松山光伸

第一話:一次資料といえども間違いがありうるという事例

 最近、ブログなどでマジック史に触れているものを目にする機会が増えてきました。歴史に興味を持つ仲間が増えるということは芸能としてのマジックの文化度が上がってきたことを示す証でもありとても喜ばしいことです。

 歴史を紐解こうとする場合に何度強調しても強調しすぎることのない大事なことがあります。それは手にしたり参考にしたりする情報が信頼できるものかどうかを見極めることです。実は、これがとても難しいのです。

 特に手品の場合、その芸を描写したものや芸人自身の話には正確な情報が少ないということがいえます。人から又聞きした話、出典がわからない元ネタからの引用などは、そもそも事実かどうか不明なので裏を取らない限りは使えませんが、本人の経験談や思い出話を根拠にした歴史観が多く、これらが誤解の元になっています。本人談は自分を飾り立てようとする芸人本来の「業」に起因していることが多く、加えて本人の単純な記憶違いや、インタビューアーの思い込みによる意味の取り違えなどが複雑に入り組んでいる実態を知ってしまうと、これらの訂正は容易でないというのが正直な感想です。

 最も信頼できるのは公的記録であり、事実を伝えることを使命としている新聞の記事、写真、目撃証言を記した日記、プログラムなどの一次資料(二次引用ではないという意味)ですが、実はここにも落とし穴がいろいろ潜んでいるというと驚かれるでしょうか。

 『実証・日本の手品史』を書いた時の『実証』にはそのような思いがありました。そして実際に読まれた方の中から「調査の過程で出会った色々なエピソードに面白そうな話がありそうでそちらも聞きたい」との感想を寄せてくれる方がありました。実は全くその通りで、「事実は小説より奇なり」とも言うべき驚きの発見が原資料自体の中にいろいろありました。その友人の言葉に押され、ここでは多くの裏話の中から、歴史調査の中に潜んでいる落とし穴について紹介してみたいと思います。細かな話が多くなりますが、実感を持っていただくには具体的な事例を紹介する方が分かりやすいと思う次第です。

帰天斎正一の資料

 最初に、最も信頼度が高いと思われている公的な資料でさえも過ちがあるということの事例をいくつか紹介してみましょう。

「落語家名前揃」というものがあります。東京の寄席で営業するためには遊芸人賦金制度に基づいて税金を納め鑑札(許可証)を取得する必要がありましたが、そのためには個々の落語家の身柄を証明する「昔話営業人引受の証」を準備の上、頭取から正式に「願い」を警視総監に提出する必要がありました。 ここでいう「昔話」というのは落語の事ですが、公的な記録ともいえるこの「昔話営業人引受の証」控えを綴じたものがこの「落語家名前揃」と呼ばれるものです。

 当時の落語家は三遊派と柳派に二分されていたため、この引受証は両派の頭取の代理人が代筆しており、そのため落語家はどちらかに属していなければこの鑑札を得ることができなかったので、手品師についてもその多くがどちらかの派に属して寄席に出ていたという事実があります。「引受の証」は転居や改名等の都度届出をするのが基本だったようで同一人からのものが何通も残っていますが、本名・年齢・住所などが確認できるため貴重な資料となっています。ちなみに現存するこの「落語家名前揃」は柳派が残していた明治20年代の引受証の控えを製本したもので、三遊派のものは見つかっていません。

 前置きが長くなりましたが、この中に隅田川浪五郎一門、柳川一蝶斎一門、帰天斎正一一門、アサヒマンマロ一門等に属する手品師が出てきます。毛筆で書かれているため判読するには敷居が高い資料ですが、幸いなことに活字に翻刻したものが『日本庶民文化史料集成』(三一書房)の第八巻にあります。そしてそれを初めて目にした時に帰天斎正一の来歴に新しい事実があるのを発見してしまったのです。

 彼の本名は波済粂太郎ですが、明治22年2月の引受証では芸名が帰天斎正一となっているものの、その数カ月前にあたる明治21年12月のそれには豊済正一という芸名となっているのを見つけたのです。住所や生年月日は同じですからここに書かれている人物は同一人物であり豊済を名乗っていた正一がこの時点で帰天斎の名に昇格したことを意味します。(文中の「甲三」や「丁一」は定型文のパターンを省略した略号です)

明治21年11月の引受証(翻刻)

 
明治22年2月の引受証(翻刻)

 初代の帰天斎正一は明治9年には既に手品師として寄席に出ており明治20年5月(当時43歳)には有栖川宮邸で天覧の栄にあずかった大看板であることが知られていますが、この引受証を見ると明治22年に門人の波済粂太郎に名跡を譲って二代目の正一が生まれたように見えます。いままで波済粂太郎が初代と考えられていただけに驚きの発見でした。

 ところがそうなると辻褄があわなくなることが多々出てくるのです。例えば波済粂太郎が二代目になろうとしている明治22年2月に帰天斎は宮中の宴で天覧演技を行っておりとてもその名を弟子に譲るような状況にあったとは考えられないのです。こうなるとこの疑問を放置しておくわけには行きません。

