松山光伸

異国の舞台に立った日本人一座を追って 
― 南半球に向かった開国直後の人々 ―

はじめに

 ペリーやハリスによる開国交渉を経て、一般国民にもようやく海外に出るチャンスが訪れたのは幕末も押し迫った1866年のことである。一攫千金を目論む外国人マネージャーに率いられて1866年の末には一早く芸人一座が欧米に向かい、続けてオーストラリア・ニュージーランド方面にも途中の東南アジアで興行をしながら向かった一座があった。これらの概要は「実証・日本の手品史」にすでに書き綴った。ところが現地の記事や一部のポスターは残っていても、彼らが経験した移動の毎日や演じた劇場の様子を伝えてくれる材料は極めて少ない(注1)。いかんせん150年近く前のことである。当時の様子を窺い知れるものが限られている中、なんとか彼らの経験を追体験できるすべはないものかと数年来思いあぐねる状況が続いていた。
 そんな時、当時の古い劇場の一つがいまなお現役として使われていることを知った。世界中で古い建物や町並みが失われてきている中で、唯一オーストラリアのタスマニア州の州都ホバートにそれが現存していたのである。そして開国直後に渡航した二つの日本人一座がこの劇場にも現れ出演している事実をつかんだ途端、当時の様子を追体験できるのではないかという期待感が一気に高まってきた。ほどなく現地に足を延ばすことになったが、併せてその後の追加調査から彼らの足取りの全貌もわかり、今まで不可解に思っていたことや彼らの興行の様子などが明らかになってきた。以下はその調査報告である。

タスマニアの位置と本文中に出てくる巡業一座の主要な訪問地
タスマニアの位置と本文中に出てくる巡業一座の主要な訪問地

注1:米国と欧州に渡った帝国日本人一座の世話役「高野広八」が残した日記が唯一の実録記である。

【 目次 】

開国当時の様子が分かる西洋劇場

ホバートの地に残っていたシアター・ロイヤル

 Theatre Royalという名の劇場はとても多い。イギリスのみならず英連邦の多くの都市にその名を冠する劇場がいくつもある。産業革命を経て勢いを増す英国とその植民地内に建てられた劇場のいくつかに王室に敬意を表してその名がつけられ、それが現在も残ってしているからである。例えば、ロンドンの劇場街にTheatre Royal の名を冠するDrury Laneがあるかと思えば、オーストラリアのシドニー中心部にも同名の劇場がある。とはいえ火災・老朽化・再開発などの影響で多くの劇場が建て直されており、例えばシドニーの現在の建物を見ても往時の様子を窺い知ることは全く不可能になっている。(注2)

注2:Drury Laneの方は1812年に再建されたものが今日に伝わっている貴重なものであるが、座席数がはるかに多い大劇場であることから日本人一座が現れることはなかった。

 そんな中でホバート(Hobart)のシアター・ロイヤルは当時の軽業一座の体験を知ることのできるとても貴重な存在である。なにしろ建てられたのはオーストラリアが英国から独立した1901年よりかなり前の1837年のことである。当時は植民地とはいってもその過半は流刑囚が占めており、先住民たるアボリジニを追い払いながら入植地として最低限の社会基盤を整えつつある時期にあたっていた。日本では天保改革が本格的に始まろうとしていた江戸時代の後期の頃で、倹約令や風俗取締りの一環として歌舞伎の芝居小屋は強制的に郊外に移転(当時町外れだった浅草の猿若町に引越し)させられ、それ以外の軽業や人形芝居などは一部の寺社境内や火除地でいつでも撤去可能な葭簀小屋(軽業は高小屋)に活動の場を限られていた時代であった。海外を初めて目指した日本人一座の軽業師・曲独楽師・手品師にしてもそれまで時々屋敷に呼ばれることはあっても大衆に対しては葭簀小屋での経験が一般的だった頃である。

当時の様子を今に伝えるHobartのシアター・ロイヤル
当時の様子を今に伝えるHobartのシアター・ロイヤル

 その彼らが目にした異国の舞台と驚きはこのホバートの地でその多くを垣間見ることができる。詳しくは後段でつぶさに眺めることにして、まずは日本人一座が現れた当時のホバートの町と劇場の背景についてその概要をみておこう。

当時のホバートの様子

 ホバートは豪州大陸の南東に位置するタスマニア島の南東部にある州都である。現在のタスマニアにおけるホバートのイメージは北海道と比較すると理解しやすい。タスマニアは北海道の大きさに近い面積がありながら、人口は1割以下の約50万人の過疎の島である。ただ何よりも北海道とは緯度がほとんど同じであり、牧畜が盛んな気候と地形のためかよく似た雰囲気の土地柄である。一方、州都のホバートは周辺地を含めたグレーター・ホバートのことを称するが、面積と人口で見る限り、同じように海に面している釧路市のそれに近い。ただ、20万人を超えるその人口はタスマニア全体の半分近くを占めるほどになっていて州内での存在感がとても大きな港町である。

1837年に作成されたVan Dieman’s Landと呼ばれていた頃のタスマニア
1837年に作成されたVan Dieman’s Landと呼ばれていた頃のタスマニア

 ところがシアター・ロイヤルが出来た1830年代は今日とは全く様相が異なっていた。ここはオーストラリアでシドニーに次ぐ二番目の入植地として選ばれたこともあって人の流入は早かったが、当時の地図を見ると南東部のホバート周辺以外には北部のローンセストン地区(豪州では三番目に古い都市となる)周辺しか描かれていない。また、入植者といってもその多くは流刑囚で、彼らは刑務所に収監される一方、土木作業等の労役に駆り出されて道路や橋の建設などに従事させられていた時代である。そのことは1847年の人口調査でも明らかで、当時七万人いた住人の半数超は流刑囚が占め、加えて多くの軍人や役人も送り込まれたため、一般の入植者となると20%にも満たない状況にあった。
 当時の様子を伝える文面によると、劇場ができる前のその界隈はドックヤード(造船や修理を行う一角)に近い町の周縁の地で、主として労務者階級が集中する地区になっていて、犯罪や街娼が絶えず、入れ替わりやってくる船乗りの多くも寝泊まりする猥雑なところだったという。皮なめし工場、屠殺場、石鹸工場、ガス製造工場なども混然と立地する中、下水や雨水の処理が不十分だったこの地は豪雨ともなると糞尿や汚水が排水されずにしばらく放置されるような非衛生この上ないところだったという。

現在の中心部の区画がそのままの当時のホバート<br>Theatre Royalも描かれている(AC Cooke, 'Hobart Town', 1879)
現在の中心部の区画がそのままの当時のホバート
Theatre Royalも描かれている(AC Cooke, 'Hobart Town', 1879)

日本人が現れる前のTheatre Royal

 そのようなホバートでの楽しみといえば1826年にはじめて音楽会が開かれ、1833年には石工組合の酒場で演劇が行われた記録が残っている。翌1834年にその種の催しを行う集会施設もできたが、ちょうどその頃本格的な劇場建設の話が持ち上がった。これが今日に伝わるTheatre Royalである。そして無用の長物と揶揄されたこの劇場は1837年3月にオープニングとなった。この1837年という年はのちにオーストラリア第二の大都市となる地にメルボルンの名が付けられた年である。そして劇場が開場した直後の六月、ヴィクトリア女王が即位したのを機に、この劇場はRoyal Victoria Theatreと名前を変え、その名が以後20年間使われることになる。
 当初の劇場運営はとても順調とは言い難いものだったようだ。出し物も現在のようなドラマ・バレー・ミュージカル・コンサートとは似ても似つかないボクシング・闘犬・闘鶏など、考え付くあらゆるものが日常的に行われていたという。また劇場の地下にはThe Shadesという名の酒場があって毎夜多くの人が飲んでは騒ぐ光景が繰り返されていた。そしてその当時はこの酒場から劇場一階に上がれる口があって階上で興行が行われているときに地下酒場からジョッキを手にして女を連れた観客が現れるような有様だったと伝えられている。

