麦谷眞里

ユーモアうさぎ

はじめに

 すでに、あちこちに書いていますので、どこかでお読みになった方がいらっしゃったらお許し願いたいと思います。 それは、私が手品を始める動機になった話です。 多くの職業奇術師が、クリスマスや誕生日に買ってもらったマジック・セットが手品を始める動機になったと述べています。 私の場合も例外ではありません。小学校の5年生でしたから10歳くらいのときでしたでしょうか。
そのころ、私は、母と離れて暮らしていました。 私は、富山にある母の祖父母の家に預けられており、東京にいる母とは、年に何回か会う生活でした。 父も東京に住んでいましたが、父と母と3人で食事した記憶は、数えるほどしかありません。 すべて、都内のレストランだったと思います。 いまでも覚えているのは、父が、ハンバーグを頼んでくれて、目玉焼きの載ったハンバーグが運ばれてきたとき、私は、子ども心に、こんなに美味しいものが世の中にあったのか、と思ったことです。 そのとき、ナイフとフォークの使い方も父が教えてくれました。
富山に帰ってから祖父母にそのことを話したら、ただちに、富山の「大重亭」(漢字が正確じゃないかもしれません)という洋食屋に連れて行ってくれて、ハンバーグを注文してくれました。 しかし、それは、大人向けの大振りなもので、目玉焼きの代わりにいまでいうデミグラス・ソースのようなものがかかっている本格的な料理で、私は子ども心にがっかりしたのを覚えています。

 東京に行って、母に会ったときは、母は必ず何か買ってくれました。 それは当時私が蒐集していたミニカーであったり、文房具であったり、それほど高価なものではありません。 一方、比較的高価なおもちゃは、父に欲しいものを言っておくと、日本橋の三越本店からそれは送られてきました。 こんなふうに書くと、余計な詮索をする人がいると思いますが、父と母は正式に結婚した夫婦であり、私は正当な嫡男でした。 話を戻します。
 小学校5年生のときに、母と渋谷の東横百貨店に行ったことがあります。 そこで、天地創一さんの手品の実演を観ました。 それまでも、なんとなく手品には興味があって、お祭りの屋台などで売っている赤玉ポートワインのキャップを3個使ったシェルゲームなどの粗末な小品を買ってみたことはありました。 しかし、なにしろ、東横百貨店で実演しているのは天地創一さんです。何もかも不思議でした。 母にせがんで、2つだけ買ってもらいました。 それが、天地奇術株式会社の「卵になるハンカチーフ」と「ユーモアうさぎ」だったのです。 「小さくなるトランプ」も欲しかったのですが、たぶん、天地創一さんが、子どもには難しいと思ったのでしょう。 あるいは、ちょっと値段が高かったのかもしれません。 そのとき買ってもらった2つの手品は、ずいぶん長い間私の手元にありましたが、外国を含める度重なる引っ越しで、散逸してしまいました。
したがって、<写真1>に掲げた天地奇術株式会社の「ユーモアうさぎ」は、後年、オークションで落札したものです。

<写真1>

 この商品には、特に年号もないので、いつごろの製造販売か不明ですが、おそらく私の買ってもらったものと同じだと思います。 箱を開けると、親うさぎ2羽と子うさぎが4羽、それに解説書が入っています<写真2>

<写真2>

 驚くのは、オークションに出品された方の保存状態がよほど良かったのか、スポンジは劣化していないし、解説書も当時のままです。 ちなみに、この解説書の裏側は天地奇術株式会社の広告になっていて、それによると、たとえば、「タンバリン」の売価は、1000円となっています。 確か、その時代の映画館の入場料が150円でしたから、その比率を単純に当てはめると、いまの映画館の入場料は1800円程度ですから、 12倍として、「タンバリン」は、12000円ということになります。 いまの「タンバリン」もそれくらいの値段ですので、当時も手品用具は同じような値段だったことがわかると思います。

