松山光伸

東京市中における明治2年の
西洋手品興行はあったのか

【 目次 】

伝聞による明治2年の西洋手品の真偽

 日本における西洋手品の興行で最も早いものとして確証がとれているものと言えば、英国人マジシャンであるドクター・リンが長崎と横浜で文久3年(1863年)に演じたものである。当時リンはWashington Simmonsと名乗っており少なくとも横浜の外国人居留地での興行については当時の日本語新聞や英字新聞に広告が出されており演目も確認されている。ちなみにこのWashington Simmonsは日本で習い覚えた曲独楽(Spinning Top)や蝶の手品(Butterfly Trick)を1864年に初めて米英の舞台に掛けており、開国直後の1867年に海外に渡った日本人手品師より3年早く演じていたことは特筆すべきことである。

 一方、居留地を離れ、初めて東京市中に進出して演じた西洋人として現在までに確認できているのは豪州生まれの英国人ヴェルテリ(Verttelli)ことジョン・マルコム(John Marcom)で明治8年末の来日である。

 ところが今回ヴェルテリに先駆けること6年前の明治2年(1869年)にすでに東京で興行していた 西洋人の存在を暗示する新たな資料が見つかった。実のところ明治2年にその種の興行があったことを示す伝聞があったが、 その時代には外国人にように振る舞って西洋風の手品を演じた人物がいたためいままでその実態が分からないままになっていたのである。 今回ようやくその謎を検証できる機会が再度巡ってきたというわけである。

 まずはこれまでの知見をおさらいしておきたい。一つは、天城勝彦(奇術研究家だった坂本種芳のペンネーム)が 『新青年』の昭和10年6月号に記した「スフインクス」の話である。これは『魔術』(力書房、昭和21年)や 『奇術研究』15号(力書房、昭和34年10月)にも再録されているもので、 3本足のテーブルに載せられた「生首」が表情を浮かべて話をしたり、受け答えをしたりするという奇怪な見世物である。

この魔術は當時歐洲(たうじおうしう)で非常に有名になりましたもので、斯界(しかい)に於ても近世の傑作の一つに()げられて居ります。ですからこれが、 ()の後世界の各地に於て流行(りうかう)し、 明治二年には早くも横濱(よこはま)異人館(いじんくわん)で上演されて居ります。 物價(ぶつか)(やす)いその當時、一()と云ふ入場料をとつたと云ふことですから、 如何(いか)に珍しがられたかが解ります。


 具体的な入場料まで書かれているため証拠となるビラの類があった可能性が高いが、ご子息の坂本圭史氏のご協力にもかかわらずその出典が謎として残っていた。ただここでは「横浜の異人館」となっていて東京での興行にはなっていない。

 二つ目は、『武江年表』の中に記されている明治2年(1869年)5月の記事である。

浅草三好町に不思議の見世物と号して興行す(天井へ足を付てさかさまにあるき、 或は電信機をもて釣たる太鼓をならし、大人もゝたげ得ざる重き箱を、少女にもたせてやすやすかたげさせ、猫を踊らせ、其外色々の工術をなして見せけるが、さのみ見物人もあらざりし)。


 奇妙な情景を伝える文面であるが、それにしては「さのみ(さほど)」見物人がいなかったというのはどういうことなのか釈然としないままになっていたものである。

その後明らかになったこと

 ところが後者については国立歴史民俗博物館発行の 『見世物関係資料コレクション目録』(2010年1月発行)の中に関連すると思われる 紙細工の見世物が2点見つかって状況は明らかになってきた。 一つは「浅草御うまやかし:不しきのような紙細工」と表題がついた 明治2年4月改印(発行許可印)になる三枚続きの大判錦絵である。

大判錦絵
「浅草御うまやかし:不しきのような紙細工」(明治2年4月)
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 この絵の左上部には天井を逆さまに歩く「天井渡り」が描かれており、錦絵自体も明治2年のものであることからこの紙細工による見世物こそ武江年表の著者が書き留めたものと考えていいことが判ってきた。ここにある「うまやかし」というのは厩河岸のことで隅田川に架かる現在の厩橋の100m程南にあった「厩の渡し」の付近(現在の蔵前付近)を言うが、武江年表にある浅草三好町も現在の蔵前の地に当たるのである。

 加えてもう一つ「紙細工ふしぎの様成手術」という表題の付いた絵ビラも同館に所蔵されていた。

紙細工ふしぎの様成手術
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 こちらも表題が「紙細工」となっているが「不しき(=不思議)」とか「手術(=奇術)」とあるように単なる細工物とは異なり紙細工によって不思議な手品を表現したものだったことが理解できる。また左端には「當ル三月廿二日ヨリ浅草おうまや河岸ニ於て興行仕候」とあるため上述の大判錦絵三枚続と同様に厩河岸の見世物を描いたものであることが知れるが、錦絵を詳しく見ていくと絵ビラの中の絵柄と寸分たがわぬ構図のものも多いため、双方が同一の興行を描いたものであることをうかがわせるものとなっている。加えて絵ビラの方には「少女が持ちあげる重い箱」や「猫を踊らせる術」なども描かれていて武江年表の記事とピタリと一致した内容となっている。これらの検証によって、武江年表にあったのは紙細工の見世物であって芸人自身が演じたものではなかったことがハッキリしてきた。