 そんな劇場ではあったが日本人一座より早い時期に興味深い芸人が登場している。流刑制度が廃止になってから6年経った1859年の暮れにプロフェッサー・リズリー(Professor Risley)の一座がこの地に来たのである。芸能史に興味のある方の中にはこの一座の名を聞いた人もいるだろう。日本にも開国後の1864年に訪れ、中天竺舶来軽業として評判になった曲馬軽業の一座である。ホバートの地元紙の前宣伝にはロンドンのDrury Laneで演じた一座と報じられているが、ここTheatre Royalの舞台では馬上の曲乗りは演じられてないもののgymnast, acrobat, dancerなどを交えた新しいスタイルの演技が披露された。いわばサーカス芸のはしりである。この一座の評判は高く、結局約二か月に亘ってホバートの地で演技を続けることになった。
 日本人の一座が現れるまでにはそれから8年を経て明治の元号が変わる年の1868年5月まで待つことになる。

横浜でのリズリー一座の様子を描いた絵(ホバートでは曲馬は演じられていない)
横浜でのリズリー一座の様子を描いた絵(ホバートでは曲馬は演じられていない)

今に伝わる劇場内の様子

 はじめてその外観を見た時は、こぢんまりとして落ち着いた佇まいの劇場という印象を持ったが、実際にその中に立ち入ってみると意外なほど客席数が多いことに驚くことになった。一階と二階を合わせて約500席余、1850年代に増設した三階席を含めると700人を収容できる規模の立派な劇場を目にしたからである。明治三年(1870年)日本で初めて出来た横浜の西洋劇場「ゲーテ座」が約200席、その後場所を移して建て直し、更に増床して拡大した後の「山手ゲーテ座」でも最終的に500席の規模であったことを考えるとその大きさには目を見張るものがある。ちなみに同時期(1800年代後半)のロンドンにおけるマジックの殿堂「エジプシャン・ホール」はせいぜい200人を収容できる程度のものであった。

現在の劇場内部(舞台右の2階席はロイヤルボックス) 現在の劇場内部(舞台右の2階席はロイヤルボックス)
現在の劇場内部(舞台右の2階席はロイヤルボックス)


三階席まである当時のTheatre Royal (1911年の改修直後)
三階席まである当時のTheatre Royal (1911年の改修直後)

 建物の躯体、主な構造、デザインなどは初期のものがそのまま生かされているが1890年に大きな改修工事がなされている。舞台を後方に拡張しその階下に楽屋を設けるとともに、客席フロアは張り替えられ正規のオーケストラ・ピットもその時作っている。また1911年に行われた工事では、二階席の外にロビーを追加し、客席フロアに傾斜を設けるなどがなされた。また近年でも舞台道具を搬入する際のリフターを舞台の袖に設置し、車椅子の客が入れるようにその入り口や数席分の専用スペースを設けるなど小変更はあるものの当初の姿はほぼそのままの形で残されている。
 なお二階席の右前方のロイヤルボックスはヴィクトリア女王が来臨された時のために作られたが、結局のところ一度も使われることなく今日に至っているとの解説であった。

オーストラリアの地を初めて踏んだ日本人一座

日本人一座のお目見え

 開国当初に豪州に出向いた有名な芸能一座は3つあった。内2つは旅券の下付が開始された翌年の出国である。その行跡を参考にしながら現地をたどってみたところこれまで疑問だった点が見えはじめるとともに、新たに興味深い事実が浮かび上がってきた。
 1867年11月14日、最初にオーストラリアの地に踏み込んだのは、タンナケル・ブヒクロサン(Tannaker Buhicrosan)率いるロイヤル・タイクーン一座(Royal Tycoon Troupe of Japanese)の6人でメルボルンでの初演となった。1851年、近郊で金鉱が発見されたのをきっかけに一攫千金を当て込んでやってきた人々で急膨張したメルボルンはこの頃までにホバートを上回る大きな街になっていたのである。まだ30歳前後だった座長のタンナケル・ブヒクロサンはオランダ人医師と日本人女性の間に長崎で生まれ、日本文化を愛し、バタフライ・トリックも演ずるなど芸能の才能も持ち合わせた異能の人物であった。
 ショーの冒頭では毎回日本の生活習慣等を解説して観客の興味を引き起こし、そのあと演芸に入るというプログラム構成をとっておりこれが評判だったようだ。オーストラリア・ニュージーランドを巡ったあとは、一座を連れて英国に回りエジプシャン・ホールにも現れている。その後のタンナケル・ブヒクロサンは芸人一座のリーダーにとどまらず日本人村博覧会をロンドン中心部で大々的に行うなど後半生を日本文化の宣伝にささげることになる。

 そのロイヤル・タイクーン一座から遅れることわずか1か月後の12月16日、レントンとスミス率いるグレート・ドラゴン一座(Lenton and Smith’s Great Dragon Troupe of Japanese)の12人が同じくメルボルンに上陸した。東南アジアからの寄港地としてはシドニーやホバートより先にあったためここが日本人一座にとっての初演地として選ばれる傾向があったのである。この一座は軽業芸人が主体であったが、その他に曲独楽師や後に柳川一蝶斎(三代目)となる蝶之助(本名青木治三郎)も加わっていたことが注目される。以後この二座は約一年オーストラリアとニュージーランドの各地で何度も相前後して現れて競い合う。いまだ明治改元前のことである。

ブヒクロサンとみられる人物 豪州での蝶之助
ブヒクロサンとみられる人物
Dr. Robert H. Sayers’ Collection

豪州での蝶之助

 それらから更に遅れること六年近い1873年8月から一蝶斎(Echowsi)を名乗る柳川長七郎率いる13人の一座がシドニーを手初めとしてオーストラリア各地とニュージーランドを回っている。この長七郎というのは一蝶斎一門で腕を磨いた手品師で、一時期生駒近江大掾の名で演じていたが、明治に入って突然掾号を使うことが許されなくなったため三代目一蝶斎を自称した人物である(注3)。とはいえ初代の養子で当時まだ現役だった二代目から一蝶斎の名を使う許しを得てなかったことからこの問題は一門の中で長い間尾を引くのである。結局、長七郎は一門を離れ、のちに青木治三郎(Lenton一座の蝶之助)が正式に三代目になるという因縁の持ち主である。
 これら三座の行跡はすでに明らかになっているが腑に落ちないことがある。レントンとスミスの一座はホバートのTheatre Royalに三週間、ローンセストンでは二週間の興行を行っているのに対し、ブヒクロサンの一座は有数の興行地であるタスマニアに一度も立ち寄っていないのである。一方、長七郎の一座は、ホバートに来た際にTheatre Royalに現れた形跡がなく、その反面、満足な劇場設備のない周辺の小さな村を丹念に回っているなど三者三様の行動をとっていた。何らかの理由があってこのような差が生じたと考えられるのだが、それがハッキリしてなかったのである。ところがこれらの謎は、後述するように今回の調査によってようやく明らかになってきた。

注3:拙著「実証:日本の手品史」では、生駒近江大掾と長七郎が同一人物であると推定するまでには至らなかったが、その後、「近江大掾事三代目一蝶斎」と題字が書かれた絵ビラが見つかってこのことが確認できた。

ホバートの人を驚かせたレントンとスミスの日本人一座

 この一座はオーストラリアに現れた日本人一座では最も評判が高かったようだ。新聞記事の量が多いこともさることながら、リーダーの増鏡磯吉を含めた腕達者な芸人が12人と多いことに加え、芸人一座の海外巡業を連れ歩いた経験のあるレントンと彼が高く信頼している興行主のスミスが早くから組んで綿密に練られた計画に沿って行動していたからでもある。頼りになる通訳P.カービーが終始同行して力になってくれたことも大きい。以下、1868年5月12日のマーキュリー紙に報じられたホバ-トでの初日の新聞評からその一節だけ抜き出してみよう。

日本人の曲芸一座がTheatre Royalに現れるのは昨夜が初めてのことで、数えきれない客が集まり、特に立見席は身動きできないほどだった。その演技はホバートの町の人がいままで見た中で明らかにベストのもので、群衆の拍手喝采は際限なく続いた。日本人は間違いなくバランス芸の達人で、その技は我々の目には信じがたいものである。彼らの冷静さと恐れを知らないことといったらヨーロッパの芸人にはとても比肩できるものではなく、その巧妙さには驚嘆させられる。ヨーロッパ人のアクロバットで見られるような派手に危険さを装うことに対しては野次などが飛ぶようなことがあるが、日本人にとってはそういう仕草は不合理でしかなく、自然な優雅さを表情にたたえながら成し遂げるその技は全くもってセンセーショナルなものであることを観客は目にしたのである。