 結論として確認できたのは意外な事実でした。『日本庶民文化史料集成』に翻刻されていた文面が間違っていたのです。改めて明治21年の引受証の原本を見ると以下のようになっていました。「芸名」の下の文字は確かに「豊済正一事 波済粂太郎」と読めなくはありません。むしろ初心者には「帰天斎」と三文字に読むほうが難しく「豊済」と二文字に読む方が素直に思える書体です。 一方、明治22年の方を見ると、こちらも読みにくいことには替わりませんが三文字であることは間違いなく、三番目の文字も「済」ではなく「さんずい」のない「斎」と読めることから帰天斎の崩し字だということが判ってきます。この結果、明治21年の「豊済」に思われた明治21年の書体も「帰天斎」を崩したものであることが確認できたのです。 初代帰天斎正一が波済粂太郎であるという解釈は揺るぎませんでした。古文書は色々な事例を目にして経験を積まないと崩し方がなかなか身に付きませんがこれでようやく引受証の謎が解けました。

 早とちりせずにすんで胸を撫で下ろしたというわけですが、原典に当たることの重要性を改めて再確認することになったエピソ-ドです。結局のところ、史料の性格からは一次資料と一般的に考えられているものであっても、それが翻刻されたものである場合は誤読している可能性が常に潜んでいるということになります。そのことは頭では分かっていましたが、実際に自分が調査する過程で具体的な事例に出会うに及び肝に銘ずることになりました。古文書に直接接することの重要性を認識させられた一件です。

明治21年11月の引受証(現物)

 
明治22年2月の引受証(現物)

松旭斎天二の旅券下付記録

 出生・結婚・死亡届や国勢調査の記録は本名・生年月日・住所・家族関係などが書かれている数少ない公的記録のため、謎の多い歴史上の手品師の実像を知る上で欧米では常に重要な資料として扱われています。最近ではネット上での検索も可能になったり複写物を郵送してくれたりするサービスも広まるほどで一般的なアプローチとして欠かせません。

 ところが日本の場合、英米と事情は全く異なっています。国勢調査が初めて行われたのは大正9年でありそれ以前はデータそのものが存在していません。また大正9年以降も人口動態などを集計分析してしまうと調査原票は破棄されてしまうとのことでそれらが保存されている欧米とは考え方が異なっています。

 一方、戸籍等に関わる情報については、先進諸国のOECDルールに準拠した個人情報保護法(個人情報の保護に関する法律)が平成15年に成立し「個人情報の保護の対象は生存者に限る(第二条一項)」と定められた結果、他国と同様に歴史上の人物の記録がようやく入手できると期待されました。ところが省令・条例と具体化する過程でほとんどの市町村では故人を含めて開示義務を負わせない適用除外規定を設けてしまったために他国に比べ歴史研究に後れをとる事態に陥っています。

 このような厳しい環境の中で数少ない公的記録となっているのが旅券下付記録です。これはその名の通りパスポートの発給記録であり、海外に雄飛した手品師や芸人であればその記録が見つかる可能性があります(外務省外交史料館で閲覧可)。開国当初は発給した順番に名前が並べられているといった程度のものでしたが時代ともにそのフォーマットも変化し、明治中期以降になると、名前・本籍地・満年齢・発行番号・発効日・渡航目的・予定渡航先などが記録されています。申請に当たっては記載内容を証明するものとして戸籍謄本を添付することが義務づけられていたため内容自体の信憑性も担保されている公的な記録というわけです。

 旅券は東京の外務省本局で発給したもの以外に都道府県で発給したものもありますが、その記録が全部残っているわけではないためすべての出国芸人の下付記録を確認できるわけではありませんが、明治34年7月に米国に向かった松旭斎天一一座の全員の正確な人物像はこれを丹念にめくっていく調査の過程で見つけることが出来ました。それによると、従来の説では、天一一座には天晴とか天徳という座員がいたことになっていましたがそれは誤りで、実際には天清(高瀬清)や天久(渡辺久次郎)が参加していたことが判りましたし、天勝(中井かつ)は妹の天寿(中井とし)と二姉妹での参加とされていましたが、事実は姉の天若(中井わか)と養女に出ていた天寿(北島とし)を含めた三姉妹だったこともこれによって判明しました。

 ところがこの旅券下付記録にしても100%信頼がおけるものとはいえないというのが今回のお話です。というのもこの記録は旅券そのものではなく、発行した旅券の内容を控えた記録簿だからです。コンピューターやコピー機はおろか複写式の申請用紙もなかった当時としては、旅券に記載した事項を手書きで台帳に書き写したのがこの「旅券下付記録」ですから誤りが全くないとは言えないのです。

 そしてその誤りが実際に起こっている事実を松旭斎天一一座の記録の中に見つけてしまったのです。以下はその該当箇所です。4月から6月にかけて東京府が発給した旅券の中の「ハ」で始まる申請者13人の記録がこのページに記載されています。上から旅券の通し番号・名前・続柄・本籍地・満年齢・渡航先・渡航目的・発給日となっていますが、続き番号になっている最後の二人が服部松旭(天一)と服部勝蔵(天二)です。ここで注目すべきところは満年齢です。天一の欄には四十八歳五ヶ月とありますが、なんと天二の方も全く同じ年齢が書かれていたのです。これは控えをとる担当の係が本籍地以下は天一とすべて同じと思い込み、筆の勢いで右に倣って書き写してしまったものと考えられます。

明治34年の旅券下付記録(一部)

 公的記録といえども、ひとたびこのような事例を知ってしまうと常に一抹の不安が残ります。出来れば何がしかの他の情報とクロスチェックしたくなる所以です。

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