 紙細工で出来た見世物だったということが分かったとして、それでも腑に落ちないことがある。絵ビラに描かれていた「少女が持ちあげる重い箱」や「天井の逆さ歩き」という奇現象の様子を紙細工師は何を参考にして作ったのかという素朴な疑問がそれである。また、絵ビラには出てこないが「電信機をもて釣たる太鼓をならし」という奇現象が武江年表に書かれている以上、これも実際の展示物には含まれていた可能性が高い。いずれにせよこれほどの奇現象となると紙細工師自身が思いつくアイデアとは考えられず何かを参考にして作ったと考えるのが妥当なところだろう。というのも「少女が持ちあげる重い箱」や「天井の逆さ歩き」などはいずれも19世紀半ば以前に西洋ではすでに演じられていたものだったからである。例えば、海外から手に入れた書物にこれらが描かれているのを目にしたとか、それを演じた西洋マジシャンの演技を見たことのある人から奇現象を伝え聞いて細工物に仕立てたという可能性である。次なる疑問である。

新たに見つかった絵ビラ

 そして、この疑問を解いてくれるかも知れない資料が横浜開港資料館から突然もたらされた。武江年表にあった「電信機をもて釣たる太鼓をならす」という現象のみならず、天城勝彦が再三にわたり記していた横浜での「スフインクス」の興行など数々の西洋手品が実際に当時の居留地で演じられていたことを暗示するビラが見つかったのである。 「 阿蘭陀劇場(おらんだ志ばゐ) 」 と題する絵ビラがそれである。幕末から大正期にかけての一大横浜史料コレクションとして知られている「五味亀太郎文庫」の中の旧蔵資料に「雅闘積異」という表題の諸史料貼込帖があるが、その中に挟み込まれていたものである。

「阿蘭陀劇場」の絵ビラ
西洋手品の興行を伺わせる築地入舩町の「阿蘭陀劇場」の絵ビラ(横浜開港資料館所蔵)
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 このビラには数々の手掛かりがちりばめられている。まずは制作年の特定である。表題の部分には「当十一月朔日(一日の意)より居留地入舩町五丁目に於いて興行仕り候」とある。この居留地というのは横浜ではなく東京開市に向けて築地鉄砲洲の地に造成した築地居留地のことであるが、実際に開市が実現したのは明治元年11月19日(1869年1月1日)である。従って11月1日が初日となるとこの興行は明治元年ではなく明治2年以降のものということになる。ところが開市に向けた経緯をたどるとそれに先駆けること3か月前の慶応4年8月15日に開市することが一旦決まっていた(8/12に開市日が布告となり、その直後の9/4に明治に改元)。となるとこの絵ビラは11月1日開始を想定して制作されたものである可能性も排除できない。一方、右下の入場料を見ると、江戸時代からの通貨単位である「分」や「朱」で示されていて、明治4年5月の新貨条例で切り替わったあとの「円・銭・厘」ではないことからこのビラは遅くとも明治3年11月までには制作されていたことになる。従って明治元年から3年までのいずれかということになるが、注目したいのは絵ビラ最下段にある「スフインクス」と最上段の「電信機をもて釣たる太鼓をならす」演目である。これらは明治2年にあったとされる横浜居留地でのスフインクスや、同年の厩河岸の紙細工の演目に現れているものと同じであるばかりか興行時期もほぼ同時期であることから、それらに関係する興行ビラだったのではないかと考えられるのである。

 いずれにせよこの明治2年前後に外国人が東京までやって来て本当に西洋手品を演じていたとすれば、今までの最も古い記録がヴェルテリの明治8年末だっただけに日本の手品史は6年程更新されることになる。引用や伝聞とは違う初めての一次資料が見つかっただけに「大発見」との第一印象があった。ところが冷静に考えるにつれ次々と腑に落ちないことが出てきたのである。

 まず気になるのは太夫(演者)として記されているジョン・カルハルが何者かという点である。実は『実証・日本の手品史』を連載した際、西洋手品が演じられたことを報じる新聞記事や絵ビラにあったカタカナ名の手品師については、それらが本当に実在した人物だったのかどうかについて仔細に確認してきた経緯がある。例えば、居留地で発行された英字新聞での興行広告の有無や入出港者記録の中に該当する手品師が存在したのかどうかを調べたり、古今東西のマジシャンを記述したWho’s Whoや海外で刊行された古いマジック誌の記事、更には欧米のマジック史の第一人者などへの問合せなどを行ってその時代に該当する手品を演じた手品師がいたかどうかを隈なくチェックするというわけである。それによって事実関係はことごとく確認することができたのであるが、 今回、同じように調べていくとジョン・カルハルなる手品師の存在が一向に確認できないのである(逆順のカルハル・ジョンにしてもそのような手品師はいない)。

 そもそも絵ビラに見える「首切り術」「スフインクス」「空中人体浮揚」「天井渡り」などはそれぞれが単独でも客寄せ可能なほど西洋では評判を得ていた演目である。例えば「首切り術」はJoseph Vanek(オーストリア人)の持ち芸として有名になったもので実際に切り取った首を客席に持っていく演出を行ったのは当時Vanek以外には存在しておらず、生首が演者の呼びかけに答える「スフインクス」もColonel Stodare(英国人)が1865年にロンドンでセンセーションを巻き起こして間もない最新のもので他にそれを真似た人物としてはAlfred Sylvesterしか知られていない。また「空中人体浮揚」はRobert-Houdin(フランス人)の代表芸の一つとして知られ、「天井の逆さ歩き」はスタントマンの持ち芸として時々チャレンジされてきた危険きわまりない芸で手品師による実演例はないという代物である。ましてやそれらを一人の演者のレパートリーとして演じたスーパーマジシャンは西欧でも存在しないのである。

 念のため同種の興行が上海で行われていた形跡があるかどうかを調べてみた。というのも幕末から明治年間を通じて来日したマジシャンを調べてきた経験では、前寄港地である上海で同様の興行を行っている事例がいくつかあったからである。そして上海において最も良く読まれていた当時の英字新聞North China Herald紙を確認してみたところ、案の定、そのような興行が行われていた形跡は見られなかった。この段階でこの絵ビラに対する疑念はほぼ決定的なものになってきた。

