土屋理義

マジックグッズ・コレクション
第18回

天勝の正統芸を引き継いだ松旭斎広子(1)

日本奇術協会会長時代の広子(1985)

 松旭斎広子師(1913~2007、本名・山崎下枝(しずえ)、以下文中の人物敬称略)が初代松旭斎天勝一座に入ったのは大正15年(1926)の秋、13才の時でした。 天勝(1884~1944)がアメリカ巡業から帰国し2か月後に帝劇で披露公演を行ったのが前年6月のことですから、その余韻が残り80人ほどの座員をかかえていた「魔術の女王」全盛時の頃です。一座が広島の新天劇場に巡業にきて「娘子軍(ろうしぐん)」(踊りや楽器演奏、アシスタントを務める役)を募集した際、当初は3才年下の妹が華やかな舞台を見て、どうしても一座に入りたいと言いだし、母親が付き添って面接に行ったのがきっかけでした。 妹はもともと音感が良く踊りも歌も上手で、ハーフのような顔立ちだったこともありすぐに採用されました。 しかし年端もいかない妹一人きりでは心配なので、姉も入門させようと再び母親が下枝を連れて天勝を訪れ、結局姉妹一緒の入座となりました。 洋舞か日舞、あるいは音楽の素養がないと入れなかったそうですが、姉は日舞をやっていたことが採用された理由の一つでした。 さっそく広島出身のため姉が広子、妹が島子という芸名をもらいました。 島子(後の梅天勝)はプロとしてやっていこうと考えていましたが、その後結婚のため奇術界から離れました。

 
天勝一座に入った当時の
広子(右・座位)と島子(立位)(1929?)
19才の広子(1932)

 契約は5年奉公、お礼奉公が2年で、おこづかいが月2円、奉公明けの給料が月25円でした。入門後の5年間は、朝8時に起きてダンス、日舞、声楽、パントマイム、太鼓や三味線などの鳴り物、マンドリンなどの楽器の稽古、さらには舞台でネタッ子(奇術道具の中に隠れて消えたり現れたりする子役)をしたりなど奇術の基礎や、天勝娘子軍の一員としての舞台度胸を勉強しました。そのかたわら、師匠や先輩の身の周りの世話、舞台の準備、部屋の掃除と寝る間もないくらいの忙しさだったそうです。そのうえ幼い座員たちに家庭教師までついて、学校の勉強や礼儀作法もみっちり教わりました。
 これが後年、舞台での軽い身のこなしや、外国の曲を使った和妻をやっても、体がすんなりリズムに乗れるもとになりました。先輩にいじめられたり、修業がつらかったりで、何度も辞めようと思ったことがあったそうですが、それらを乗り越えていったのです。
 舞台での失敗もありました。演目「人造人間」(人形にメイクをして呪文を唱えると本物の人間が出てくる)で、広子がその人形の中に予め隠れていたのですが、おせんべいを食べながら中で眠ってしまい、天勝の合図に気が付かずに、とうとうその演目が出来ずじまいとなりました。その後に師匠から楽屋に呼ばれ、こっぴどく怒られたのは言うまでもありません。

保名の狂い
中央が初代天勝、後列左から2番目が広子、演目「保名の狂い」
平成11年6月新橋演舞場公演「花の天勝」プログラム63頁より転載)


 広子の役付きとしての初舞台は、2年のお礼奉公を終えた昭和6年、新橋演舞場でした。アメリカから帰国した石田天海に、四つ玉やカードなどの手練技の手解きを受けたのがキッカケで、奇術を本格的に始めた頃です。それは天勝一座が初めてアメリカからもってきたスケッチ風の寸劇で、天海が広子の性格に、おちゃめなところがあるのを見つけて、真っ赤な頬の顔、お尻を大きくしたおどけた扮装で出演させたところ、それが評判を呼んだのです。その後、天勝も広子を大いに見直し、いろいろな役をくれました。

初代天勝   石田天海
初代天勝(1940)
石田天海(1940)


 初代天勝はいつもこう言っていたそうです。「誇りを持った芸人になりなさい。もし芸人が見下げられるとしたら、礼儀作法がなっていないからです」それが師匠天勝の教えでした。天勝は「見て覚えなさい。言葉は悪いが芸は盗むものです」と言って、奇術のことは一切教えてはくれません。広子は邪魔にならないところから覗くように師匠の舞台を見たり、ネタを仕込むところをチラリと見たりわずかな時間で芸と奇術の原理を覚える毎日を送りました。特に天勝の観客を引き込む、驚かす、間の取り方などが非常に優れていたそうです。巡業も日本国内の北海道から九州まではもちろんのこと、北は樺太、満州、朝鮮、南は台湾の外地まで興行に出かけました。 私のラビリンス掲載「天勝の引退興行プログラム」(昭和9年4月興行)の中の「小奇術」や、寸劇「僕の妻」の下女・お常の役で、廣子(広子の旧漢字)の名が見られ、また島子の名も他の演目のところに小さく書かれています。

広子と金之助-内湯旅館春屋前にて(昭和30年代初め?)

昭和9年(1934)、21歳の時に、天勝が「この人と一緒になりなさい」と嫌も応もなく勧められた、座員で後見の名人(演者の脇にいて客にわからないようにネタを渡したり道具の出し入れを行う助手)山崎金之助と結婚しました。 結婚後につらいこともありました。子供を預けて旅巡業に出ていたところ子供が急死したのです。1時間くらいで駆けつけられる場所にいたにもかかわらず行かしてもらえず、その時は泣き明かしたそうです。師匠というよりは周りにいた先輩たちが、興行中を理由に許してくれなかったのです。 夫君の金之助はその後、広子の終生なくてはならないパートナーになります。「本当にすごい後見でした。奇術が良く出来るのも出来ないのも、全て後見次第ですからね。もう、ああいう名人級の後見は出ませんね」と雑誌のインタビューで広子が語っています(月刊「みんおん」昭和63年6月号)。しかし残念なことに、金之助は昭和52年(1977)、広子より30年も早く71才で死去しました。

 初代天勝は昭和12年(1937)4月、天勝の直弟・中井栄太郎の娘である姪の絹子を二代目に指名して引退します。その後も広子は二代目天勝一座の「娘子軍」を支え、昭和15年(1940)には新橋演舞場での二代目天勝の襲名興行に出演します。その時、初代天勝から直々に広子夫婦に対し「二代目をよろしく頼むよ」と言葉を掛けられ、自分が頼りにされていることを実感し嬉しかったそうです。

二代目天勝、初代天勝、小天勝
左から二代目天勝、初代天勝、小天勝(二代目襲名披露特別公演-1937)

 しかしその後戦局が悪化、昭和19年(1944)春の名古屋巡演時に名古屋大空襲があり、二代目天勝一座の戦前の公演は終わりを告げます。初代天勝が病没するのは、おりしも同年11月11日、目黒権之助坂中腹の水明荘(天勝と娘子軍の住まい、別名・天勝寮)でのことでした。広子は夫と共に一座を結成し独立しますが、やがて終戦をむかえることになります。(続く)

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