 曲持ちが足や肩でバランスをとって支える梯子やたらいの上で行われるアクロバット芸はどこでも驚嘆の的であったが、綱渡り、曲独楽、手品など、時々内容を組み替えて披露する多彩な芸に西洋人は目を見張ったのである。
 これに先駆け、一座はメルボルンのアーガス紙の1867年1月17日号で詳細な紹介がなされていたが、そこに書かれていた彼らの出国のエピソードが興味深い。それによればレントンはイギリス公使のパークスの奨めもあって江戸のドラゴン劇場と交渉し、一人一人横浜に来てもらって芸を確認したのち契約を取り交わしたようだ。ただ当時は、芸人の渡航なかんずく女子の渡航には難色が示されていたため旅券を受けるのが容易ではなかったことが紹介されている。そして約12カ月前にようやく横浜を発つに至り、その後東南アジアの各地で公演しながらオーストラリアに向かうことができた。ちなみに、出国に至るまでにはイギリス公使、アメリカ総領事、ジャーディン・マジソン商会などからの働きかけがなされたという。

発祥に遡る東西劇場文化の違い

日本とは異なっていた観劇文化

 さてホバートの新聞紙上に出た広告を見ると、日本から連れ出すまでの裏話もあって興味深いが、注目したいのはそこに書かれている公演時間と座席の料金である。ここに示したのは1868年5月11日の広告を上下に分割したものであるが、最下部を見ると開場は夜7時15分、開演は7時45分となっているのがわかる。実はリズリーが演じた1862年の時点や、それ以前でも7時台に劇場は開場していたことが確認できており、劇場興行は日本と違って夜に行われていた。

The Mercury紙の広告(1868年5月11日) 豪州での蝶之助
The Mercury紙の広告(1868年5月11日) 左が上半分、右が下半分

 これは日本の常識とは大きく異なっていた。Theatre Royalが完成した1837年当時、江戸の芝居小屋で行われていた歌舞伎は昼間しか興行が許されていなかったからである。これは正徳年間に幕府が再度徹底して以来の決まりで、火事対策や風紀上の措置として行われていたのである。また、盛り場や寺社境内・広小路で主に演じていた見世物芸の方は、仮設された葭簀張りの小屋で演じていたがこちらも昼だけである。(注4)

金丸座の外観 小間割りになっている一階
金丸座の外観

小間割りになっている一階

 このことは当時の芝居小屋の代表的な構造を見ると理解できる。現存する日本で最古の芝居小屋は香川県琴平町にある「金丸座」である。木造だけにかなり大規模な改修がなされてはいるもののこの芝居小屋は1836年に創建されたというからホバートのTheatre Royalとほぼ同年に建てられたもので往時の構造をいまに伝えている。ここでは照明設備というものが基本的に存在せず、その替わり、小屋の上部の側板を跳ね上げ外部から明かりを取り込んで芝居が見えるような構造がとられ、興行は昼間に限られていた。写真では舞台前面にローソク様の明かりが並んでいるのが見えるが、これは側面からの光量では不足するため、江戸後期になると種油やローソクを舞台前に配置して見えやすくするようにした工夫である。加えて、個々の役者の顔が見えるように「面明かり」という特別な補助光を使うこともあり、それを黒子が持ち歩きながら主な役者の面前に差し出すような工夫も行われていた。
 この時期、Theatre Royalの照明にはガス灯が使われていたと思われるが、ケロシンを使っていたという解説もありケロシン・ランプの時期もあったようだ。石造りの建物や、椅子が並んでいる客席もさることながら、日本で慣れ親しんだ常識とは異なる光景を目の当たりにした蝶の助をはじめとする日本人芸人は大きな彼我の差を感じたに違いない。

注4:幕末の日本の芝居小屋をのぞき見た外国人の見聞記に「芝居は朝早くから夜遅くまで演じている」と記してあるものがある。ただ彼らが夜間に出向いたとは考えにくく、人づてに聞いたものを記した可能性が高い。一方、寛政の改革を行った松平定信は天明7年(1787)、政務について上奏した意見書の中で「御触等出候ても人々用ひ不申」と嘆いたとされている(松平定信意見書、『東京市史稿』産業篇第31)。従って、幕府の取締りの裏をかいて、場内に提灯明かりを点け夕暮れ以降もなかなか閉場しなかった芝居小屋が後を絶たなかった可能性は残る。

客席を埋める人々

 もう一つ注目したいのは1階より2階や3階の方が料金が高くなっている点である。広告の下方の案内でわかるように、Dress Circleと呼ばれる2階席が4シリングなのに対し、Pitという1階の入場料は1シリング6ペンスと半額以下に過ぎないのである。Upper Circleと呼ばれる3階席でさえ2シリング6ペンスであることを考えると1階は非常に格安になっている。現代の劇場の料金設定の考え方とは正反対といっていいだろう。
 とはいえ当時の日本でも同様の考え方になっていたのは興味深い。すなわち日本の芝居小屋の一階席は、元々は土間でその上に直に座るスタイルであった。「芝居」の語源はそこにあり、それが時代が下るとともに小間割りに変化した枡席になったのに対し、後方の桟敷席や二階桟敷は視界を遮るものがない上席として作られてきたからである。同じように、欧米でも一階席を囲んだ高みの席にはイブニングドレスで来る人が多く上等な席となっていた。2階席がDress Circleと呼称されているのはこのことに由来するのである。

Dress Circle後方からの眺め Upper Circleから舞台を望む
Dress Circle後方からの眺め

Upper Circleから舞台を望む

 ただ日本人にとって驚きだったのはPitの名で呼ばれていた一階は日本のそれとは異なり立ち見客のために設けられた土間(煉瓦敷きと思われる)だったことで、そこに客がごった返していたのを目にすることになった。日本でも江戸時代初期こそ舞台以外は屋根がなく、見物人は土間から役者を見上げる形だったが、時代が下った幕末には安い席とはいえ桝席が一般的になっていた。それに対し1800年代のオーストラリアでは立ち見客向けのPitをDress CircleやBox Seatが囲むような劇場形態が珍しくなく、またイギリス本国でも同様の事例が皆無ではなかった。
 蛇足ながら、ロンドンのテームズ川の河畔にあった有名なグローブ座(The Globe Theatre)は復元後の今日でも一階の客は土間に立ったままシェークスピア劇を眺められるような作りになっていて往時のスタイルでの観劇を楽しめるようになっている。とはいえホバートのTheatre Royalでも1870年前後にはStallsと呼ばれる椅子席が導入されるようになり、それとともにPitは前方の一部に追いやられることになる。
 その後、全面的に椅子席に置き換わったこともあって、今日ではレントンとスミスの一座に加わった日本人が目にした当時の一階の様子を目にすることはできない。ただ興味深いことに、今日の座席料金表を見ると、いまなお一階席が必ずしも一番高い料金設定になっているわけではないことに気付く。バレーなど奥行きのある演技などでは三階席を好む客が多いというのがその解説で、当時の座席の考え方がいまなお一部引継がれているのである。

2012年の座席価格表
2012年の座席価格表

劇場見て歩き

 彼らはホバートに1868年5月29日までいた。約半月もの間劇場に通ったということになる。その間連日新聞紙上に取り上げられ、最初の週末には昼間の興行(マチネー)を付け加えたり、一週間たった19日火曜日には特別に遠くの刑務所や矯正施設を訪れて施設の職員から案内を受けたりしたことなどが報じられている。客人として流刑囚のことや町の沿革などについての解説を受けたのであろう。二度目の週末となった23日の記事を見ると、日本人はプログラムの冒頭で獅子舞を演じ、中盤では勝次郎が舞台から3階席に張ったロープをバランス棒を持たずに登り、次いでその高みから立ち姿のまま一気に滑り降りて大喝采を博したとも報じられている。