 当時の時代背景も確認しておきたい。慶応3年11月1日に条約締結5か国と交わされた「外国人江戸に居留する取極め」の第八条に、江戸に立ち入ることが出来る人物を規定した文面がある。実際には1年後の居留地開設間際に修正が施されているため最終文面は以下の内容になっている(出典『都史紀要四:築地居留地』、昭和32年、東京都刊。以後本書を出典とする場合は『都史』と略称する)。

外国人江戸在留の為に設けたる条約のケ条を堅く守らしめんが為に、凡そ外国人江戸に来たる者、外国役人並びに官服を着用せる者の外は、銘々本国の岡士官より通手形を請け取り置き神奈川判事の改めを受くることを要す。又横浜より陸路を経て江戸に来たる外国人は、川崎の役場にて通手形を差出し改めを受くべし。海路より来たる者は、田町並びに築地両所の外、着船相成らず。且つ両所より上陸の節も、日本役人の吟味あらば通手形を示すべし。若し右と載せたる役人並びに官服着用の者の外に、通手形なしに江戸に赴く者あらば召し捕われ、岡士官へ送らるべし。


 ここでのポイントは、江戸に居留できるものとして公使館員及びそれに準ずるものの 外は岡士(コンシエル)官 (領事)と 神奈川判事の許可を得て通行証の発行を受けたものに限るということであり海路で来ることも想定されていたことが判る。ただ、外交官や貿易に従事する商人とは異質な「芸能者たるマジシャン」にも開市初期から通行証を自由に発行していたかどうかについては大いに疑問がある。

 唯一、ジョン・カルハルの可能性を秘める人物として気になったのは、横浜の英字新聞 ”The Japan Times’ Overland Mail”(December 2, 1868)の入港者記録にカルハルという「読み」に近いKorthalsという名があったことである(p.300)。ただ、この名前で再確認をしてもそのようなマジシャンは当時の世界に見当たらず、この興行に対する疑念が更に深まるだけの結果になった。となると日本人が西洋人のフリをして演じたものなのか(或いは演じようとして作ったビラなのか)、カルハルというのは何か意味があって付けた名前なのか、そもそもこの興行は実現できたのかどうかなど次々と新たな疑問が湧いてきた。ビラに描かれている演目を全部演じられるマジシャンがいなかったとなれば、これらの疑問はどのように説明したらいいのだろうか。

日本人によって目論まれた興行の可能性

 もっとも重要なポイントは、ここに示されている演目が実際には演ずることが出来なかったと思えることである。具体的に左上から反時計回りに演目を調べてみよう。

  1. 紙に(つつミ)たる (にハとり)水瓶(びん)(うち)(かよ)ひ、 (うつわ)(やぶり)てとぶ
  2. 此所(このところ)人間(ひと)(くび)(きり)(その)まま御見物(ごけんぶつ)(なか)(もち)ある記、 舞台(ぶたい)(かえ)(もと)の如く(くび)をつぐ
  3. 二本(にほん)(ぼう)(うへ)にのぼり、 (からだ)はすこしつゝ (よこ)になるに ()たがひ一本の棒をはなし其上にとまる
  4. 舞台(ぶたい)にて (くび)打落(うちおとし)卓上(志よくのうへ)にかざりしおき 鳴物(なりもの)に志たがひ 東京(とうけい)流行(はやり)(うた)ふ。 又食物(しょくもつ) をくらう其外諸芸いろ/\あり
  5. 此所ハ御見物のかたにらうそくと酒をもたせて呑まんとすれどのめず
  6. 晴天(せいてん)(にわか)(くもり)風雨(ふうう)となる。 又(かぜ)おこりて砂石(しゃせき)をとばす
  7. (ちう)太鼓(たいこ)(おと)はげしく打人(うちて)(かたち)さらに見えず

 この内、少なくとも2、3、4、7は当時の西洋で既に演じられていたものである(それまで日本では演じられていない)。 一方、1、5、6については西洋の文献には見当たらないものの江戸時代の伝授本等には似たような日本の手品がある。要するに、西洋人にせよ日本人にせよこれらのすべてをこなせる演者がいたとは考えられないプログラムである。特に不思議なのは西洋手品である前者がいずれも当時は実現困難なことである。例えば人体浮揚でいえばこれに使う仕掛けは鋼鉄製の重量物であって容易に持ち運びができるような代物ではなく、スフインクスにしてもテーブルや分厚い鏡、更にはそれらを囲う舞台設定などがなくてはならず、全体としてかなり嵩張る道具立てが必要なのである。西洋人がこのような大きくて重い道具を私物の携行品として東京に持ち込もうとしても運搬自体が不可能に近く、明治になってからもしばらく西洋人手品師が横浜のゲーテ座でしか演ずることができなかったのはこれが一因だったのではないかと考えられるほど大掛かりなものなのである。実際、鉄道が横浜(桜木町)から東京(新橋)に開通したのは明治5年のことであり、それまでは基本的に徒歩や駕籠や馬を使っての移動しか手段がなく、また多摩川を渡ろうにも川崎宿の先で「渡し」を使わざるを得ないのが実態であった(注1)
 いずれにせよ、これだけの演目をレパートリーとして持っていたマジシャンが当時世界中のどこにもいなかったことは前述の通りである。

