松山光伸

夭折した三代目松旭斎天一(2)

 前回は、三代目の天一は昭和23年に亡くなっており、昭和45年の6月に氏の二十三回忌と二代目の五十回忌が一緒に行われたと記しました(アルバムにあった昭和44年法要という記述は誤記と考えられました)。 若くして亡くなった三代目の晩年がどういうものだったかは不明のままでしたが偶然これらが明らかになってきました。 今回はその報告です。

福井地震で亡くなっていた三代目松旭斎天一

 三代目は福井大地震で亡くなっていました。そのことは当時日本に来ていたアメリカのジョン・ブース(John Booth)というマジシャンがLinking Ring誌(International Brotherhood of Magiciansの機関誌)に寄せていた日本訪問記の中にありました(1948年9月号)。
 昭和23年6月28日午後4時13分に起きた福井地震はマグニチュード7.1でした(当時はサマータイムを採用していたため時計は午後5時13分)。震源が浅かったため市内の震度は6に達し、死者が3,800人弱にのぼるという都市直下型の地震でした。福井市だけでも焼失面積64万坪、全壊家屋12,270戸、死者は930人を数え、この地震をキカッケに震度7(激震)を創設することになったとされています。現在でも東日本大震災、阪神・淡路大震災に次いで戦後3番目の規模に位置づけられるほどの大地震でした。

三代目が被災した福井地震

 ジョン・ブースの記述によれば、地震が起きた翌6月29日の早朝、GHQは被害状況を把握するため東京から20人以上の特派員を乗せたC-54という軍用機を飛ばし、壊滅状態になった世界に名高い絹工業の都市上空からその惨状を確認しています。 その飛行機にジョン・ブースも便乗していて当時の惨状を目の当たりにしていました。

ジョン・ブースの貴重な日本滞在記(一部)

 その記事の中でブースは、「あとから知ったことではあるが、3000名を超える死者を出した大地震の惨事の中で、あの偉大な天一の息子である二代目天一が私の眼下で亡くなっていた」と述べていました。 この話は松旭斎天洋らの在京手品師とそのあと出会った時に聞かされたと考えられますが(後日天洋を初めとして日本の多くのマジシャンと懇親の場を持った様子が記されている)、ここに出てくる「二代目」と言うのは彼の聞き違いで、正しくは「三代目」のことです(二代目は大正10年没)。
 福井地震に先立つ戦争末期、都内や主だった都市で活動をしていた芸能人の多くは空襲を避けるために親戚が住んでいる縁故地などへ疎開していました。 『古川ロッパ昭和日記』には日々の戦況やそういった芸人仲間の動きが詳しく記されています。 三代目も福井出身だった初代天一の縁故筋を頼って同地に疎開していた可能性があります。 ところが終戦間際の昭和20年7月になると空襲は日本海側にも及び、福井市も昭和20年7月19日の深夜に大空襲に見舞われました。127機に及ぶB-29の編隊からの集中的な爆撃によって2万戸以上が焼失、9万人以上の市民が罹災し、死者数も1,500人をこえる被害となったのです(図説福井県史)。

空襲の爪跡

 その空襲をかいくぐったと思われる三代目ですが、ようやく復興を果たしつつあった三年後、再び同地を襲った福井地震によって命を落としてしまったのです。昭和23年と言えば、都会では芸能人に対する仕事の機会が回復しはじめ、占領軍向けの仕事もその仕組みが整い始めた頃に当たります。三代目はきっと復帰の機をうかがっていたのでしょう。
 その三代目の23回忌はちょうど二代目の50回忌と同じタイミングとなって昭和45年の6月に父子二代一緒の法要が行われました。法要に出席した天洋は初代から三代にわたって天一一家とは接点がありました。その直系は絶えてしまいましたが戦後の松旭斎一派は初代天一から直接薫陶を受けた天洋が中心になって再興を果たすことになりました。

ジョン・ブース(1912~2009)

 ジョン・ブースはこの地震について次のように述べています。

この大震災は福井市をほとんど壊滅状態にしてしまった。ただ、二代目天一(訳注:三代目のこと)の死は別にしても、この遠い地の惨禍がアメリカのマジシャンにも影響していることを読者はあまり理解していないのではないかと思う。
日本における絹の生産の40パーセントを占め、マジシャンもかなり愛用している絹を作りだしてきたこの地の数千もの織機が焼けつくされてしまったのである。それがため絹の価格が高騰してきたのである。その時はこの地震が世界にどのような影響を与えることになるのか露とも知らず、被災地に降り立って火葬の煙が立ちのぼる中、焼け焦げた死体や壊滅的なダメージを受けた都市を私は24時間歩き回っていたのである。


 いまやマジック用シルクは通販でも手軽に買えるようになりましたが、当時はプロダクション用に使うカラフルなシルクやマンモスシルクなどのステージを彩る大きなものもこの地が主要な生産地だったようです。そしてブースは最後に次のように結んでいます。

 日本は我々個々人すべてにとって生活の一部になっている。どんな地域も世界の一部になっているのと同じように。日本のマジシャンを詳しく知ることができとても喜んでいる。


 彼は、日本の地に降り立ったその二日後に福井地震の惨状を目にしました。この衝撃の体験を手始めに、彼はマジシャンとして様々な足跡を戦争直後の日本に残して行くことになります。そのことはまた別途機会をみて記すことにしたいと思います。

注:福井地震によって各河川の堤防が陥没・ 崩壊など致命的な打撃を受けた所に、7月23日からの前線による大雨によって九頭竜川が決壊、福井市は更なる大規模災禍に見舞われた。浸水深は2.4mにもなり大惨状を引き起こした。この時の福井市内の浸水家屋は約7,000人、被災人口約28,000人に及ぶなど、福井市は昭和20年6月から23年7月の3年間に歴史的な惨禍を受けてきた。これらの苦難を乗り越えてきた福井市を不死鳥(フェニックス)に例えた「福井フェニックスまつり」は福井県内最大の祭典として毎年8月初旬に開催されている。


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