軽業芸にも余裕の意ある舞台の高さ
舞台から眺めた客席
軽業芸にも余裕の意ある舞台の高さ

舞台から眺めた客席

客席上のドームは当時のデザイン通り 舞台裏の仕事は今もってマニュアル操作
客席上のドームは当時のデザイン通り

舞台裏の仕事は今もってマニュアル操作

舞台裏中二階 正面入り口から二階へ行く階段
舞台裏中二階

正面入り口から二階へ行く階段

 毎日通った劇場だけに、彼らは開場前に客席に座ってみたり、舞台裏を覗いてみたりと興味に任せてアチコチ探検したに違いない。あれから140年、ボヤに何度か見舞われたこともあって一部の部材は改修されているが、エレベーターなどはいまだ無縁の劇場である。おかげで彼らが演じた同じ舞台に佇むことができるのはとても幸せなことである。

異文化に接したエピソード

女王誕生日記念式典への出席

 滞在中の5月27日水曜日、ヴィクトリア女王の誕生日を祝うための行事がとり行われた。この日を祝日とすることが布告されたため町の商店や事務所は終日休みとなってそれぞれが思い思いに楽しく一日を過ごす日になったのである。朝から庁舎では王旗が掲げられ、港の船にも万国旗が飾り付けられたりする一方、クリケット広場では特設スタンドが設けられ正午から大きなイベントがはじまった。日本人の面々もこの日の様子を目にしたのはもちろんである。当日の新聞の報じるところによると、スタンドの特等席にはレントンとスミスの日本人一座の一行が占めており事の成り行きを興味深く見ていたとされている。賓客扱いだったのであろうか。総督閣下の到着のもと、音楽隊や軍隊の各部隊のパレードが次々と繰り広げられ、女王を称える歓声が3回響き渡り、最後に祝砲が轟くといった次第だったようだ。きっとシドニーやメルボルンでも体験できなかった思い出深い光景になったのではないだろうか。

レパートリーに加えていた歌舞伎の一場面

 ホバートでの最終日となる29日はレントンとスミスのためのベネフィット興行が行われた。驚くべきことにこの日の興行ではなんと歌舞伎の一幕も演じられていたのである。歌舞伎史に新しい事実が付け加わる重要なことなので、少し詳しく記しておこう。
 この事実は最初、豪州演劇史研究家のシソンズ教授(David C. S. Sissons)がBallarat Courier紙に掲載された一座の広告文の中にEGA–SUUR-NE SIMBOAM ZA-CE-CO-RAという演目を見つけ、そこに”Of twenty minutes duration, intended to represent a Tragic Event in the history of one of the early Tycoons as well as to afford an insight to Japanese Manners and Customs, and to exhibit the general character of Japanese Theatrical Representations” という補足説明があるのを見つけてわかってきたものである。氏は歌舞伎研究者であるスティール博士(M. W. Steele)の協力を得てEGA–SUUR-NEはYoshitsuneのことであり、SIMBOAM ZA-CE-CO-RAはSenbonzakuraのことを示していること突き止め、ようやく「義経千本桜」の一場面が演じられたことが判明したというわけである。よくぞと思える読解力であるが、この解釈が正しいことは以下からも確認することが出来た。
 ここではホバートのTheatre Royalで演じた時の広告を示すが、そこにはEGA SUM NE SIM BOAMと若干綴りを違えた上で、「日本の古い時代の将軍の悲劇を題材にしたもので、日本人の行動や文化を示すと同時にその独自の演劇様式を知りこともできる」と同じような紹介がされている。
 この話を知った時、これは余興として急遽準備したものだろうとの印象があったが実はそうではなかった。調べてみたところ、シドニー、メルボルン、アデレード、クライストチャーチ、オークランドといった主要な町を発つ前日のさよなら公演(farewell performance)では例外なくこれを演じていたからである。また、オークランドの紙面に掲載された広告にはKUNO-MENO-DANGとなっていたため演じたのは「()()の段」であり、加えてクライストチャーチのPress紙には登場人物としてKokingoとNi-chieが見えることから、「小金吾」と「内侍(ないし)」が源氏の追っ手に追われて立ち回りになる一幕だったことがわかった(注5)

ホバートのThe Mercury紙の広告(1868年5月27日)
ホバートのThe Mercury紙の広告(1868年5月27日)

 わずか20分程度の芝居とされているのできっと通訳が場面を解説した上での演技だったのであろう。新聞評に記されている寸評にも劇の様子を知る手掛かりがあった。アデレードでの劇評を見るとそこには配役名でなく出演者で書かれているためどの役を誰が演じていたか観客には理解できていたと思われ、そのことから歌舞伎独特の隅取の化粧は省略したか簡略して演じられていたと考えていいだろう。そしてこの一幕が終わってカーテンが降り再度上がった際にはすでに軽業で使う桶が舞台に並んでいたとも描写されている。また他紙には「Japanese Tragedyと紹介されたが欧州人の目にはcomedy or farceに見えたかも知れない」とあり、また「one, two, threeで上から、one, two, threeで下から斬りつけるといった戦闘場面」という言葉も見える。様式美がかなり進化した歌舞伎だけに観客がどの程度理解できたかはわからないが、「出演者の衣装は豪奢なものだった(extremely well dressed)」との感想もあることから、急な思いつきで演じた芸ではなく出発前からいざという時にはこれを出し物に加えようと用意周到に準備していたことは間違いないようだ。
 ちなみに歌舞伎は猿若町の三座でしか演じられていなかったわけではない。江戸時代後期には盛り場の葭簀張りの小屋等でもしばしば見られた人気の芝居として親しまれていた(注6)。江戸でその情景を目にしていた通訳のカービーがこれに注目し、機会があれば海外に紹介したいと思って一座のメンバーに依頼し実現したのであろう。

クライストチャーチでの広告 アデレードで演じた時の劇評
クライストチャーチでの広告
(Press紙1868年12月7日)

アデレードで演じた時の劇評
(South Australian Advertiser紙 1868年8月22日)

 豪州でこそこの事実は10年以上前に知られるようになったが(注7)、日本では専門家でも知っている人はほとんどなく、歌舞伎を初めて海外に紹介したのは二代目市川左団次が昭和3年にソビエトで行った「仮名手本忠臣蔵」とされていている。一方、素人歌舞伎ではそれより早い明治末期に日系移民が多かったハワイで演じられていたといわれている。また『ハワイ文化芸能100年史』(ジャック・Y・田坂、1985)によれば、明治30年には旅芸人の「朝日座」一行による歌舞伎劇が演じられていた。ところがレントンとシミスの一座ではそれより遥かに早い開国直後のこの時期に「義経千本桜」を海外で演じていたのである。実にアッパレな快挙である。
 そして、ホバートでのすべての予定を終えた一行はタスマニア北部のローンセストンの町(オーストラリアでは第3に古い町)に移動した。そこでは6月1日からホバートの劇場と同じ名前のTheatre Royalに現れ(こちらも一階席はやはり立ち見のみ)、再び半月に及ぶ公演を続けたあと、次の興行地メルボルンに向かったのである。

注5:落ち延びた平家の残党平維盛(たいらのこれもり)を探して、奥さんの内侍(ないし)と息子の六代君(ろくだいのきみ)が小金吾に守られながら街道の茶屋に立ち寄る場面。ワケありの一行であることを気づかれた人物から二十両を巻き上げられた上に、追っ手に捕まって二人を逃がす間に小金吾が決死の立ち回りをして絶命する。
注6:例えば『身分的周縁と社会=社会構造』(吉田伸之、2003)参照
注7:David C. S. Sissons, “Japanese Acrobatic Troupes Touring Australasia 1867-1900”, Australian Drama Studies, vol. 35, 1999

