松山光伸

天一と天勝が吹聴した「ホラ話」(4)

舞踏会の本当の様子

 招待客は赤青白の星条旗カラーで彩られた会場に着くと、ライトアップやバラの花で飾られた小道を通って客間に通される。様々な花やデコレーションで飾られた客間には古き良き植民地時代の礼装やアクセサリーでドレスアップした紳士淑女が次々と参集する情景などニューポートでも特筆される社交の場の様子がそこには描かれている。館から天蓋の付いたプロムナードをくぐるとそこはこの日のために作られた12m×21mの広さの特設のダンスホールである。
 驚いたことに内部のフロアは寄木張りで、14枚のプラスターで作られた白壁は紗のドレープで飾られ、プラスターをつなぐ装飾円柱は柱台・柱頭付の威風堂々たるものでその上部からシルクの星条旗が下げられているのが目に入る。それぞれに32個の電球が灯った五つの大きなシャンデリアが天井から吊るされ、装飾柱から照らすライトの光と一体となって会場を照らす一方、壁を見ると植民地時代のシーンや人物を描いた14枚の油絵がジョージワシントンを中心に掛けられているといった具合で、正に華やかな植民地時代の社交の場が再現されたものとなっている。

 招待客はペアになって一組ずつ会場に進んでダンスを披露し着席する。ほどなく16人のダンサーが繰り出しメヌエットを踊って盛んな喝采を浴びて退場するが、このダンサーはフィッシュ夫人が選んだ外国公館の若手外交官を中心とした若者に多くの美少女を加えて演じてもらったものだったとのこと。途中夕食が館のアチコチで振る舞われ、最後はフィッシュ夫人らがリードするコティヨン形式のダンスとなる。踊りの輪に加わったカップルは100組、その名も逐一報じられるという詳細な記事である。ダンスに参加した人達には植民地時代のものにちなんだデザインの記念の品が用意されていた。こうして三組のバンドが入って盛り上がった舞踏会が終わった。

フィッシュ夫人 舞踏会の様子を伝える「ワールド」紙
フィッシュ夫人

舞踏会の様子を伝える「ワールド」紙

 ちなみにフィッシュ夫人(イリノイセントラル鉄道の社長スタイブサント・フィッシュの夫人)がこの邸宅を建てたのは1898年のことでThe Gilded Ageといわれた1900年前後のニューポートのもっとも華やかな社交界の一場面が正に繰り広げられたのである。本当に天一が招待されていたとしたらきっと度肝を抜かれたに違いない。

 ところが微に入り細に入りレポートされたこの記事にはどういうわけか天一や天勝の名前が一切出てこないばかりか、手品が演じられた様子をうかがわせるものがない。同じように細かく当日の様子を報じたBoston Daily Globe紙やNew York Times紙でも同様である。

 この日のために改装したり準備したりして掛かったコストは総額1万8千ドルに及ぶということも紙上では伝えられているが、天一天勝伝に書かれていたパラソルの話はなく、また、それが一本2、3千ドルは下らないということになると総費用とも辻褄が合わなくなる。これは一体どうしたことだろう。

 読売新聞が伝える記事を改めて見ると、主催者や主賓の名が正しく記されていることや当時の郵便物がニューヨークから横浜に約3週間で届くことを考えあわせると(ニューヨークの日本語新聞の広告に日本まで配達するのに要する日数が記されている)、天一がこの舞踏会に実際に出席したか、招待状を受けたものの出席を断念したかの事実があったことは確かなようだ。ただBoston Daily Globe紙では注目すべきドレスやモードで参会した14名の女性招待客の服装の詳細を記述しているにもかかわらず、そこに書かれてしかるべき天勝やその打ち掛け姿の紹介は出てこない。
 これらを総合的に考えると、仮に当日出席していたとしても存在感を示せないままその場の雰囲気に圧倒されて会場をあとにしたものと考えられ、また途中で打ち掛けを取寄せたという話もマユツバである。天一が当時この話をあまり誇張せずに日本に書き送っていたことは明らかなため、自慢話に脚色したこの話の出所は天勝自身の口から後の座員や外部の取材者に語られていたものを著者の村松が書き綴ったものと考えるのが妥当であろう。

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サンフランシスコ入国時のホラ

 天一天勝伝には他にも奇妙な話がいろいろある。例えば、一座が渡米の途上、天一がハワイで乗船しそこなった結果、先に他の座員がサンフランシスコに到着したものの入国保証金を持っていなかったために入国できなかったという話などそれである。出迎えの人に一人分の保証金を差入れてもらって得意の手品で密かにパスしながら次々と自分の持ち金のように見せて全員入国を果たしたという自慢気なエピソードも同じく村松の書で初見され、その後の書に引き継がれている。入国検査のカウンターでそのような芸当ができるとはにわかには信じ難い話である。
 ところがこの場面は、明治38年8月1日発行の文芸倶楽部(第八巻第十一号)に詳しく書かれていた。帰国直後に天一から取材した内容を「大評判の日本奇術師(松旭齋天一洋行土産)」のタイトルで紹介したものである。そこには上陸保証金を所持していなかったことで上陸を許可されないまま船室に押し戻されたとあり、その事情をサンフランシスコでホテル業を営んでいる大磯屋の主人が耳にして取り敢えずの金を携えて船にきて、上陸を取り計らったとされている。このことは報知新聞で連載された天一の連載談(明治38年5月25日開始)にも記されている。

 手品で所持金を密かに使い回しながら入国を果たしたという面白おかしい武勇談が登場するのはこれまた伝記小説家村松による「魔術の女王」(昭和32年)が最初である。著者による創作の可能性も考えられなくはないが、村松の著作姿勢には膨大な資料等に基づいたものであることが伺われ、不明な点は当時の座員から聞き込んで書き起こして思われることから、天一亡き後、天勝が吹聴して広めていたものを書き起こしたものと考えるのが自然である。

 多くの手品師の一生を検証していくと、特に天一と天勝の話にはあまりに多くの誇張と誤りがあることに気づかされる。記録が少ない昔の奇術師の場合、本人談に過度に頼らざるを得ない事情があったことはやむを得ないが、脚色を取り除いていって事実が明らかになると、むしろその方が本人の人物像や心の動きが見えて親しみが増すのは不思議なことである。

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