辞みがたく、数千円の報酬を貰ひて遂にその「手中の傘」ほか数種の秘術を伝えて帰朝せり。然るに外人はこの数種の秘術にさまざまな修飾を加え、非常の大仕掛にしてこれをおのれ特有の手品の如くに言いなせしほどに、追々世間に広まりて遂にノアトンその他の人々にも伝えたるを、我国少壮の手品師はかえってこれを外人に習い西洋手品と号してその元は我国に在るを心付かざるに至りしかば、千成自身は外人の言うなり次第に秘術を奪われざる事を嘆き、国音の似通えるより名も勇成と改ためて今は浅草松葉町の片隅に隠遁し、芸道追善の為めとて近頃手品師をやめ、ただ念仏三昧に余生を送りおるとぞ。


 外国人の「言うなり」になって教えてしまったことを後悔し、勇成(ゆうなり)と自嘲した晩年の浪五郎の述懐ですが、記事タイトルにある「本を忘る」は「もとを忘る」と読み「基本を忘れる」の意味です。この中に出てくるノアトンというのは明治22年に来日して東都の評判になったワッシ・ノートンのことで、彼に影響を与えたかどうかはノートンの演目から見る限りマユツバですが(拙著『実証・日本の手品史』の第8章)、もともと日本の芸であるにもかかわらず西洋人が考えたものとして世界では誤解されているものがあるのも事実です。例えば、濱碇一家が演じた足芸が正にそれです。あおむけに寝て両足を高く差し上げた演者が,足底に梯子や樽を乗せ、そこへ少年が登って各種の演技を見せるという技です。この足芸は1820年代から江戸や上方で盛んに行われていたものであるにもかかわらずリズリーが彼らを率いて西洋に紹介したため、それ以来リズリー・アクトとして世界では知られるようになってしまったのです。

 それはともかくも、浪五郎が現地のマジシャンとネタの交換をするような場面は当然あったことでしょう。実際、バタフライ・トリックが欧州で演じられて間もなく英国を中心とする名だたるヨーロッパのマジシャンが即座に演目に取り入れて演じていたことはすでに明らかになっています(バタフライ・トリックが伝わった経緯については『実証・日本の手品史』の第2章にあります)。ここではそれ以外の演目でどのようなものが伝えられていたのか考えてみることにします。

浪五郎らが伝えたと思われる手品

 実は彼らが旅回りをした数年後の1876年(明治9年)、イギリスで有名な ”Modern Magic”という本が出版になりました。その中に日本人が演じた手品の解説がいくつか記載されています。あとに続く天一などがヨーロッパに行くのは遥か後年であるためこれらを伝えた可能性のある手品師といえば浪五郎か倅の松五郎、あるいはアサキチといったところではないか考えられます。多分著者のProfessor Hoffmannも日本人の演技を目にしていたことでしょう。
 この ”Modern Magic” で解説されているのは、The Obedient Ball(命令で動いたり止まったりするボール)、The Japanese Egg Bag(袋玉子)、The Japanese Inexhaustible Boxes(取り出し箱)、The Feast of Lanterns(火のついた提灯の出現)、The Butterfly Trick(紙で出来た蝶の舞)で、仕掛けも一緒に書かれています。その内、図解があるのは3つです。取り出し箱(右の絵)はいわゆるガックリ箱ですが、よく知られているものとは違って二重構造になっており、内箱を前に倒して中がカラであることを示す際、横方向から仕掛けが見えないように外箱でカバーするようになっています。箱を二重にした点が日本の新しいアイデアとして紹介されています。袋玉子については「昔からある奇術」とした上で、「数年前にロンドンに来た日本人が変わった形で(in a modified form)演じた」と述べられた上でその違いが細部にわたって解説されています。この説明文を見ると現在もっとも広く知られているエッグ・バッグはこの日本人の演じたものがベースになっているように思えます。

