松山光伸

三代目柳川一蝶斎を自称したのは誰だったのか
(その2)

 ところが長七郎とは別にもう一人三代目を名乗った人物がいたことが確認できた。それは初代の高弟で生駒近江大椽の名で「蝶」を演じていた人物である。この生駒近江大椽についてはあまり多くのことは分かっていないが、文久元年(1861年)の複数の見立て番付にその名が見られ、『本朝話者系図』にも「初代一蝶斎門人分三ッ蝶の達人」と記されている。この生駒近江大椽が三代目を名乗っていたことはそのことが示されている一蝶斎の絵ビラ(明治初期)が見つかって明らかになった。

見世物関係資料コレクション目録(国立歴史民俗博物館資料目録[9]、2010年1月)

部分拡大

 このビラの表題部分を拡大してみると「生駒近江大椽事三代目」とあるが、この意味するところは前述の『本朝話者系図』に「御一新に付き大掾号御廃止に付き一蝶斎と改む」と補足されているように明治維新を機に掾号の使用が禁止された結果生駒近江大椽という名が使えなくなったことを物語っている。いずれにせよこうなってくると一蝶斎が同時期に二人(二代目を含めると三人)も存在する異常な事態が生じていたことがわかる。
 なにせ当時はテレビや写真などがない時代である。顔が広く知られていないため噂やビラだけで一蝶斎の評判が伝わっていた世の中である。その混乱は一門の中だけにとどまらず寄席の世界からもひんしゅくを買いかねない状況になったはずでこの事態を何とかしようとする動きがあったに違いない。

 二代目にしてみれば弘化4年に初代に許されて以来20年以上この名跡を使ってきた身である。一方の自称三代目一蝶斎は先代に倣い掾号を授かって生駒近江大椽の名で10年来演じてきた人物であり年齢的にも二代目より年長だった可能性が高い。もう一人の年長の一蝶斎(長七郎)も海外巡業の実績をあげているなど一歩も譲ることは考えられない。この状況を調停できる人物と言えば初代しか考えられないがそれも既に亡くなっている。では一体どのように事態を打開したのであろうか。この説明ができない限り三代にわたる一門の全体像は見えたことにはならないため数年来頭を悩ませ続けてきたが、今回の新しい発見に伴ってようやく腑に落ちる唯一のストーリーが見えてきた。以下、その結論とそこに至った根拠を示しておきたい。

 その結論の第一は、長七郎と生駒近江大椽が同一人物だったという帰結である。もし別人であれば二人が三代目を自称することになって争いが起きることは必定であるが、加えてまだ二代目が活躍中であることを考えるとそのような無茶な挙に出るような人物が何人も出てくるとは考えられないからである。それを裏付ける状況証拠としては柳川長七郎と生駒近江大椽が一緒に出てくる寄席番付等がないことが挙げられる。すなわち生駒近江大椽は幕末期の見立て番付に何回か出てくるもののそういったものに長七郎の名が同時に出てくることはなく、一方、柳川長七郎の名が初めて出てくる明治5年(渡航直前)は、掾号が廃止になって生駒近江大椽の名がもはや使えなくなった明治4年の直後に当たり、こちらの方もタイミングがピタリと一致するのである。

東都自曼華競
文久元年(1861年)の見立番付『東都自曼華競』
(二段目の右寄りに「生駒近江大掾」の名が見える)

 加えて柳川長七郎と生駒近江大椽がともに年齢が高く一門の中の実力者であることも両者が同一人物であることの傍証になっている。

一蝶斎の流れの図解
三代にわたる 一蝶斎の流れの図解
(クリックすると拡大します)

前回                       次回