注1:慶応3年10月21日に幕府が英国公使パークスとの間で取決めた「江戸横浜間引船川船荷物荷物輸送船並びに外国人乗合船設置規則」で外国貿易商人に対して海上輸送を認めているが、これは将軍慶喜の大政奉還後のことだったため一旦運用を休止、実際に開業したのは明治元年8月29日からで稲川丸による一日一往復の営業に限られていた。具体的には横浜は裁判所前より発船し、東京は永代橋着(現在の永代橋より若干上流)の往復で、荷物を積み込む際に税済み証文や無税証文を添えるなどの義務条項があるほか、日本の役人が乗船して違法行為がないかチェックすることが自由に行えるような規則になっていた(『都史』p.186)。従って遊芸人が重量物を持ち運ぶ手段として利用できたかどうかは定かでない。

実演不可能な演目

 従って、唯一考えられるのは、海外からの情報を得てこの種のマジックが西洋で行われていることを知った人物が、同じような道具を日本人に造らせて演らせれば一儲け出来ると考え準備に取り掛かった可能性である。ところがどっこいいくら器用な日本人でも、この種の道具はそれまでの日本手品の道具とは違って家具職人や建具屋が手におえるような代物ではなかった。

 例えば、人体浮揚のための仕掛けは道具というよりは装置であって、鉄製でしかるべき強度や剛性を持たせた上で、ラチェット機構も組み込む必要がある特殊な構造物である。それを作るには、機械加工や金属加工の知識や技術なしには実現不可能であったし、電信機などはそもそも機器の原理さえ一般の職人には分からなかったはずだ。実際、当時は官製の横須賀製鉄所でお雇い外国人の指導の下に技術を習得しようという動きが緒に着いたばかりで、機械加工技術・金属加工技術のみならず、ワイヤー(電線)や歪の少ない大型の平面鏡(スフインクスに必要)などの素材も一般の人の手に届くような状況にはなかったのである。

人体浮揚の仕掛け
(Professor Hoffmann著 ”Modern Magic, 1876” から)


 加えて、もし実際にこの種の西洋手品が手品師によって演じられていたとしたら、その評判は大変なものになっていてしかるべきであるがそうなっていないことに注目する必要がある。現に、紙細工の見世物の方が錦絵として描かれていたり、武江年表に取り上げられたりしているのに対し、本物の興行を報じたレポートが見つかっていないのである。これでは実際に演じられた西洋手品の方がニュース価値がないことになってしまい頭を捻らざるを得ない。また、これだけ規模が大きく前代未聞の西洋手品を行おうとするからには興行費用は嵩むに違いなく、客の呼び込みのために手広く宣伝を行ったはずであるが、紙細工ほどにはそのようなものが残っていないとなると企画倒れになって実現しなかったのではないかとの思いが頭をもたげざるを得なくなってくる。

 ちなみに後述する有名なModern Magicという解説本にあるコメントがふるっている。The Light and Heavy Chest(少女が持ちあげる重い箱)からThe Magic Drum(空中に吊った太鼓の打ち鳴らし)に至る電気技術を使った道具を解説した章の最後に「この種のトリックは非常にコストが高いことと、道具の信頼性に大きな問題がある」とし、「特に配線の接続がすべての部品でうまく繋がってないと、いざという瞬間に何も起こらず前口上で大言壮語した演者が立ち往生する危険性があり、事実そういうことが良く起きるのが一番の欠陥である」としているのである(p.493~494)。ましてや「天井渡り(逆さ歩き)」などは精巧な機械技術やスイッチング回路に基づく大がかりな装置が欠かせず、そればかりか少し練習すれば演じられるという類のものでもない。今回見つかった絵ビラの演目から「天井渡り」がハナから落とされてしまっているは当然の成り行きであろう。いずれにせよ「少女が持ちあげる重い箱」や「空中に吊った太鼓の打ち鳴らし」はこれ以降も日本で実現した記録がない代物で、いずれの観点から見てもこの興行は実現しなかったとの結論しか見いだせない結果となった。

話をする首(The Sphinx, Talking Head)
話をする首(The Sphinx, Talking Head)
出典:Professor Hoffmann著 “Modern Magic, 1876”
(大きな平面鏡や三方向を囲うカーテンが必要)

絵ビラが作られた経緯

 結論が出たとはいえ、この絵ビラが作られた事実がある以上、これらの現象(演目)の存在をどこからか聞き込んだ人物が一早く興行を実現して一儲けしようとビラ制作に取り掛かったことは疑いのないところである。そこで問題になるのは、絵ビラ製作者或いは興行主がどのようにしてこの演目を知ったのかである。このビラを目にした当初は、ホフマン(Professor Hoffman)が著した ”Modern Magic” を手に入れた人物がその中からいくつか選んで日本で興行しようと試みた可能性が高いように思えた。”3”の「人体空中浮揚」、”4”の「話をする首(スフインクス)」、”7”の「空中に吊った太鼓の打ち鳴らし」がすべてこの本で解説されており、加えて武江年表や紙細工の絵ビラにあった「少女が持ちあげる重い箱」もこのModern Magicに解説されているからだ。しかし、その推測は明らかに間違いであることがすぐに分かった。この本の出版年が1876年(明治9年)であって当時はまだ世の中に出ていなかったからである。となるとそれ以前に流れていた情報や西洋人(或いは西洋帰りの日本人)を介してこの種の演目の存在が伝えられたと考えなければならなくなる。