ブヒクロサンの一座

タスマニアには行かなかった一座

 一方、オーストラリアに一番乗りした後、ほぼ同時期にオーストラリアとニュージーランドを回っていたタンナケル・ブヒクロサンのロイヤル・タイクーン一座の方は男女3名ずつの少人数だけにそれぞれが色々な芸を持っていたようだ。ただ、何故かタスマニアには行っていない。
 プログラムでは最初にブヒクロサンが日本の風俗習慣などについて解説を行っているが、そこでは既婚女性がお歯黒にしたり眉を剃り落す意味や、未婚・婚約後・既婚によって髪型を変えることを説明したり、家の中での立ち居振る舞いを女性陣が演じて見せるなどを行い、どこでも興味津々で受け止められたようだ。曲独楽やバタフライ・トリックもレパートリーにあったが、独楽を糸の上を渡す芸では回転する独楽を三段重ねで移動させてみせ、バタフライ・トリックでは演技を終えてから種明かしまでやるなどレントンの一座のそれらとは違った内容だったようだ。
 女性陣も三味線を弾き、歌って踊って活躍するが、全体として一番注目されたのは様々な曲芸や軽業芸を演じたHeconuske(彦之助?)が演じた三本の矢を使って3本の細いローソクの火を次々と消す技で、最後には客が頭上に掲げたローソクの火を演者が股下から放った矢で射落す芸であった。「日本のウィリアムテル」と番組に出ているのもうなずけるところである。そしてニュージーランドのウェリントンでこれを演じた時の記事に気になることが記されていた。演技のあとで演者は協力してくれた勇敢な客をその場に引き止めて、彼が着ているベストを手にしたと思うと上着を脱がせることなく裏返しにして見せ、客は当惑の表情を浮かばせながら座席に戻ったと記者が面白おかしく綴っているところがそれである。

ベスト・ターニング

 脇道にそれるが、ここで注目されるのはVest Turningというトリックを日本人が演じたということである。これは「上着はそのままでその下に着ているベストを裏向きにする」というトリックであるが、古い記述をたどっていくと1907年にDavid P. Abbottが著した"Behind the Scenes with the Mediums"にあるのが最も古く、それによれば霊媒ショーで好んで演じられていたとされている。即ち、上着をはおった状態の客の両手首をロープで縛った上でキャビネットに閉じ込めると、数分後にベストだけ裏返しに着せ替えられた状態になっているというもので霊媒の仕業であることを演出した演技である。

Wellington Independent紙に記されたVest Turning(1868年5月5日)
Wellington Independent紙に記されたVest Turning(1868年5月5日)

 ブヒクロサンの一座の芸人がこれを演じたのはそれより40年近く前になるのでここでの演技は非常に大きな意味を持ってくる。ちなみに上着を着たままベストを脱がせる(上着の下で裏返しにするのではなく)というパズル的なトリックはMagician's Own Book(W. H. Cremer, 1871)にあるが、こちらの方にしても彼の演技よりも後のことである(注8)
 このトリックはトポロジーの原理を使うものであるが、開国直後のこの時期に日本人芸人が演じていたとなると、可能性としては江戸期から一部の芸人や愛好家には知られていたか、出国以降の巡業中のどこかで交流した西洋人に教えてもらったかのいずれかということになってくる。ただ、これを演ずるには袖口が大きく薄手の生地のうわっぱりの方がやりやすいため法被(はっぴ)とか袢纏(はんてん)のような日本古来のものを使う方が容易なのである。また引用した記事の中の ”A performer turned his waistcoat inside out without taking off his coat.”という表現も若干曖昧である。文末のhis coatというのがベスト(waistcoat)の上に着た上着(coat)なのか、それともwaistcoat自体のことを言っているのかハッキリしないからである。もし後者であれば単にベストを裏向きにひっくり返した現象だったことになる。仮にそうだとしてもそのような現象はその頃までに出版されたどの文献にもいまのところ見つかっていない。
 ここでは参考までにお座敷芸として「綿入れ(袖なしのチョッキ)」を来た客人を相手にしてこのトリックを見せる場合のやり方を示しておこう。
 まず、前の左右を紐やボタンで閉じていたらそれを外してもらう(実は外さなくともできるがこの方がスムースにできる)。演者は客の背後に回って客の両手首を後ろ手にビモで縛って、これでもはや綿入れは脱げなくなったことを強調する。その後、客人の肩から綿入れを後ろ側に外し、両腕を伝って手首のところまですべり落とす。綿入れ全体が両手にかかった状態のまま片側の袖の穴から他の部分をくぐらせると(衣類を裏返す要領)全体が裏向きになるので、その状態で再び両腕を滑らすように肩まで引き上げて着せるのである。背後で何が行われたかわからない客人は裏向きに綿入れを着せられたのを知り当惑するという次第である。
 マジックの起源に関する新たな謎が浮かび上がってきたエピソードであるが、いずれは真実が明らかになるのではないだろうか。

注8:さらに遡ると「上着の下のシャツを脱がせる」というトリックが1700年代のAmusemens Physiques (Pinetti, 1784年)やThe Conjuror's Magazine (1791年8月号)にあるがこれらはほとんど実現不可能といえるほどの扱いを要すばかりか裏返しの現象とは異なったものである。また比較的よく知られている現象として上着の下に来ているシャツを一気に引き抜くコメディ芸があるがこれも初見はMartin GardnerがHugard's Magic Monthlyの1957年3月号に紹介したもので、やはり裏返しにする現象ではない。

ヴェルテリの日本行きを触発したブヒクロサン

 もう一つタンナケル・ブヒクロサンの一座で特筆すべきことがある。開国後日本に来て寄席で初めて西洋手品を演じたマルコム(豪州で活躍していたときはヴェルテリの芸名で活動)と一時期共演していた事実である(注9)。当時のヴェルテリは綱渡りで有名で本拠地のアドレード周辺で活躍していたが、芸風が全く違う日本人の一座が来たのを知って共演を持ちかけたという経緯だったようだ。
 両者は1868年の7月8日から4日間共演し、その後日本人の一座は一旦近郊を巡回するが、再びアデレードに立ち戻ると今度は7月20日のヴェルテリのさよなら公演に友情出演するというような付き合いが続いた。そしてその交流がかなり親密であったことがわかるのは、その一ヶ月後の8月22日にメルボルンに向かう途上のヴェルテリがペノラ(Penola)の町の興行で、バタフライ・トリックや独楽の糸渡りや刃渡りを自身の演目に加えて演じていたからである。
 ヴェルテリが日本に来たのは1875年(明治8年)であるから、来日までにはこの時から7年の歳月を要することになるが、それまでに結婚し、腹話術や多数のマジックをレパートリーに付け加えて満を持して日本に向かったのである。後年ブヒクロサンはイギリスに渡って日本の芸人の技を広く紹介することになったため日本に戻ることはなかったが、入れ違いに日本に来ることになる西洋手品師ヴェルテリとこの時オーストラリアで親しくなっており、彼の日本行きを触発していたことは興味深い。(注10)


ヴェルテリとブヒクロサン一座の共演 ヴェルテリが演じた日本の芸
ヴェルテリとブヒクロサン一座の共演
South Australian Register 紙(1868年7月10日)

ヴェルテリが演じた日本の芸
Border Watch紙(1868年8月22日)

注9:開国後初めて来日した西洋手品師はドクター・リンであるが、彼の場合は横浜の居留地にあったゲーテ座に数日現れただけであり、またその時の観客は大多数が西洋人であった。それに対し、マルコム(ヴェルテリ)は一年近く東京の寄席を中心にその芸を披露しており、一般的にはこのマルコムこそが初めての来日西洋手品師として日本芸能史には記憶されている。
注10:ヴェルテリやブヒクロサンの生涯については「実証:日本の手品史」に詳述した。

