明治、大正、そして昭和初期を駆け抜けた大スター天勝(初代)が、映画と係わりを持ったのは3つしかありません。
昭和8年(1933)6月に公開された無声映画「瀧の白糸」(原作・泉鏡花、監督・溝口健二、配給:入江プロ)で、入江たか子演ずる旅芸人一座の花形太夫の、水芸(図1)の指導をしたのが最初でした。しかし天勝は映画に出演はしていません。
<図1>「瀧の白糸」中の水芸
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昭和11年(1936)3月、天勝の舞台生活40年の総決算として公開されたのがトーキー映画「魔術の女王」です。監督は木村荘十二で、東宝の前身のP.C.L.が制作しました。
天勝一座の美貌の秘蔵っ子・情熱のマリ子(竹久千恵子)が、花形曲芸師・吉田(滝沢修)と道ならぬ恋の逃避行に走り、やがて落ちぶれて師匠の天勝に、無断で退団したことへの許しを乞うという筋立てでした。
映画の中では「夕涼み」、「ミステリー・カーテン」(図3)、「人造人間」、「鳩すくい」、「伸びる体」、「ミイラの棺」、「人形の家」、「浦島太郎の水芸」、「エジプトの楽園」など、天勝奇術の当たり演目が多数披露されています。
<図3>「魔術の女王」の中の「ミステリー・カーテン」(多数の美女の出現-中央が天勝)
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そして昭和16年(1941)9月に、日活多摩川から公開されたのが「世紀は笑ふ」(監督・マキノ正博)でした。天勝が実名で特別出演、小天勝お雪役には轟夕起子が二役(もう一人は、小天勝と瓜二つの鶴亀座の席亭の娘・前田フミ子役)で出演しています。
<図4>「世紀は笑ふ」のタイトル
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ある小都市で支那そば屋をやっている二人の青年、廣田大造(廣澤虎造)(図5)は浪曲師に、もう一人の杉野凡作(杉狂児)は舞台俳優を志し、お互いが苦難の芸道精進を経て成功。その間に紆余曲折がありながらも、強く美しい友情で結ばれるバックステージ物の喜劇映画です。
<図5>浪曲師・廣田大造(廣澤虎造)
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杉野が天勝一座に入り、空の「ミイラの棺」から、とんまな女性姿で出現したり(最後に掲載の動画参照)、小天勝とのダンス共演でトランプ手品(カラーチェンジ)を見せています(図6)。小天勝は「人形の家」(動画)も演じています。
<図6>杉野と小天勝のダンスの共演(唄は「愉快な手品師」)
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大きな丸のこぎりによる人体切断の道具が出てきますが、演技は見せていません(欠落している7卷目に収録か?)。このマジックは、映画が作られた25年前の1916年に、ホラス・ゴールディンが来日した際に上演しています。その際、天勝が有楽座の舞台上で、ゴールディンを紹介しました。
一座の前宣伝の街頭行列(図7)、舞台準備風景(図8)や、座長天勝の56才の肉声が聞ける(動画)貴重な映画です。
<図7> 天勝一座の前宣伝の街頭行列
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<図8> 天勝一座の舞台準備風景
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ラストシーンは、天勝一座が、神戸から船に乗ってドイツに海外興行へ出発するところで終わります。海外巡業の行き先が、アメリカではなく、ドイツというところが、この映画が作られた1941年の時代背景を物語っています(日独伊の三国同盟)。映画が公開された3ヶ月後には、真珠湾攻撃があり太平洋戦争に突入しました。そういう重苦しい世相の中で、この喜劇映画は興行的には大当たりとなりました。
杉野役の杉狂児は、もともと東京音楽学校で学んだ浅草オペラの出身で、歌もダンスも得意でした。1922年の1年間、浅草オペラの大御所・南部邦彦に誘われ、天勝一座にいたことがあります。戦後は映画で脇役で活躍、「うちの女房にゃ、ひげがある」の流行歌で有名になりました。
もう一人の主役、浪曲師の廣澤虎造(二代目)は、無名の頃、廣澤天勝、廣澤天華と名乗ったことがあります。関西(吉本興業所属)で腕を磨き、東京に進出して名人と称されました。
轟夕起子は、この映画の制作時には、監督のマキノ正博と結婚、残念なことに戦後49才で亡くなっています。
この映画は戦後、フィルムが行方不明となりましたが、ロシアでオリジナル103分のうち、94分が発見され、2026年4月3日、衛星放送(衛星劇場)で、地上波初の放送がされました。
しかし、昭和21年(1946)11月発行の宣伝雑誌「東宝レポート」(図9)には、名古屋の名寶劇場、大阪の大寶劇場の両映画館で、11月の1週間、他社日活の「世紀は笑ふ」が、5年振りに上映されたことが掲載されています。しかしその後、フィルムの経年劣化により、上映出来なくなってしまったのかも知れません。
<動画>マジック「人形の家」、「ミイラの棺」を演じる小天勝
「ミイラの棺」の失敗で天勝に謝る杉野