松山光伸

第3回 興行界の陰り

 仕事と家庭の基盤が整ってきたかに見えたタカセのイギリス生活ですが、雲行きは徐々に怪しくなってきます。その背景を知る上で、当時のセント・ジョージ・ホールの状況を若干説明しておきましょう。この劇場は、マスケリンとデヴァントのマジックショーの本拠地として確固たる基盤を築いてきましたが、活動がロンドンだけでは興行収入にも限界があったため、プロビンシャル・カンパニーという別動部隊を組織し、ロンドンで舞台に掛けたショーを売り物にして地方を回って稼ぐという試みを早くから行っています。それが収益を出せるようになったのは1899年に30歳そこそこのデビッド・デヴァントがそのリーダーシップを担ってからでした。活動写真をプログラムに入れたり独自に出演者を発掘したりして各地をツアーして回り、数年のうちにかなり収益を上げるようになったのです。
 実は、以前本拠地にしていたエジプシャン・ホールからセント・ジョージ・ホールに移行した1905年初め、マスケリンの一座は資金が底をついて破産に瀕したことがあります。その時、マスケリンはデヴァントに助けを求め、彼のチームが地方で稼いだお金を振り向けてもらって破産の危機をなんとか乗り切ったというエピソードがあります。マジックというのは日常現象から離れた意外性が命ですし、仕掛けが分かってしまっては成り立ちませんから定期的に出し物を変えざるをえず、また入れ替えた新作が成功するかしないかで客足も大きく変化するためマジック専用の常設劇場というのはもともと経営的には難しいものがあったのです。

   安定を取り戻したかに見えたセント・ジョージ・ホールも10年経つと状況は変わってきました。J. N.マスケリンは夫人を亡くした1911年以来、息子のネビル(Nevil Maskelyne)やアーチー(Archie Maskelyne)にそれまでの役割のほとんどを託してきましたし、興行界ではミュージック・ホール(アメリカのヴォードビルに相当)が盛んになっていたためデヴァントはそこのバラエティ・ショーに活動の主体を置くようになって、ネビルがセント・ジョージ・ホールの全体を仕切るという世代交代が行われるようになりました。また悪いことに無声映画とはいえ人気が出始めた映画館に客足がかなり流れるようになっていたのです。
 そんな中、遠く離れたボスニアの首都のサラエボでその地を訪れていたオーストリアの皇太子がセルビア人の青年に暗殺されるという事件が勃発しました(1914年6月28日)。これがイギリスに大変な影響を与えるとは当時誰も想像だにしていませんでした。事件の背景にはルーマニアやブルガリアやセルビアやアルバニアやギリシアなどがあるバルカン半島の支配をめぐりオーストラリア=ハンガリー帝国とロシアの対立がありました(特にセルビアにはロシア系のスラブ人が多かったとされています)。 この暗殺事件への報復として、7月28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告したことで事態は急変します。ロシアはこれに対抗して軍事態勢を整えてセルビア支援に動き出し、ロシアと軍事同盟を結んでいたフランスも動いたため、オーストリア=ハンガリーと同盟関係にあったドイツは8月1日ロシアに、8月3日フランスに、8月4日セルビアにと相次いで宣戦布告をします。一方、フランスやロシア両国と協力関係にあったイギリスも8月4日セルビア支援のためにドイツに対して宣戦布告をするなど、事態は中央同盟国(ドイツ、オーストリア=ハンガリーなど)と連合国(ロシア・フランス・イギリスなど)の対決の形となって一気にヨーロッパ全土に拡大するという大戦争になったのです。そして8月23日にはイギリスと同盟関係にあった日本も連合国側についてドイツに宣戦布告をしました。

 直後の9月、タカセはスコットランドの製鉄の町マザーウェルの劇場(Empire Electric Theatre)に出演していました。The Motherwell Times紙は戦時に入っていた当時の様子を「タカセは抜きんでた呼び物で、観客が送った声援には東洋の勇気ある小さな同盟国から来た演者への暖かい気持ちも込められていたように思う」と次のように伝えています(9月18日号)。

“Takase” is a distinct attraction, and the reception accorded him at the Empire is perhaps rendered all the warmer from the fact that he belongs to the plucky little nation which is now our ally in the Far East.