レントンとスミスの一座との興行方針の違い

 ただ、二つの一座の評判を見ていくと、総合的にはレントンとスミスの一座の方が一枚上という印象を与えたようだ。確かにドラゴン一座は綱渡り芸をはじめ多彩な技の持ち主だった勝次郎を中心に12人もの芸人を擁しており、梯子などを使った大技を駆使する軽業芸もあれば、歌舞伎の一場面を演ずるなどバラエティに富んだ演目を用意することもできた。これに対し、ロイヤル・タイクーン一座の方は6人の小所帯で、それも半分は女性だったため観客の目には見劣り感が否めなかったのではないだろうか。
 もう一つの大きな違いは一座の運営方法である。レントンとスミスの一座ではスミスが興行主(金元)、レントンが座主、カービィが通訳、増鏡磯吉が日本人のリーダーと組織的に役割分担がなされていたのに対し、タイクーン一座の方はG.ギブソンがエージェントとして同行したものの、ブヒクロサン自身が興行主・通訳・日本人のまとめ役を兼ね、更に出演者として舞台に立つなど一人四役をこなすという違いがあった。とはいえその分タイクーン一座の方が経費はかからないため興行収益面でどちらがより大きな成功をおさめたといえるのかは定かでない。
 以上の観点からオーストラリア演劇史ではレントンとスミスの一座の方が重要な意味を持っていたと思われるが、視点を日本の演劇史に置き換えるとその評価は必ずしも正しくない。それは彼らのその後の動きを知ることで理解できる。実は、ブヒクロサンの英語はそれほど流暢だったわけではなかった。そのことはニュージーランドの記者が「日本人だとしたらこれだけ英語が話せるのは注目に値する」と感想を記していることからもわかるが、1年に及ぶ経験を経て彼の英語力は確実に上達していた。そしてそれ以上に大きな収穫となったのは、一人で四役をこなしていたがために外地での興行ノウハウや劇場との交渉術などを幅広く会得できたことである。それがためか、レントンとスミスの一座が契約の終了とともに日本への帰国をしたのに対し(帰路は通訳のみ同行)、ブヒクロサンのロイヤル・タイクーン一座は一足先にオーストラリアを離れ、宗主国で興行先進国でもあった英国へと転進する決断ができたのである。そして英国に行った後は、一足先に英国に来て前途に不安を持っていた他の日本人芸人の面倒を見たり、長期の日本人村博覧会を開いたりと以降二十年にわたって日本の存在のアピールに向け大活躍することになる。
 いずれにせよ当時興行地として外すことは考えにくいタスマニアの地をブヒクロサンの一座は訪れていない。そこまで足を延ばすことなくレントン一座より四か月も早くオーストラリア巡業を切り上げたのは、女性座員のオタケサン(Otakesan)が妊娠し出産が迫っていたことが関係していたと見られる。臨月を控えていた座員を抱えていたことから英国に転ずるタイミングを早め、10月初旬のシドニー近郊での興行を最後に英国に向かうと、ブヒクロサンの伴侶となるオタケサンは到着後まもない2月7日無事に出産する。そしてその直後、2月15日にはリバプール近郊のプレストンで興行の初日を迎えるという強行軍をこなしたのである。

柳川長七郎の一座

不思議な動きをした日本人一座

 これらとは別に1873年8月はじめにシドニーに到着し以後オーストラリアとニュージーランドを回った総員13名の日本人一座がいた。この一座のリーダーは柳川長七郎(当時53歳)で、彼は現地の新聞や広告にその名がYanakawa Echowsi(スペル違いも散見)として出てくることからもわかるように柳川一蝶斎(三代目)を自称した人物で、柳川一門のお家芸である「蝶」の使い手であった。彼らの足取りはシソンズ教授(David C. S. Sissons)の先行研究で明らかになっているが、この一座は前述したレントンとスミスの一座やブヒクロサンの一座とは全く異なる動きを示していた。
 シソンズ教授の研究で明らかにされていたタスマニアでの興行日程によると州内で二番目に大きな町のローンセストン(Launceston)に最初に入り1874年1月19日から三週間程の興行を終えると、一気に南下してホバートに向かった。ところが何故か市内に直行することはなくグレーター・ホバート(20万人超とされる現在のホバート市)の域内にあるOatlandsを手始めにKempton、Bothwell、Hamilton、New Norfolk、Brighton、Richmond、Sorellといった周辺の町を毎日のように移動しながら二月末までまわり、ようやく3月2日になってホバートの中心部に向かいその後そこで演じていた。ただここで不思議なことがある。あのTheatre Royalには何故か現れていなかったのである。

長七郎の一座が訪問したホバート周辺の村(アンダーライン)
長七郎の一座が訪問したホバート周辺の村(アンダーライン)

 どうしてこのような不思議な行程を選んでいたのかその手掛りが得られないものかと今回の調査を機会にその周辺地も立ち寄ってみた。実際に行ってみて驚いた。なんとOatlandsもRichmondも劇場はおろか演芸が出来るような集会場なども見当たらない至って小ぢんまりとした集落で、最新の国勢調査をみても540人とか880人といった規模に過ぎない小さな村だったのである。
 ただ歴史的に見ればRichmondもOatlandsもタスマニアの二大都市であるホバートとローンセストンを結ぶ街道筋に出来た町で当時は今よりも人口は多かったとされ、前者には1832年に流刑囚の手で建造されたオーストラリアで最も古いRichmond Bridgeという石橋がいまなお健在で自動車が往来し、また後者には1837年に建てられ現在では南半球で唯一の現役風車であるCallington Millという粉引き用の風車が当時の姿を忠実に再現して稼働していた。実際、ホバートとローンセストンを結ぶ道は現在Heritage Highwayと呼ばれ、いまなお往時を伝えてくれる史跡の地に沿って南北を貫く主要幹線となっている。

当時を伝えるOatlandsの風車 Coal Riverに架かるRichmond Bridge
当時を伝えるOatlandsの風車

Coal Riverに架かるRichmond Bridge

 長七郎をはじめとする日本人一座が見たはずのこれらランドマーク的な建造物をいまなお目にできるのは奇跡に近いものがあって感無量であったが、当時実際にどれほどの客が集まったのか、そしてそもそもどこで演じたのかなどむしろ謎が深まることになった。ところが更に調べてみたところ、なぜ劇場がないような場所を転々と移動しながら興行が出来たのかその理由がようやくわかってきた。

サーカス一座として回った日本人

 実は、彼らは当初から他のアクロバット芸人や曲馬師らと一緒にサーカスの一団を組んでおり、それがために屋外にテント(キャンバス)を張ってその中で演じていたのである(村から村へと毎日移動するような日程の場合は、テントを張ることもなく野外で演じた可能性すらある)。そしてホバートでの興行場所には、かつてレントンとスミスのグレート・ドラゴン一座がヴィクトリア女王の誕生日に勢ぞろいしたクリケット広場の一角が充てられたのである。総勢40人の一座であった。
 さらに驚いたことには、日本人のグループは日本人一座として宣伝されることは一度もなく、Siamese Juvenile Troupeの名の下で演技しており、またサーカスの一団全体としてはSiamese and Asiatic TroupeとかSiamese and European Circusという名で巡業を行っていたのである。ではなぜSiameseなどという珍奇な名前を付けられたのであろう。
 推量ではあるが、数年前に各地を巡回していた日本人の一座がいまだ記憶に新しかったため二番煎じの印象を避けるべく興行師が目新しさを狙ってタイ人(Siamese)の一座を装った可能性が一つ考えられる(注11)。ただもしそうだとしても何故タイなのだろうか。行き着いたもう一つの推論は、高いところから飛び降りて身軽に着地する軽業芸人を、器用に身を翻して着地する猫の動きになぞらえて、シャム猫の一種であるSiamese Juvenileの名をつけたという推論である。いずれにせよ日本人であることを謳わなかった以上、彼らは「ちょんまげ」で演じることは一度もなかったに違いない。折しもこの時期日本では断髪が許されたばかりで従来の一座のように「ちょんまげ」で演じなければいけない必要性はなくなっていた(注12)
 いずれにせよ彼らは日本人(Japanese)であることは敢えて伏せたまま各地を巡ることを強いられることになった。そのことに彼ら自身がプライドを傷つけられていたかどうかはうかがい知れないが、そもそもSiameseの意味も分からず座名などには無頓着だった可能性もある。ただ、新聞記事には、彼らの演技は全般的に好評だったことが報じられており「日本人」を売りにしなくとも高い評価を得ていたことは特記しておきたい。一方「以前やってきた日本人一座と同じものだ」とか、「日本人の若者が」という演技評がマレに見られるのも興味深いところだ。

ホバートのクリケット広場の興行(1874年3月3日の広告:上下2分割)
ホバートのクリケット広場の興行(1874年3月3日の広告:上下2分割)