 ちなみに蕃書(洋書)が当時どの程度日本に入っていたかを調べてみると幕末時点で少なくとも一万冊を超えるものが日本に入っていたことが判った。そのことは明治元年(1868)7月、鉄砲洲で東京開市の準備をしていた外国事務局が「江戸長崎会所」に残されていた品々の引き渡しを受けた際、その中に西洋書籍1万7千冊余が含まれていたことで明らかである。この外国事務局というのは築地居留地の予定地にあったもので居留地ができた11月の翌月には「東京運上所」に名称変更となる役所であるが、 もう一方の当事者で同じ居留地の予定地にあった「江戸長崎会所」の方が 今回の絵ビラの謎を解くカギとして浮かび上がってきた。 興行に「阿蘭陀(オランダ)」の名を敢えて冠した唯一の動機を持っているのがこの「江戸長崎会所」だったとみられるからである。

「西洋劇場(志ばゐ)」とせずに 「阿蘭陀劇場(おらんだ志ばゐ)」とした理由

 ここでいう「江戸長崎会所」というのは長崎にあった「長崎会所」の江戸における取次を行うところで、幕府などからの要請で洋書や西洋銃を「御用物」としてが外国商人に注文したものを江戸で売り捌くために万延元年(1860)に新たに設けられたものである。ここで重要なのはこの「江戸長崎会所」が徳川時代を通じて江戸で最もオランダとの接点が濃密だった商人の手に委ねられていたという事実である。その商人というのは長崎屋源右衛門(十一代目)である。この長崎屋源右衛門宅は二百年以上にわたって長崎の出島から将軍に謁見するために毎年のようにやってきたオランダ商館長(カピタン)一行の江戸における常宿を代々担う「阿蘭陀宿」になっていた。商館長一行の滞在中には、西洋の文明文化や情報を求める蘭学者や研究者が日参して交流が行われたのはもちろんのこと、滞在中の献上物の管理や、予備に持ってきていた献上品の事後処分を始め、幕府高官から後日献上品の換金依頼があった時にはそれらを越後屋などに捌いたり、一行の滞在中には彼らの土産物を紹介する場にもなっていたりと、江戸におけるオランダとの交流センターとして広く認識されていたところである。

 それがためにこの宿は「阿蘭陀宿」として広く認識されていたが、その江戸参府は嘉永3年(1850)を最後に途絶えていた。ペリー提督の黒船が嘉永6年(1853)に来航して以来、開国の機運が一気に高まりオランダだけに長らく求めていた長崎からの江戸参府の意味がなくなったからである。利権化していた商流で潤っていたかに見える阿蘭陀宿ではあったが、その実は度重なる火災で焼失に遭いながらも、カピタン一行の常宿としての役割を全うすべく火災の都度立て直しをするやらその献上品を火災から守るべく堅牢な蔵を設けるやらで借金に借金を重ねるなどの苦労続きの実態があった(オランダ商館も度々資金援助をしていたとされる)。カピタンの常宿としての役割がなくなった長崎屋源右衛門が蕃書(洋書)売捌所を命ぜられ改めて江戸長崎会所としての指定を受けたのにはそのような経緯があったのである(注2)

注2:長崎屋の動きや活動については『それでも江戸は鎖国だったのか』(片桐一男、吉川弘文館)及び『阿蘭陀宿長崎屋の史料研究』(片桐一男、雄松堂出版)に詳しい。

 その長崎屋源右衛門は、更なる火災の被害を避けるべく江戸城に近い本石町(現在の中央区日本橋室町3丁目)から海岸寄りの地への転居を長年請願していたが、安政6年(1859)6月にようやく鉄砲洲舩松町二丁目(現在の中央区明石町6~7)への転宅が実現しそれ以降ここが「江戸長崎会所」になったのである。そして続く文久2年(1862)4月には隣接する河岸に「御用物揚場長崎会所」の榜示杭を許され、将軍家・学問所・幕閣といった幕府中枢からの注文の品を海から直接陸揚げできるようになり、これによって幕府御用達の基盤が再度整ったかに見えた。ところが10年と経たずしてこの地域が築地居留地の中心部として決定されるという運命が待ち構えていたのである。

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 ここで一旦「江戸長崎会所」や「阿蘭陀劇場」の位置関係を確認しておこう。地図中央部の白地の区画が外国人居留地として指定された区画でここに長崎屋が経営する「江戸長崎会所」があった。またこの地域には多くの武家屋敷があったがそれらは強制的に取り除かれることになった。それには理由があって、もともと幕末には外国人を急襲する殺傷事件がたびたび繰り返されていたため、外国人が住む居留地に帯刀した武士が日常的に行き来するといつ事故が起きてもおかしくない恐れがあったからである。一方、赤地の区画は雑居地区として外国人の居住を許されたところである。というのも開市した11月19日の段階では白地の区画は未だ整備中ですぐには外国人が住める状況になかったため、隣接の町屋(町人の家)地区の所有者に対して相対貸しで外国人に家屋を賃貸しすることを認めることとなりその地域が赤色の区画なのである。このように築地居留地には狭義の居留地と広義の居留地が存在していて、その雑居地域の一角に「阿蘭陀劇場」なる興行を企画したというわけである。ちなみに当時の「阿蘭陀劇場」があった入舩町五丁目というのは現在の入船3丁目2に当たる。

 この興行が実際には実現しなかったことがほぼ明らかになったが、それに加えてこの地区で興行すること自体に無理があったことも明らかになっている。そのことについては後述することにしたい。

 さて、長崎屋源左衛門にとって不幸だったのは築地居留地の地が正式に決定した結果、彼の江戸長崎会所の地にも周辺の武家屋敷と同様に慶応3年(1867)7月引払い命令が下されてしまったことである。そしてその地を追われるように引き払ったあとは南飯田町続きの埋立地(現在の築地市場の近辺と思われる)に移ったとされている。気になるのは幕府や幕府高官など主要な取引先が瓦解し、商売の立地だった鉄砲洲の地も上地(没収)されてしまった長崎屋源佐衛門がどのようにこの苦境を乗り超えようとしたのかである。新たな商売のたねを探すべく、それまで培った阿蘭陀ブランドの知名度を生かせるアイデアがないものかと頭をひねったり、オランダ人脈にも相談に乗ってもらったりと東奔西走する日々を送ったことは容易に想像できよう。