“Modern Magic”(1876刊)に紹介されている日本手品の例


 “Modern Magic” で紹介されたもの以外では、Egg on Fan(扇子玉子)やSnowstorm in China(紙吹雪)も日本から伝わったものと言われていますが、前者は1906年4月にロンドンのSt. George’s Hallで世界の一流マジシャンばかりを集めて行われた”First Grand Séance” という歴史的に有名なショーの中でマックス・スターリング(Max Sterling)が ”The Magic of Japan” の演目名で演じたものが初見であり、後者はデビッド・デバント(David Devant)が1910年に“Tricks for Everyone”いう著作の中で解説している(p.36-38)のが初見です。天一一座は1901年から4年間欧米を巡業していましたからそこから伝わった可能性がありますが、その頃は盛んに日本人のジャグラーがロンドンに現れていますから彼らがあまり難しくないこのような芸を伝えていた可能性もあります。ちなみにこの”First Grand Séance”のオープニングには日本のジャグラーM. Gintaro(甚太郎)が太神楽芸を中心とする素晴らしい妙技の数々を演じて大喝采を浴びています。

 欧米に伝わったそれ以外の日本手品としては、ジャパニーズ・マジックを売り物にしていた人物の演目からある程度推定が可能です。その一人は上流貴族を相手に演じたと言われている英国人マジシャン、チャールズ・バートラム(Charles Bertram:1853-1907)です。実は彼は1881年の興行の際に、すでにNAKITOというタイトルのJapanese Illusionを演じており、それ以降何度もこれをフィナーレで演じるほどのお気に入りの演目にしていました。ところがその演技の内容は今もって明らかになっていません。また女性手品師オキタ(Okita:1852-1916)が1885年に”The Great Tay-Kin, a Japanese mystery”というコメディタッチのショーをロンドンで演じていてその中で「火のついたランタンの出現」や「取り出し箱」などを演じています。彼女の「取り出し箱」は5枚の長方形の板を箱状に組立ててその中からシルクやテープなどを大量に出すという現象で欧米ではダルビーニ・ボックス(D’Alvini Box)と称せられているものですが、日本で「顕晦箱」としてよく知られている手品と現象が酷似しています。顕晦箱の原形が元々は分解できるタイプだった可能性が考えられますが、西洋化する過程で変化したものかも知れません。ダルビーニは1870年代の頃から多くの日本人一座と行動をともにしていた人物で後年日本人の衣装を身に着けて太神楽曲芸や日本手品を演じるようになっており、「顕晦箱」も習い覚えたものをレパートリーに取り入れたものと考えられます。ちなみにオキタのショーのタイトルにあるTay-Kinとは「大君」のことで、1885年1月から2年にわたってロンドンの中心で開催されたJapanese Village(日本人の職人や芸人が送られて日本の工芸・芸能・生活様式などが紹介された)や、同年に初演となったオペレッタ「ミカド」の評判にあやかって上演されたものでした。 チャールズ・バートラムは、オキタの出演した”The Great Tay-Kin, a Japanese mystery”の演出に対してアドバイスしていたことも明らかになっていますから、Charles Bertram、D'Alvini、Okitaが日本の手品の西洋への吸収・拡散に大きな役割を果たしたことはほぼ間違いないところと考えていいでしょう。彼らのことについては機会があればまた触れてみたいと思います。

損得勘定

 一儲けをたくらんだ外国人の興行主(リズリーとマッガイア)と、相当な好条件で買われて世界の舞台に立った日本人芸人でしたから、実態がどうであれ少なくとも当初は双方にとってウィン・ウィンの関係だったに違いありません。 濱碇、隅田川、松井の3つのグループを合わせると、総勢18人、契約金は年間5300両(現在の価値で6900万円程度)、これが丸々可処分所得である上に、使い出が現在の15倍程あったとすれば現在の感覚では10億円を軽く超える購買力があったことになります。そのうえ旅費や食費などの負担もなく、その収入は二年三年と続いたのです。現代のトップ・マジシャンであるデビッド・カッパーフィールドやランス・バートンの年収が数十億円だったとフォーブス誌などは伝えていますが、その収入はチーム員の経費も含めた契約額かと思われ、またその中から多額の税金を支払うわけですから、正に現代のカッパーフィールドやバートン並みの収入に近いものがあったと考えられます。