 私がこの「ユーモアうさぎ」のパッケージを開けて、最初に感じたことは、タネ(ギミック)のない驚きでした。 「卵になるハンカチーフ」のほうは、木製の卵が付いていて、しかも穴が開いていました。 天地創一さんの手練が上手であったとしても、それなりに納得の行くタネでした。 ところが、「ユーモアうさぎ」のほうには、まったくタネがないのです。 スポンジ製の大人のうさぎ2羽、子どものうさぎが4羽入っているだけです。 そのほかに何も仕掛けやタネのないことが最初の驚きでした。
解説を読んでみると、右手の指先にうさぎを置いて、それを左手で取ると見せて、その左手の陰で右手を握ってうさぎ保持し、同時に左手は、あたかもうさぎを握って取ったように見せることが図とともに書いてあります。 こんなことができるのか?と思うと同時に、天地創一さん(そのときは、もちろん名前は知りませんでした)が本当に、そのような動きをしていたのか訝しく思いました。
それでも、解説書の通りに何回も練習して、できるようになりました。 当時は、スポンジ・ボールの手品はまだ普及していませんでしたし、リテンション・パスなどという考え方もありませんでしたから、「パス」というのは、この天地の解説書の通りだったのだと思います。 フレンチ・ドロップはあったと思いますが、スポンジのうさぎには不向きです。 後年、ゴッシュマンのスポンジ・ボールの演技を見てからは、私の「パス」に関する考え方が根底から覆りましたが、もちろんこのときは知る由もありません。
天地の解説書では、子うさぎの出現も、横を向いた右手でポケットから掴んで運んで来るようになっています。 私は、子どもでしたから上着を着ていることが少なく、したがって、子うさぎは、座布団の下などのどこか別のところに隠しておいて、そこから運んでいたように記憶しています。
その後、うさぎのスポンジも3Dになり、私自身のやり方も上手になって、子うさぎも堂々とポケットから運べるような演出になりました。 現在私が行っている「ユーモアうさぎ」のパスややり方は、すでに、拙著「60歳からのマジック入門」(東京堂出版)の「ユーモアうさぎ」の項に詳述してありますので、興味のある方はそれをご参照ください。

 ここで話が終わったら、単なる昔話です。 手品の手順や演出が進化していることは論を俟ちません。 したがって、「ユーモアうさぎ」のようないわば単純な手品でさえ、昔と今とでは、すでにやり方は大きく異なっているのです。 「ユーモアうさぎ」は、私にとって忘れられない手品です。
それは、最初に覚えて、大人の観客に実演できるようになった手品であるばかりでなく、タネのない技術だけで見せる手品があるのだということを自覚させてくれたことと、単にポケットから運んでいるだけの子うさぎの出現のクライマックスに、観客たちが大いに驚きかつ喜ぶことでした。 すなわち、手品というのは、タネがあって、その存在を知らない観客に、タネを見せないようにして演じるものだと思っていた私にとって、タネのないことや、演出(ミスディレクション)だけで見せている事実は、新鮮な驚きだったのです。 いまから思うと、取り立ててタネのない「ユーモアうさぎ」は、購入した大多数のひとが上手に演じることができなくて、あきらめてしまった商品ではないかと思います。
販売するほうも、これでは売れないと思ったのか、最近のこの種の手品は、大人のうさぎが3個付いて来ます。 最初から1個隠し持っていて、観客にひそかに2個握らせ、残った1個を堂々とポケットに入れるのです。 そして、ポケットに入れたその手で親うさぎをポケットに残し、複数の子うさぎを握って来ます。 こうすれば、「パス」も不要ですし、特別な技術も要りません。 親うさぎの移動(増加)がミスディレクションになって子うさぎのひそかな運搬は観客の目に触れません。 うさぎの材質がスポンジだから可能な「技」で、観客には、1個握っていても数個握っていても感覚がわからないから可能な手品だと言えます。 手練や練習が要らない分、販売商品としては適しているかもしれません。
複数の子うさぎは、昔も今も、ポケットから運ぶだけです。 マジシャンの手は、ポケットに入れるとき以外、一度もどこかに隠れたりはしません。 子うさぎを隠し持った手で堂々とテーブル上の親うさぎを掴みます。 私も、自分で実演してみるまでは、こんなことで観客が驚くとは思っていませんでした。 手品を面白く感じるのはこういうときです。 言い換えると、技術とミスディレクションだけで演じる「ユーモアうさぎ」に魅力を感じたことが、手品の虜になった所以だとも言えます。
こういうふうに書くと、「道具物」で、こうしたタネのない手品は珍しいと思われるかもしれませんが、その典型例はカップ・アンド・ボールです。 カップ・アンド・ボールは、カップにもボールにもウォンドにも基本的に仕掛けはありません。 もちろん、コンボ・カップやソリッド・カップなどのように例外はありますが、それらはまさに例外であって、通常は、カップにもボールにもウォンドにも仕掛けはありません。 ボールを1個余分に使うこと以外は、観客から秘密にしている物理的な要素はありません。 それなのに、出現、消失、増加、減少、移動などの不思議な現象を技術だけで見せているのです。 しかも、最後のクライマックスの大きなボールや果物は、まさに、ポケットから運んでいるだけです。 そういう観点では、「ユーモアうさぎ」は、まさに、手品の原点なのです。