 西洋手品の興行を築地居留地の地で「西洋劇場」とか「英国劇場」とせずに敢えて「阿蘭陀劇場」の名を使うことを思いつく人物があるとすれば、それは江戸における「阿蘭陀」の存在感やそれまでの実績を生かして興行内容が真正の西洋モノであることを訴えることができる長崎屋源右衛門をおいて他にはいないのではないかと思うに至った所以である。

ジョン・カルハルの謎

 「読み」がカルハルに近かった唯一の人物としてKorthalsなる名の外国人がいたことについては前述したが、この人物は何度となく英字新聞にその名が出てきておりW. C. Korthalsという名であることを突き止めることができた。ファーストネームがジョンではなかったため見当違いだったことになるが、念のため調べてみたところW. C. Korthalsという人物はオランダから派遣され神戸に常駐することになった領事だったことがわかった。例えばNorth China Herald紙(上海紙)の1871年5月19日号には、Hiogo Newsからの引用記事として「開港場(横浜)から10里以内と定められていた外国人の遊歩規程を破って横浜から京都や大阪まで徒歩で旅行してきたオランダ人が見つかり、神戸勤務だったオランダ領事(Consul)のMr. Korthalsに当該人物が引き渡された」とあり(p.367)、London and China Telegraph紙の6月5日号(p.406)では「兵庫におけるWoodji Maru(宇治丸)の進水式にMrs. Korthalsが出席して船首にシャンペンボトルを打ち付ける儀式が滞りなくおこなわれた」と報じられるなど領事仲間でも名士だったようだ。そのKorthalsは1868年の年末に横浜港に入港しているためその頃着任し東京で新政府に挨拶したりオランダ貿易の関係者と関わりを持ち始めたりしたものと考えられる。当然のことながら鉄砲洲からの立ち退きを命じられた直後の長崎屋源左衛門はその窮状を訴えつつ新たな商売のタネについてアドバイスを求めたに違いない。

 オランダ領事とはいえ幕末から維新への激動を経て、もはや長崎屋源左衛門に対し直接的な支援が出来る立場にないことは火を見るより明らかであった。窮状を見かねたKorthalsとしては「外国人が東京に住むようになったのであるから西洋文化を売り物にした新しい商売を手掛けたらどうか」というようなアイデアを提供したり情報通の外国人を紹介したりするのが精一杯だったであろう。そのような相談を繰り返すうちに破産寸前の長崎屋としては多くの資本を要しない芸能興行をこの際仕掛けてみようと思いついたのではないだろうか。ちょうど横浜でも外国人の中からゲーテ座の建設に向けて機運が盛り上がってきた時期に当たる。これはあくまでも憶測に過ぎず確たる証拠には欠けているが、差し当たりこれ以外のストーリーは考えにくい。そしてそれまで日本に聞こえている物珍しい西洋の芸の数々を外国人や内外の事情通に聞き込むと同時に、それを日本の芸人に片っ端から持ちかけたという推測である。日本の手品師や芸人にとっても面白そうな演目であればこれをチャンスとばかりに喰らいつきなんとか時流に乗りたいと思っていた当時の世相である。そして本物の西洋の芸であることを訴えようとカタカナ名を前面に打ち出すことを思いついたのではないだろうか。頭に浮かんだのが顔見知りのW. C. Korthals(正しい発音はコルトハルス)だったにせよ、それをそのまま使うわけにはいかず名をもじってカルハルとし、どこにでもあるジョンというファーストネームを付けて絵ビラに使ったのではないかという推測である。

聞き込んだ西洋芸の演目

 例えば、スフインクスの興行は1865年10月16日にロンドンのエジプシャンホールで初演となるやいなやセンセーションを巻き起こし、ただちにThe Times紙(10月19日号、p.10)にその演技や演出の様子が詳しく報じられ更なる大評判を呼んだ奇現象であった。これらの新聞は郵便物とともにすでに定期運航が始まっていた蒸気船(Mail Steamer)に載って本国の情報に飢えていた居留地の外国人に一早く届いていた。外国人居留者との意思疎通に不自由のない長崎屋がその種の話題を耳にしたのは自然の成り行きだったことだろう。

 天井の逆さ歩き(天井渡り)についても同様の事がいえよう。Ricky Jayの ”Journal of Anomalies”のp.65からp.74に詳しく記されているように、この想像を絶する芸は事故が起こりやすい話題の芸だったため19世紀半ばには折りに触れて報じられており居留地の好事家にも伝わっていたに違いない。客集めには最適な奇芸だけに興行に携わるものなら誰しもが一早く演らせたいと思いつくのは自然なことであるが、アイデアを示せばすぐに出来るような代物でないことは前述した通りである。

 首切り術はもっとわかりやすい。首を斬ってそれを観客の中に見せて回ったあとで繋いで生き返らせるというマジックで世界的に有名になったJoseph Vanekは問題の絵ビラが作られる直前に横浜に現れて演じていたのである(『実証・日本の手品史』p.106)。これを演目にすぐに取り込みたいと考えるのは自然な流れであろう。