 サーカスの一座として扱われたこととは別に、更に日本人芸人にとって予想外だったのは興行主が頻繁に変わって振り回されたことであった。実は、一座の興行主は横浜で一時期事業をやっていたトーマス・キングという人物で、彼の夫人と通訳役の子供も同行していたが、シドニー入港直後にキングは以前の債権者から訴訟を起こされ、これがしばらく彼の悩み事としてつきまとうことになった。また初期の興行地での費用が思いのほか嵩んだことから興行主としての持分の半分を途中でアンダーソンという人物に売却せざるを得なくなって、タスマニアに現れた時はキングとアンダーソンの一座と銘打っている。ホバートでの広告を見ても、クリケット広場にマンモス・パビリオンを設置し、その興行はKing and Anderson’s Siamese, Asiatic and European Companyと銘打たれており、その名の下で太神楽曲芸の粟田勝之進(Hawata Catshenoski)や蝶の手品の柳川一蝶斎(Yanakawa Echowsi)などが出演していたのである。
 そしてニュージーランド遠征で更に損失が拡大すると、全興行権や日本人と結んでいた契約を地元の事業家であるボースウィクに売り渡し、キング自身は責任者から身を引いてしまうのである。興行主が変わったことで日本人は「これでは安心して演技ができない」と出演をボイコットするという事件も起き、この辺から不満や不安を抱いた日本人は徐々にまとまりを欠くことになっていく。

注11:正確には、もう一つ米国での巡業をしたあと1870年暮れにオーストラリアに回ってきた薩摩一座というのがあるが、ここでは省略する。
注12:明治4年8月9日に発布された太政官布は一般に断髪令と言われているが、実際には強制ではなく「散髪の許可」となっていた。彼らが横浜を離れたのはそれから一年余たった明治5年10月で、インドを経由してシドニーに向かった。

演じていた「籠脱」と「空中ブランコ」

 ところで、彼らの演目で注目されるのは、江戸時代から見世物芸として演じられていた「籠脱(かごぬけ)」を披露していたことである。そのことはTimaru Herald紙の1874年5月27日の記事や1875年4月9日のBunyip紙の記事にあり、例えば後者では「寅吉が火のついた12本のローソクを籠の周りに置きその中を火が消えないように飛び抜けた(Tora Ketchi distinguished himself by jumping through hoops, and also through a wire tunnel with twelve lighted candles at intervals without extinguishing one.)」と記されている。この技は正徳年間の版本である『和漢三才図会』にすでに記されているもので、それによれば、

按に籠脱は古へは未だ之を聞かず、近年の練磨なり、もと高絙より出づ、甚だ軽捷なり、延宝年中[1673-1680]長崎より来る、小鷹和泉唐崎龍之介といふ者あり、二人始めて大坂に於て此技を為す、見る者驚感せずといふ事なし、竹籠口の径し尺半、長さ七八尺を用ゐ、(ダイ)の上に横たへ、高さ五六尺、而して菅笠を(カツ)き、走跳して籠の中を潜り出て地に立つ、その笠は籠の口より大なる事二寸余り、又輪を空に釣り、輪の中に蠟燭を燃し、人其輪を潜りて火滅せず、或は刀鋒(タチノキッサキ)を輪の中に樹て、其輪飄風(フラツ)く定まるを待って輪と鋒との間を潜る、或は輪五六個を以て空に懸く、相去る事各尺許り、高低等しからず、形蟠龍の如くにして、走跳して悉くこれを抜く、其後軽業の人亦乏しからず。


 とあって、そこにはナイフやローソクを籠の周囲にさした状態で飛び込む演出についても記されている。幕末のエーメ・アンベールの滞在記にも描かれているが、これが世界に広まったのはこの時寅吉(星野寅吉)が演じて見せたことが関係している可能性もありそうだ。

アンベールの『幕末日本図絵』に描かれた籠脱
アンベールの『幕末日本図絵』に描かれた籠脱

 もうひとつはホバートのクリケット広場で興行中の1874年3月16日、一座の女性座員が初めて空中ブランコ(trapeze)を演じてみせたことが特筆される。実はこの混成一座にはヨーロッパの芸人による空中ブランコが組み込まれていたが、サーカスの馬場では不利な演目が多い日本人の目には新たに取り組む分野として魅力あるものに映ったに違いない。それが原因かどうかはともかくとして、この時日本人が空中ブランコ乗りとして初めて観客の前に現れたのである。西洋生まれの空中ブランコに初めて挑戦することになったその日本人は寅吉の娘の「しつ」で、当時の年齢を旅券申請時の6歳から推し量るとせいぜい8歳に過ぎない少女であった。
 一方、毎回バタフライ・トリックを演じていた長七郎もホバート公演中に新しい出し物を披露したようだ。3月9日の広告に”Eshowskie, the Great Illusionist, in New Acts, introducing the Fire and Transformation Scene”と出ているのがそれである。ただ、火を使った変化現象というだけではどういう手品だったのか判然としない。記事の中でも話題になっていないことからあまり大きな印象を与えなかったようだ。
 そして横浜を出て二年経った1874年(明治7年)10月、契約期限がきたのを機にリーダーだった長七郎は一早く帰国の途についてしまう。残された座員の半分は新たな興行主の元で巡業を続ける道を選んだが、他の6人は独自の道を歩む決断をし、それ以降数奇な運命をたどることになるのである。彼らの中で歴史に大きな足跡を残すことになるのは太神楽曲芸師だった粟田勝之進である。この人物は現地の女性と1875年に結婚したあと、世界を巡業するサンガー・サーカス(Sanger’s Circus)に参加するが、米国に渡ると当時米国を代表する有名な奇術師アレクサンダー・ヘルマンの一座で活躍する。その後はさらに英国にも行くなど世界で活躍した太神楽曲芸師の先駆者となった。

 新しい興行主の元で巡業を続けることになったグループはその座名をブヒクロサンが以前に使ったRoyal Tycoon Troupe of Japaneseの名をとってようやく日本の名を前面に打ち出すことになったが、The Great Asiatic Circusの看板の下での興行を続けるのである。

Great Asiatic Circusのポスター (Adelaide)
粟田勝之進、Dr. Robert H. Sayers’ Collection
粟田勝之進、Dr. Robert H. Sayers’ Collection

Great Asiatic Circusのポスター (Adelaide)

 話がタスマニアのTheatre Royalから離れてしまったが、実は彼らはホバートにもう一度舞い戻っており、その時はじめてTheatre Royalにお目見えしている。それは長七郎が帰国した後のことである。Great Asiatic Circusとして再度ホバートのクリケット広場に来て演じていた1875年8月19日、テントが突風に煽られてキャンバスがリボン状に裂けたためやむを得ず続く5日間はTheatre Royalに移らざるを得なくなったのである。テントより狭い舞台だったこともあってこの間は日本人だけが出演して急場をしのいだことが報じられている。ちなみに、この時の一階部分は以前とは違って立ち見はすでになく、すべてが椅子席になっていた。またテントの補修を終えて再開したあとの9月2日、こんどは放火とみられる火災によって天井を含むキャンバスのかなりの部分がやられるなど、サーカスにはサーカスなりの様々な苦労に巻き込まれていたのである。

現代にも通じる彼らの体験

三座の成功の要因

 タスマニアで当時の姿を今日に伝えてくれるTheatre Royalを訪問できたのをキッカケとして更なる調査を進めてきたところ思いのほか多くの事実が明るみになった。これらを改めて眺めてみるととても重要なことが読み取れる。
 見てきたように、渡航した三座はそれぞれかなり異なる体験をしたものの、いずれも各地で大いに評判となって日本の名を高らしめた。オーストラリアの各地ではそれまでに伝えられていた未知の日本という国に対する興味や(注13)、連日の新聞報道に引き寄せられて足を運んだ人も多かったことは間違いないところであろうが、だからといって珍しい国から風変わりなものを持ち込めば客が簡単に集まるというほどこの世界は生易しいものではない。それは数々の見世物や芸能興行の事例を調べていくと明らかである。
 いうまでもなく彼らが持ち込んだ軽業芸や手練芸は、江戸時代の盛り場などで民衆の厳しい評価を受けながら演出や技に磨きをかけてきたもので、一朝一夕で出来上がった即席の演芸ではなかった。だからこそ風変りな風俗の演技集団というイメージでとらえられることなく西洋の観客を沸かし驚かすことが出来たのである。実際、現地の新聞記事には日本人の独特な服装や髷(まげ)を話題にしているものがほとんどないのはそのことの表れといっていいだろう。これは古今東西の芸能興行の本質でもある。
 当然ながら彼らの芸が当時もてはやされたからといって単純に今日リバイバル興行してもヒットするものでないことは言うまでもない。長年の練磨に裏付けられた技芸に様式美を兼ね備えた大衆芸能として当時の日本で人気があったのである。蛇足ながら、民衆の感性から徐々に外れて忘れられていく芸に関し、伝統芸であるとして芸能文化振興行政の支援を期待する向きがあるが、それがひとたび補助や奨励制度に頼る芸になってしまうとそれは金を払う観客(パトロン)がいなくなったことを自認することと大差なくなる危険をはらんでいる。一旦すたれた手妻の「万倍傘」が島田の手でそのイメージが大きく変容して世界に広まり今や多くの人がレパートリーに加えているのを見ると、昔評判だった芸というのもその本質を見極め変質させていってこそ将来につながる道が見えるということを改めて教えてくれる。和妻を演じようとする人は心すべきことであろう。