 私の手品の師、高木重朗氏は、手品を見せる場合のいくつか基本的な原則をいつも述べておられました。 それは、カード(デック)は最初に観客に切らせる(シャッフルさせる)、コインは改めさせる、クロース・アップは、テーブルを選ばず、歩いて登場してきて、手品を演じ、歩いて去る、という原則です。
最近は、セットしてあるせいか、演技の前に観客にデックを切らせるということが少なくなりました。 ギャフ・コイン(トリック・コイン)を使うので、コインを観客に改めさせるということも少なくなりました。 IBM、SAM、FISMのクロース・アップ・コンテストでも、自分だけの仕掛けのあるテーブルを使い、横に鞄を置いたり、テーブルの上にいろんな道具を並べたりするマジシャンが多くなりました。 そのことを非難するつもりはありませんが、たとえば、Juan Tamarizのクロース・アップは、いまでも、歩いて来て演じ、歩いて去ります。 特殊なテーブルも鞄も持ってきません。 時代の寵児Asi Windなども、テーブルも選ばず、何も持って来ません。亡くなったDarylもそれに近い演じ方でした。
Fred Kapsも、あのチャイニーズ・コイン・ルーティンでさえ、何も持って来ないでテーブルに来て演じていました。 コンテストは別だと言われれば返す言葉がありません。 では、訊きますが、特殊なテーブルが必要で、左右の角度や背後を気にしなくてはいけない手品を、いったいいつどこで演じるのですか?Harry Lorayneは、常に、「近くに来て見なさい、私の背後に回ってもいいですよ。 テーブルのすぐそばまで来て見てもいいですよ」と観客に言っていました。

 REGATTAというデックがあります<写真3>。Steve Goreという人が作ったデックで、製造はバイスクルのUSプレイング・カード社ですから、カードの品質には問題がありません。1デック25ドル(約2800円)です。

<写真3>

 この怪しげなデックは、まず、観客に手渡して改めさせ、さらに、自由にシャッフルさせ(リフル・シャッフルでもオーバーハンド・シャッフルでもなんでも可)、そのあとで、観客の好きなフォア・オブ・ア・カインド(4枚のエースとか、4枚のキングとか)を言ってもらうと、マジシャンは、テーブル上で裏向きにリフル・シャッフルしながら、そのフォア・オブ・ア・カインドを1枚ずつ、あるいは、4枚一度に出すことができます。
特定のフォア・オブ・ア・カインドではなくて、どのような4枚でも出せるところがミソです。 もちろん練習が必要です。 シャッフルもロケーションも練習が必要で、そう簡単にはできませんが、できます。 カーディシャンなら一度はやってみたい、この奇跡のようなカード手練が25ドルでできるのです。

 結論を先に書くと、これは、マークト・カードなのです。ただ、裏からわかるだけでなく、サイドとエンドからもわかるように作られているのが特徴です。そのため、リフル・シャッフルしながら、フォア・オブ・ア・カインドを見つけ出すことができるのです。素晴らしいでしょう?セットしてないので、繰り返して何回でもできるのも魅力です。実は、特定の1枚も出すことができるのですが、数字とスートの両方を特定するのには、ちょっと「慣れ」が必要です。

 これを演ってみせると、観客は大いに驚きます。マジシャンの究極のテクニックを観たような感じです。ただ、観客の驚きとは別に妙な虚しさに襲われます。これを、普通のバイスクルで演じることができたのなら、たぶん、この虚しさは訪れないでしょう。この究極のロケーションを見せた後では、引いたカードを当てても、普通のフォア・エースを演ってみせても、観客は、それなりに驚きはしますが、「ああ、それくらいできるだろうな」という反応です。手品は難しいものです。手品マニアには、このデックを出してきただけで、詳細はともかく特殊なデックであることがバレますから論外です。

 REGATTAを使ったときの虚しさは、いわば、「禁じ手」を使った虚しさです。 「ユーモアうさぎ」は、禁じ手は何も使っていません。技術とミスディレクションとで演じています。 カード・マジックにおいて、「裏からわかるトランプ」は、「禁じ手」だと私は思います。 同様に、リンキング・リングにおいて、キイ・リングを機械的にせよマグネットにせよ、ロックして見せるのはやはり「禁じ手」だと思うのです。 コインのシェルは、禁じ手とまでは思いませんが、3枚シェルを被せたりするのは、さすがにやり過ぎだと思います。 私は古いタイプのマジシャンでしょうか?
 実はそうではなくて、キイ・リングのロックはありとあらゆる方式のものを所有していますし、ギャフ・コインも、3重のシェルどころか、かなり特殊なものをトッド・ラーセンやスクールクラフト、国内では中島さんに頼んで作製してもらっていますので、手品のマニアというのはそういうものだという傾向は否定しません。  ただ、普通の人に見せるときやテレビで演じるとき、ロックの付いたキイ・リングや、シェル・コインを使わなくても、まったく同じ演技ができるのに、といつも思うのです。  やっぱり私は古いタイプのマジシャンなのかもしれません。

つづく