 「人体空中浮揚」や「少女が持ちあげる重い箱」もロベール-ウーダン自身がすでに出版していた自伝の”Confidences d'un prestidigitateur”や、その英訳版の”Memoirs of Robert-Houdin”の中でどのような現象のものであるかを説明している。例えば1859年の英文版では前者はEthereal Suspensionとしてその現象が描かれ(p.313)、後者もThe Mysterious Boxとして描かれている(p.383)。いずれも仕掛けの解説があるわけではないため「これをやってくれ」と言われても頭をひねれば出来るというものではなく特別な機械装置を要するマジックであった。

幻に終わった西洋手品の興行

 時代背景などと照らし合わせた結果、このビラが示す多くの謎が解けてきた。結局のところ「阿蘭陀劇場」の興行は企画倒れに終わったのである。西洋で流行っている見世物の日本での興行一番乗りを狙うという発想自体は西洋との橋渡し役を長年自認してきた商人ならずともさほど突飛なものではなかったが、長崎屋としては自身の御膝元で行なえば地の利をいかせるだけでなく新たな名所となる居留地で興行すること自体に大きな宣伝効果が期待できると考えたのであろう。おまけに新しい遊郭(新島原)もその一角に出来るとの話があって客足も増えることは必定と考えられ正に千載一遇のチャンスの到来が来たと内心ほくそ笑むような着想だったのである。

 伝え聞いた西洋見世物はいずれも面白そうで耳目を引くにはうってつけなものばかり。声を掛けられた手品師も大いに乗り気になったのではないだろうか。器用な日本人手品師なら適当な小道具を作って小手先の工夫を加えれば何とかそれらしく演じてもらえるものと期待を膨らませビラ作りに取り掛かったものの事態は急転する。安直にできるような類のものではないということ分かってくるに及び、結局のところ中止せざるを得なくなったという解釈である(注3)

注3:明治初期のいくつかのビラに「スフインクス」もどきの「音曲を唄う首」が描かれているが、 これらは鏡を使う替わりに襖などを衝立に使って「アチャラカ芸」として演じた可能性が高い。 日本で初めての洋式硝子工場ができたのは外国人の指導の下に英国の設備を導入した興業社で明治6年だったからである。 ちなみに「アチャラカ」とは「あちら化」をもじって使われた言葉である。

築地居留地の特殊性

 蛇足ではあるが、紙細工の見世物が築地で行われなかったことを裏付ける背景事情を考えておきたい。実は、阿蘭陀劇場に限らず、築地の居留地自体も当初の期待とは異なってあまり賑わいをみせる町にはならなかったという史実がある。外国の公使館などが移ってこなかっただけでなく、明治政府や民間によって招かれた御雇い外国人も仕事場から離れたこの地への居住しか認めない規則に不満を募らせ結局のところ居留地外への居住を認めざるを得なくなったことが大きな原因であった。隣接してできた遊郭も期待された客足がなく3年足らずで廃止となり興行に適する繁華な町にはなりえなかったのである。

 人気がなかったもう一つの原因として居留地周囲に関門が設けられ人の出入りが厳しくチェックされたことも挙げられている。その状況を前掲の居留地の地図で確認しておこう。中央部の白地に新番地が付された区画が外国人向けの用地とされて立退き命令(上地令)が出た本来の居留地であるが、実はこの用地は開市した明治元年11月19日の時点では準備が整っておらず年末になってようやく区画の競り貸しの布告が出され実際に外人に貸されるようになったのは明治3年以降にずれ込むという具合だった(『都史』p.134)。従ってそれを挟んだ日本人が住む町屋地域(地図上の赤色の地区)を相対貸しで外国人に住まわせる雑居地域と定め、そこを含めた範囲が開市場となってスタートしたのである。ところが当時はいまだ攘夷派の武士等が外国人を急襲する事件が頻発し、又彰義隊と新政府軍の戦いが尾を引いて会津戦争や箱館戦争へと続くなどいまだ不穏な政情が続いていた。特に相対貸し地区と指定された地域には武家地があって武士の通行出入りが不可避であったため万一武士が外国人に殺傷にでも及ぶことがあれば重大な外交問題になりかねず居留地を設けたことの意味も失われるとして周囲に関門を設けたのである。地図でも確認できるように、居留地周囲に巡らされた掘割を渡る橋にことごとく関門が描かれているのはそのためで、そこを出入りするたびにチェックが行われ、特に無許可で帯刀している武士については厳しく処分が行われた。この関門での検査措置は外国人にとっても一般町民にとってもわずらわしいこと夥しく、その結果皮肉なことに関門内居留地の居住者や外来の訪問者が伸びなくなったのである。

 もう一つ当時の居留地の様子を描いた錦絵も挙げておこう。この絵は隅田川を背景にして描いたもので左奥が役所(東京運上所)で右奥が築地ホテル(外国人旅館)である。中央の建物が密集しているところは居留地中心部ではなく相対貸し地域である。 一方、建物が作られていない左奥が外国人に貸すために上地令(立退き命令)が出された中心部に当たる。 掘割を挟んだ左隅に描かれているのが遊郭である。 また相対貸し地域の中にオランダと英国の国旗が見えるがこれは公使館がこの地に引っ越してきたということではない。そのような事実はないからである(『都史』p.139)。ただ両国が相対貸し地域で実際に家屋を借りたことを示す記録が残っており(同p.118)、この絵でもそれぞれ「領事(岡士)の仮館」とあるためこの家屋は私用に借りたものと理解できる。

東京築地鉄砲洲景
東京築地鉄砲洲景(歌川国輝画、明治2年)
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 一方、居留地(相対貸し地域を含む)の外国人調査によると明治4年7月の最初の人口調査においてもオランダ人は2名に過ぎなかったことが確認されている。この家屋がKorthals領事夫妻の東京における宿泊宅として借りたものだったのかはわからないがオランダ領事の仮館が長崎屋の目と鼻の先に位置していたことは注目される。