注13:日本人一座が初めてオーストラリアに現れた1867年11月に先駆けること10年近く前から日本の曲独楽やバタフライ・トリックは広く世界に伝わっていた。古くはタウンゼント・ハリスが見たこれらの芸の印象が1858年暮れには各国の新聞に報道され、更に日英修好通商条約の交渉に随行して来日したシェラード・オズボーンによるバタフライ・トリックの詳細な描写も1859年5月の英誌に出るや否や世界の主要な新聞紙面に転載されていた。

現代のアーティストへのメッセージ

 もう一つ興味深いのは、プロのアーティストが海外で活躍しようとする場合の色々なパターンをこの初期の三座がすでに経験していることである。これは今日の我々にも多くのヒントを与えてくれる。例えば、レントンとスミスの一座では寄せ集めとはいえ全員が日本人で、予定通り二年後には無事日本に帰ることができた。言ってみればプロモーターが主導し、日本人一座を丸抱えにした上で数年間仕事を与えてくれたということである。ただ、今日では、ある程度の人数規模の座員をかかえながら数年に渡って海外で巡業するような興行形態は興行主の目から見ると収益の見通しが立たないためもはや望むべくもない。天一の時代はともかく、世界的に見てもサーストンやブラックストーンの一座のように多人数の集団を引き連れての永続的な興行は絶えて久しくなっている。
 これに対し、他国の芸人と一緒になってサーカス団に組み込まれた長七郎(一蝶斎と自称)の経験は一見特殊な事例のように見えるが、興行する立場からいえば、演者の国籍や演目を固定せずいろいろなパフォーマーを随時組み替えられる柔軟性がある。その分リスクを分散できるメリットがあり、時代を超えて今日でもよく見られる。古くは、世界大魔術団の名のもとに種々のマジシャンを編成して巡業した例などもあるが、マジック以外でも20年に渡って興行を続けるシルク・ドゥ・ソレイユの公演には世界のパフォーマーが参加し常時入れ替わりが行われているのは良く知られ、近年では日本人も加わっている実態もある。
 ところがマジックの世界では、この種のチャレンジは意外に少ない。むしろ最近では外国で開かれるマジックコンベンションでコンテストに出たり、マジック・キャッスルやマジック・サークルのようなマジック関係のクラブに出演したりする方が一般的な登龍門のように思われている。ただこのやり方は奇術界での認知度を高めるには大いに意味があるものの、ショービジネスにブッキングされるのはごく限られたトップの一部だけというのが実情である。
 結局のところマジシャンとして身を立てるには、昔も今も、芸能興行に携わる関係者の目にとまるような活動を幅広く行い、その実績を元に自身を売り込んでいくなり目をとめてもらうなりの積極的なアプローチが必要なのである。長七郎の一座で現地に留まった芸人がその後それぞれ独自の道を切り開こうと覚悟を固められた背景には、それまでの巡業経験から自分の持ち芸が海外でも通用するという実感があったからこそであり、加えて現地の興行関係者や興行事情を見聞きする中で次なる仕事を見つける手段やアテが多少なりとも見えてきたからであろう。彼らの足跡をこれ以上紹介するのはスペースがないので割愛するが、当然のことながらうまく行く人もあれば、夢がついえる人も多い。ただ、世界で活躍して歴史に名を残したいままでの日本人手品師はいずれも海外に一歩踏み出したことをきっかけに、その機会をとらえて独自の道を歩み出そうと決意することが出来た。何事もまずは踏み出さないと始まらないのはどの世界でも同じである。
 天一一座からスピンアウトして現地に残った高瀬清、軽業一座として飛び出しその後マジックで身を立てたK. T. クマ、日英博覧会に参加しそのまま現地に踏みとどまった小天一、天勝一座が帰国する際に離脱して米国のショーマンシップを学び独自の芸を完成させた石田天海、そして豪州行きを転機にそこから欧米に歩を進め独創的なスライハンド・イリュージョンを完成させた島田晴夫など、いずれも似たような経緯をたどって人生を切り開き成功を収めることができた。ハングリーな時代だったからこそできた無謀とも思えるチャレンジではあったが、開国以来志ある一握りの人のみが実践し成功につなげることができた勇気ある飛躍であった。

新しい巡業形態のきざし

 そんなことを考えながらタスマニアから戻ったシドニーで目を見張るものがあった。今までとは一味も二味も異なるマジックの興行があったのである。各国から一流のマジシャンを集め、世界遺産になっているシドニー・オペラハウスを舞台に「イリュージョニスト」というショーが行われたのである。

The Illusionistsの面々
The Illusionistsの面々


 4つの劇場の複合体であるオペラハウスの中で最も大きな2,700人を収容するコンサートホールに現れたのはいずれも単独で興行できるような第一級のトップマジシャンばかりで、Dan Sperry, Andrew Basso, James Dimmare, Brett Daniels, Kevin James, Philip Escoffey, Jeff Hobsonといった面々が起用されたものである。米国中心ではあるが英国やイタリアのマジシャンが加わっているのが特徴となっている。もちろんそれぞれの持ち味が発揮できるようなショー構成になっていて10日間にわたる興行は数日前にはすべて完売となり成功裏に終わったのである。この取り組みはその後米国のマジック専門誌MAGICの2012年3月号にA League of Illusionistsとして取り上げられている。
 このショーは引き続きシンガポールに興行地を移し、そこでも2月から3月にかけて3週間の興行を成功させている。更に予定としてはリオデジャネイロ、東京、ドバイ、ロンドンを順次巡っていくと言われており、2年にわたる最後の興行はラスベガスで行う計画のようだ。ただ、いずれの出演者も将来にわたってブッキングがアチコチに入っている実力者だけに計画通りにいつも全員が揃うとは限らないという難しさもあるようで、二年間常時行動を共にする従来タイプの巡業とはかなり性格を異にしている。いずれにせよこの成功を目の当たりにした関係者の中から今後装いを大幅に変えた新たな巡業スタイルのショーを模索する動きが増えてくることを感じさせてくれるものであった。

おわりに

 今回、図らずも、150年を隔てたそれぞれの時代の代表的な二つの劇場を訪問でき、そこに現れた巡業一座の詳細を追うことができた。特にホバートのTheatre Royalとその周辺地を巡って往時の日本人一座の日々を追体験した結果、いままで不可解に思っていたそれぞれの行動の違いなどがようやく納得できるようになり、現地・現物に則した調査の重要性を改めて確認することにもなった。

Theatre RoyalのMaria Pateさんと著者
The Illusionistsの初演地となったシドニーのOpera House
The Illusionistsの初演地となったシドニーのOpera House

Theatre RoyalのMaria Pateさんと著者

 また、彼らの行動から垣間見られたバイタリティや志は、これから世界的な活躍を目指そうとする人に対して普遍的な成功への道筋を暗示してくれているように見える。チャンスを逃さず海外行きの切符を手にし、更にその機をとらえて現地で独り立ちの道を歩み始めるというスタイルがそれである。数えるほどしかやってこないチャンスは誰もがつかめるものではない。いつその機会が訪れてもそれを掴みに行けるだけの準備ができているものだけにしかその可能性が訪れないのはいうまでもない。
 テレビやネットがなく自分を知ってもらえる機会に乏しかった開国直後の芸人といえども外国人の目にとまるだけの実力があったからこそ飛躍のチャンスを掴むことが出来た。情報が溢れ、自らYouTubeで名を広めることができる現代のマジシャンとなれば常に世界にアンテナを張って自身の存在を外に発信していくことは遥かに容易になっているに違いない。そんな思いを抱かせてくれる今回の追体験となった。

[2012-4-25記]