戦時のセント・ジョージ・ホール

 1914年末、初めてドイツ機が沿岸部に来襲し、年が明けると飛行船の来襲もありました。偵察を兼ねたものだったのかも知れませんが、この戦争では飛行機や戦車などの近代兵器が本格的に投入されるようになったのです。1915年に入るとネビル・マスケリンの息子クライブ(Clive)が志願兵として軍隊に参加します(当時20歳)。軍は戦争が勃発してしばらくは志願兵に依存していましたが、1916年1月から新たに制定された兵役法に基づき18歳から40歳までの独身男性の徴兵が始まります。当初こそ独身男性だけでしたが、6月からは妻帯者も対象になりました(最終的に兵役義務は対象年齢が51歳まで延長となります)。5月31日にはドイツの超大型飛行船ツェッペリン号がロンドンの深夜の上空に現われ爆弾や焼夷弾を落として市民のパニックを引き起こしました。9月にも再度飛行船の攻撃にさらされ、ロンドンはもはや前線と同様に戦場と化したのです。

戦時中のセント・ジョージ・ホールに出演しているタカセ
(1915年8月21日のプログラム:Davenport Collection所蔵)

 セント・ジョージ・ホールにも大きな影響がもたらされます。徴兵の影響で、出演者のみならず、スタッフやミュージシャンなどの供給が日に日に難しくなっていくものの、やりくりして興行は続けられますが、観客の数も戦争による混乱が影響して漸減するなど厳しい状態に陥っていきます。地方回りのプロビンシャル・カンパニーの編成にも支障が生じ、収益も以前のようにはいかなくなりました。ネビルは既に徴兵年齢を超えていたものの一族の次の世代にはいつ徴兵の声がかかるかといった心配が常に心に重くのしかかる毎日でした。

戦争下におけるセント・ジョージ・ホールのチケット売上推移
(出典:St. George’s Hall, Anne Davenport/John Salisse, 2001)

 帰化していなかったため兵役を免れていたタカセにも大きな不幸が訪れます。1916年11月にファニーが2歳の子を残して急に亡くなってしまったのです。死因は肺結核(Phithsis)と記されています。急性(Acute)となっていますのでどうやら3ヵ月で急に進行したように読み取れます。 死亡届はファニーの母親のリリー(Lily)が行っていますが、その住所は彼らが住んでいたところから若干離れているのでファニーから隔離を薦められていたのかも知れません。いずれにせよ、これ以降リリアン・ハナは祖父母に育てられたものと思われます。

ファニーの死亡届
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 話題は少し脇道にそれます。翌1917年の2月のことです。タカセは親しくなっていた日本人軽業師らとともに4人でアルゼンチンのブエノスアイレスに向かう予定を立てていました。アルゼンチンは1880年代以降、西欧化の推進とヨーロッパから白人移民を積極的に受け入れる政策がとられた結果、特に外国資本のうちイギリスからの投資が1900年には80%を占めるなどイギリスとの経済的な結びつきが強くなっていました。当然のことながら賑わうブエノスアイレスでの興行を目指すエンターテイナーも増えていたのです。 この時、タカセと一緒にブエノスアイレスに行くことにしていたのは軽業曲芸を得意とするセイ・マキ夫妻(Say Maki:芸名The Two Makis)でした。ところが乗船予定者名簿を見ると彼らの名前は横線で抹消されておりブエノスアイレス行きは直前でキャンセルされたことがわかったのです。

1917年2月23日付けブエノスアイリス行きの乗船予定客名簿(一部)
(クリックすると拡大します)

キャンセルした理由は、戦況が予断を許さなくなったことに加え、タカセの3歳に満たない子を残して海外に行くことに対し実家の義理の祖母たちが 強く反対したことなどあったように思えます(マキ夫妻も彼らの3歳児を残していくつもりだったようです)。改めて当時のタカセの興行記録を確認してみると出航予定日だった2月23日を挟んでイギリス各地で頻繁に興行活動を続けていたことが分かりました。このことから海外行きを目論んだのは内地での仕事が減ったためではなく、あくまでタカセ自身が積極的に活動領域を広めたかったものと考えられます。この話は「海外に出ることを諦めた」というだけのことですから、本来は紹介するほどのものではありませんが、実は意味があって敢えて取り上げたのです。
 それは一緒に組んだ仲間のセイ・マキ夫妻のバックグラウンドを調べているうちに意外なことを知ったからです。ここではセイ・マキの9歳年下の夫人の名はSeiye Makiと読めますが(他の記録とダブルチェックするとSuyeが正しい)、実はセイ・マキの結婚届等の履歴を追っていったところ、この夫人の旧姓がブヒクロサン(Bihicrosan)であることを知りました。あの有名なJapanese Villageを1885年にロンドン中心部で開催したタンナケル(Tannaker Buhicrosan)とオタケサン(Otakesan)夫婦の末っ子のオスニサン(Osnisan Buhicrosan:娘時代の愛称はSue)がこの人物だったのです。タンナケルは開国直後の1867年に初めて豪州に渡った日本人芸人一座(オタケサンもその一員)を率いたことであまりに有名ですが、軽業芸家業から引退した後に生まれた末っ子の娘が長じて軽業芸人になっていたのは意外でした。そして結婚後はSuyeを通称名にしていたのです。この頃になるともはや日本人芸人の動きや実態をフォローすることはほとんど不可能になるほど複雑になっていることを実感するエピソードです。