紙細工への企画転用

 この絵ビラが明治元年11月1日の初日を想定して作られたものだったのか、それとも明治2年とか3年のものだったのかという当初の疑問に立ち戻ってみたい。結論から言うと紙細工の見世物が行われる前の明治元年11月1日の初演を意図して作成されたものと考えざるを得なくなった。

 面白そうな興行が出来そうだと飛びついた企画ではあったが実現できる類のものではなかったことがわかった途端、このネタを転用した別の企画で客集めをしようとしたのが紙細工の見世物だったのではないかとの推測である。「阿蘭陀劇場」として考えていたものと同じものを第三者が別個に紙細工の見世物として思い付いたとは考えにくく、またもし並行して考えられていたとしても紙細工では「阿蘭陀劇場」に客をとられ殆ど見向きもされなくなるに違いないからである。

 ただ紙細工に企画を転用したとしてもその興行地として居留地がふさわしくないことはもはや明らかであった。紙細工ではそれほど多くの注目を期待できないばかりか、関門が設置された影響で多くの客足が見込めなくなったからである。隅田川沿いに少し上流に位置する厩河岸に場所を移せば、蔵前神社の参拝客も当てにできれば盛り場である浅草からの流れ客も見込めると考えたのであろうか。とはいえ武江年表で報じられていたように「さのみ見物人もあらざりし」という結果に終わったのは所詮紙細工では大きな評判にはなりえなかったということではないだろうか。

 ちなみに、十一代目長崎屋源左衛門は明治8年(1875年)8月5日に本所小梅(現在の墨田区)の裏長屋で子女5人を残して亡くなった。その時の年齢は定かではないが十代目が天保5年(1834年)に亡くなっているので先代没後40年以上当主を務めた勘定になりかなりの高齢まで生きたことになる。生糸貿易に触手を延ばした形跡も報告されているが阿蘭陀劇場という経験のない芝居興行への進出に際してはその高齢ゆえに息子とともに動いた可能性もある。十一代目が亡くなった地は居留地を引払って移った地とはかけ離れていた。本所の裏長屋にいたということはその後息子の住まいに移り住んだということだったのであろうか。この地が隅田川を挟んで「厩の渡し」で向かい側にあることも何か暗示的である。

 いずれにせよ二百年余にわたって大店を経営していた往年の長崎屋の姿はもはやそこにはなくなっていたのである。

ヴェルテリで実現した初めての市中興行

 「阿蘭陀劇場」という興行が企てられた入船町5丁目という場所について一つ付け加えておきたいことがある。実はこの場所で後年(明治9年)西洋手品師のヴェルテリ(本名ジョン・マルコム)が演じることになるからである。ヴェルテリは当初バタリヤとして日本の新聞では報じられていることが多く、例えば明治9年2月12日の朝野新聞に「英人バタリヤの手品大早業の興行。築地入船町五丁目三番地にて始まる」とあるが、「居留地外居住外人表」(『都史』付表)によると少なくとも明治9年5月から手品師ジョン・マルコム(ヴェルテリ)がその入船町五丁目三番地にあった渡辺良助宅に居住していた記録が残っており、その数カ月前からこの寄席に出演していたものと思われる。

 渡辺良助という人物はその場所に存在していた寄席の席亭だったことになるわけでその家にヴェルテリ(ジョン・マルコム)を住まわせていたのである。外国人に躊躇なく部屋を提供することができたのはこの地がまさに雑居地区としてそれが許されていたからであり渡辺良助は地の利を生かすことが出来たのである。ヴェルテリにしても興行事情に明るい渡辺良助の住居に身を落ちけることが出来、その結果、他の寄席にも出演できるチャンスに恵まれた。明治9年11月15日の朝野新聞はその辺の彼の動きを以下のように伝えている。

明十六日より日數十五日の間神田連雀町にて英國人の手品を興行するとの事。
願主は入船町六丁目の渡邊良助といふ人


 ちなみにこの時期には関門はすでに撤去され掘割も埋め立てられており、記事にある入船町六丁目という場所は五丁目の隣地として新たな町名が付けられた所に当たる。読売新聞の明治9年3月20日の記事に「先日出した築地のバタリヤといふ外国人は今度入舟町六丁目へ移り・・」とあることからその隣地に渡辺良助は自分の寄席を移したものと思われる。そして評判を聞いた他の寄席からの要請にも応える形で渡辺良助は席亭の立場にとどまることなく興行の手を広げるようになっていく。こうしてヴェルテリは俄か興行主となった渡辺良助の力を得て、京橋区、深川区、両国区、浅草区、牛込区など市中の寄席に1年近くにわたって出演することができたのである。

 いずれにせよ渡辺良助の寄席が明治元年に企てられた「阿蘭陀劇場」の場として使われようとしていたことは両者の住所が合致していることからほぼ間違いなくその頃から渡辺氏は西洋手品に興味を持ちはじめていたものと理解できる(注4)。話に伝え聞いた西洋手品を日本人芸人にやらせてみようと企てた「阿蘭陀劇場」は失敗に終わったが、その7年後に同じ場所で本物の外国人手品師による初めての西洋手品がこの地で実現できたのは必然のことだったようにも思えてくる。

注4:長崎屋自身が「阿蘭陀劇場」のために新規に小屋を普請し、後日渡辺良助がこれを買い取って寄席に転じた可能性も考えられるがそれでは興行全体の資金負担が高くなり過ぎるため考えにくい。ちなみに渡辺良助はオランダとの接点が元々なく、加えて長崎屋の本来の名は江原姓であって渡辺姓ではないこともこれを裏付けてくれよう。

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