 ただ、それだけのお金を受け取っても使うところがありません。背広を身に着け、懐中時計などの高級品を買い、写真館で記念写真を何度も撮り、土産物などをいくら買ってもその額は知れています。日本への送金も当時は困難でしたから帰国後に換金しやすい宝石や指輪を買い込んだ可能性はあります(天一の場合はそのような買い物をしたことが現地新聞でも報じられています)。そのような状況にあって座員の多くが何度も娼家に出かけるようになったことが『広八日記』にはありますが、お金を巻き上げられて警察沙汰になることも一度ならずあって懲りたようです。ボストンの劇場に出演していた際には、ホテルの室内が荒らされ180ドル(180両)を盗まれましたが、ロンドン滞在時の被害は最悪で出演中にホテルの部屋から失火を起こし1000両近い財産を失ったことが『広八日記』には記されています。いずれにせよ、この日記には、広八(彼は濱碇一家のメンバー岩吉です)や同室の仲間が巻き込まれた事件が中心に書かれているため、全体ではもっと被害は大きかったと考えられます。また、契約満了後の三年目に入ってからは徐々に支払いが滞り、一時は演技をボイコットすることもあったといいますからどのくらい蓄財できたかは定かではありません。松井菊次郎が亡くなった際には、ロンドンから45キロ離れたサリー州の地に埋葬を行っていますがその立派な柩を見て「日本では町人百姓ごときにはできない弔いである」と『広八日記』には書かれています。石塔を建て戒名や名を刻んでもらったとありますから相当な費用を掛けたのでしょう。

 一方の、リズリーやマッガイアはどうだったのでしょう。具体的な数字が出ている記事は少ないのですが、最初の公演地であったサンフランシスコでの数週間の興行で33000ドルの売り上げを挙げたことを報じている新聞があります。もちろん劇場への賃料や広告代などの経費などはかかっていますが、年間5300ドル(=5300両)の契約料(日本人への給金)は数都市の興行ですぐに元をとれるほどの大入りでした。もちろんバンクスなどの給料や、運賃・宿賃・食費等の経費負担はかなりの額ですが、それでもそういった出費を差し引いた残りの儲けは出資者だったリズリーとマッガイアの懐に入るというわけです。

 ところが、彼ら自身もいろいろ訴訟に巻き込まれています。一つはマッガイアが2つの日本人一座の興行権を同時に取得していたことが原因です。実は旅券第一号を持ってサンフランシスコに到着したはずの一行でしたが、なんとその1カ月前に旅券の発行が間に合わないまま一足先に日本を離れ(いわば密出国)サンフランシスコに上陸していた「鉄割一座」という軽業集団がありマッガイアはこちらの興行権も手に入れていたのです。二股をかけて大儲けを企んだマッガイアでしたが、一方は経験豊かなリズリーが率いて二年間有効な旅券を持つ一座であったのに対し、他方は興行の世界や契約事には素人だったスミス夫妻が率いた一座でこちらの方は一年を前提として出国の内諾を得ていたに過ぎないグループでした。現地で興行先を取り仕切った興行師だけがマッガイアという同一人だったがためトラブルが起きるのは時間の問題だったのです。アメリカ公演を終えるとリズリーの一座(濱碇や隅田川の一行)はヨーロッパに渡りますが、鉄割一座の方はマッガイアが一方的に契約の延長をスミスに迫り前金を一座に払うという挙に及んだことから訴訟に発展するのです。前金はすでに渡していると言うマッガイアと期限内に帰国できなくなるため断固拒否した鉄割一座が対立し、スミスと一座が一時的に裁判所に拘置されるなど訴訟は長引く結果となりました。ヨーロッパに渡っていたマッガイアは鉄割一座との一件ではニューヨークからの出頭要請で出席せざるを得ず、リズリーの一行から離れる結果になっています。

 加えてリズリー一座にとっては予想外のことが何度もありました。ニューヨークに到着したとき出演できる劇場が満杯で興行ができなかったのです。そこで一旦南下し後日ニューヨークに再挑戦するという動きになりました。同じことがロンドンでも起きました。公演する予定だった劇場が火災で使えなくなったため、急遽地方回りや他国に転じ、再度ロンドンに戻るという予期しない出来事がありました。また、解散後に残ったメンバーを引き連れてイギリスに回った際には、リズリー自身が児童虐待の嫌疑で訴えられ裁判沙汰にされるなど、彼らも順調とはいえない波乱が多々ありました。
 とはいえ、双方にとっての最大の損失は松井菊次郎が亡くなったことだったに違いありません。

 ともあれ、新発見の『速記彙報』のインタビュー記事と『広八日記』とを併せ読むことによって、現代とは大違いの波乱万丈の日々を追体験でき、当時を偲べるようになったのは大きな収穫でした。再度ロシア経由でヨーロッパに渡った浪五郎の二度目の体験がいつの日にか見つかることがあれば、初期の東西のマジックの関わりがより深く理解できるようになることでしょう。

【2017-6-30記】

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