ダンスに芸域を広げるタカセ

 1917年4月、アメリカが連合国側に参戦しました。世界は総力戦となって、この大戦争はいつ終わるとも知れぬ深みに陥っていったのです(この戦争は後に第一次世界大戦と呼ばれることになります)。そしてタカセの演技はこの頃から変化が見られます。その端緒は1917年6月19日のスコッツマン紙(The Scotsman)に現われます。キング劇場(The King’s Theatre)に出演した時に“Takase, a Japanese conjurer and Dancer”という表現が初めて出てきます。そしてそれ以来彼のことは ほとんど “conjurer and dancer”という表現で紙面に現われるのです。
 例えば、1917年9月6日にロンドンのショーディッチ地区にあるエンパイア劇場(The Shoreditch Empire)での演技について、ステージ紙(The Stage)は “Takase has many bewildering magic experiments to offer to which he adds some neat and precise dancing”と報じており、「マジックに格好いい正確なダンスを付け加えた」と書かれています。ただ、これだけを見るとマジックの演技表現にダンスを取り入れたものなのか、それともマジックとは別にダンスをレパートリーにしたものか判然としません。

 ところが1918年7月20日にイギリス中部ウォリックシャー州(Warwickshire)のエンパイア劇場(The Empire)に現われた彼の演技では、それを報じたRugby Advertiser紙は “In addition to several conjuring tricks, Takase, a Japanese artist, gives an exhibition of step dancing.”と表現していて、マジックの演技に加えて、ステップダンス(上体よりも足の動きを重視したダンス)の演技を披露したことが明らかになります。このことは1920年4月28日付けのThe Rochdale Times紙に載ったエンパイア劇場(The Empire)での演技評でも確認できます。そこには “Takase, Japanese conjurer and dancer, mystifies the audience with his smart tricks and pleases greatly with his footwork. ”とあり、マジックを演じた後に巧みな足のダンスで観客を魅了した様子を伝えています。
 更にグロスター(Gloucester)の The Citizen紙の1921年1月11日号ではコロシアム劇場(The Coliseum)の演技に対して “Some dazzling tricks in the conjuring line are performed by Takase, a Japanese entertainer, who also dances to weird music” とあり、「目がくらむようなマジックをいくつか演じた上に、奇妙なミュージックに合わせたダンスを演じる」など、ダンス自体にも独特の演出を凝らして観客を楽しませようとしている姿を見ることができます。
 タカセがダンスをレパートリーに加えるようになった事情は不明です。偶然楽屋で知り会ったダンサーにステップを教えてもらう切掛けがあったのでしょうか。意外にもダンスの才能があることを知って、出演者不足の折に演じてみたところ評判がよく、マジックとダンスの双方をレパートリーにするようになったのかも知れません。

 ところで、この時期の劇場街やエンターテイナーを襲ったのは世界大戦の徴兵や空襲だけではありませんでした。それは世界的に大流行したスペイン風邪(インフルエンザ)がイギリス全土でも猛威を振るったことでした。1918年6月18日のデイリー・ミラー紙(Daily Mirror)が伝えるところによれば、ある医師は「恐らくロンドンだけでもこのインフルエンザに1万人は罹患しているのではないか」(I should say there are quite 10,000 people ‘down’ with the ‘flu’ in London alone.)とデイリー・ミラー紙に語り、また、混雑した劇場や絵画館で1時間たりともいないように(Don’t spend every hour of your spare time in crowded theatres and picture palace)とも記しています。このインフルエンザのパンデミックはこの後更に拡大し、劇場の閉鎖が相次ぐばかりか、警察や消防など市民を守るべき組織でも感染者や死者が続出するなど大きな混乱を引き起こしたのです。

 第一次世界大戦は1918年11月休戦協定等が結ばれたことで一応の終結を見ます。先が見えない消耗戦によって反戦活動や軍の内部で反乱が起きたり、スペイン風邪の世界的な猛威が戦意を削いだりした側面もありましたが、戦勝側のロシアやフランスですら、軍人の死者だけに限ったとしてもそれぞれ100万人を遥かに超える死者を出し、イギリスでも約90万人が戦死するという悲惨なものでした。スペイン風邪のパンデミックは1919年の夏には下火になりました。ただイギリスでは国民の25%が感染し22万8千人が亡くなった災禍でした。
 このような状況下にあって、経済の復興は遅々としたものでしたが、復員したマジシャンなどのおかげでプログラムが少しずつ多彩になり、またエンターテインメントを渇望していた観客が戻ってくるようになって、セント・ジョージ・ホールも少しずつ活気を取り戻していきました。

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