松山光伸

西洋人が耳にした初めての日本の音楽
第1回

 もともと音楽に造詣が深いわけでもない私がこのテーマに少しずつ引き込まれていったのには訳があります。初めて日本を飛び出した芸人一座には、軽業・手品・独楽などを見せる主役以外に伴奏として三味線が付き物で、1868年前後の現地の新聞評を見ると西洋人の観客には耳障りに聞こえたことがアチコチに記されていることに気づきました。
 一方、初めて来日した西洋マジシャンとして知られるドクター・リン(Dr. Lynn、当時の名はワシントン・シモンズ:Washington Simmons)が1863年に長崎に降り立った際には、西洋人ピアニストも同船していて初めて西洋音楽を伝えていることを知りました。日本人は彼の軽快な曲と指さばきに驚かされましたが、彼自身も日本の曲に大いに興味を持って採譜を行いコンサートに取り入れていたことがわかったのです。
 その後1885年にロンドンで開催された「日本人村博覧会」では宣伝のためのテーマソングが街中で流されていたことを知り、また同年に開演になった日本をテーマとした初めてのオペレッタ「ミカド」ではその中で日本の曲が一部に使われる等、当時の音楽事情が見えてきたのです。
 今回は、マジック史を調べる過程で分かってきた開国前夜からのこれらの西洋との音楽の関わりやそのメロディーなどについての話です。従来の音楽史研究で明らかになっていなかったことが中心になりますが、まずは1885年のイベントに使われた曲から、順次一次資料に基づいて史実を遡っていくことにします。

1885年のジャパニーズ・ビレッジで流れた「日本人の歌」

 明治18年(1885年)1月10日、ロンドンの中心街のナイツブリッジで大々的に開かれた日本人村博覧会(Japanese Village)の宣伝歌を見てみましょう(注1)。この博覧会は、日本政府の肝いりで行なわれたものではなく個人の興行師によって開催に漕ぎつけたもので、初代駐日英国総領事だったラザフォード・オールコック(John Rutherford Alcock)の私的後援も得ながら開場したものでした。日本から約100人にのぼる職人・工芸人、芸人、女給などを呼び寄せ日本の町を再現して紹介するという大胆な試みがなされたのです。
 これによってイギリス人はそれまでは日本から送られる英字新聞でしか知ることができなかった東洋の評判高い異文化に直接接することができ、その精微な工芸品や全く違う風俗文化を目にした記者の記事や来場者の口コミが評判を呼んで博覧会はかなりの成果をあげることができたと伝えられています。本物の日本人を呼び寄せて日本の町中の様子を再現するとともにそこで働き生活する生の日本の風俗や技芸や工芸を紹介するというこの壮大な構想は、日本人とオランダ人の血を引いていると自称するタンナケル・ブヒクロサン(Tannaker Buhicrosan:田中武一九郎)が実現したもので、彼によれば20年間にわたってアイデアを温めてきたものでした。


 そして開場直後には、ロンドンの劇場街にあるサヴォイ劇場(Savoy Theatre)でオペラ「ミカド(Mikado)」が開演になり、その評判と相まってジャポニズム(日本ブーム)が一層広がることになりました。
 実は、日本人村博覧会の興行に際して作られた曲があります。何と“Nipongein Song”(日本人の歌)というものでした。その音曲に触れる前に明治17年7月26日の郵便報知新聞が伝えるタンナケル・ブヒクロサンの現地での活動の様子を見ておきます。

 日本風俗博覧会  長崎神戸の両港に久しく在留して日本の風俗を熟知せる蘭人タナルカという者は先年中日本の女を迎えて妻となし何か日本の風俗上の事を以て奇利を得んと工夫を巡らせしすえ、その髪を蓄えて頭を野郎に剃り丁髷を結うてタナルカのルの字を除きて田中と名乗り自ら日本人の如く扮し人力車夫、瞽女、按摩、願人坊主等賤業の者数名を雇入れその見苦しき風俗のまま自ら率いて英国に渡り、昼は一同と二三輌の馬車に乗せ分らぬ歌を謡わせながら太鼓を打ち囃して繁昌なる市街を乗回しその評判をとり、夜は種々訳の分らぬ日本風の芸尽くしを演せしめしに奇を好むは世の人情なれど市街一般大評判となり何所に於いても大当りを取り意外の大金を得にければ、田中は得たりと同志数名と謀り一の会社を組立て日本風俗博覧会と号し日本にて各種の賤業を営む下等人民百名程を雇入れその見るに堪えられぬ風俗等をそのまま見世物にせんと企てその会場を倫敦在の某村に設くる事を決せしかば、右見世物に適すべき日本のがらくた人物仕入れのため、右会社員が近々日本へ向け出発する由なるが、誠に苦々しき次第なりと、在英国の社友某より通信の端に記せり。


 ここに出てくる日本風俗博覧会というのがJapanese Villageです。記事は現地に在住していた某(なにがし)が感じたネガティブな印象をそのまま報じたものにすぎませんが、この文面のおかげでタンナケルは興行に際し、馬車に乗って太鼓やお囃子を鳴らしながら歌を謡い耳目を集めるバンドワゴン(bandwagon)での宣伝を前々から行っていたことがわかります。以下に紹介する“Nipongein Song”を所蔵していた大英図書館(The British Library)の書誌によればこの楽譜は1884年のものとなっており、まさに翌1月に開場となるジャパニーズ・ビレッジ(Japanese Village)のために作られた曲であることが確認できました。作曲はタンナケル・ブヒクロサン本人です。 一体、どんな曲だったのかどうしても聞きたくなり、何人かの方に弾いていただき聞き比べてみましたが、ここではイギリスの友人であるジョン・クロッカー(John Crocker)が送ってくれたものを紹介することにします(唄付き)。正直なところ最初にこれを耳にした時、その軽快なリズムとメロディーにはとても驚かされました。当時のミュージック・ホール(米国でいうところのヴォードビル)で流行していた風刺曲に相通じるものを感じたからです。

Nipongein Song

 

 その歌詞にも驚かされました。耳にする聴衆はイギリス人ですから当然英語でなければなりませんが、日本人や日本の生活様式を熟知した上で、あくまで外国人の目から見た面白さを歌い込んだものになっていたのです。かなり長い歌詞ですが全文を紹介しておきましょう。

【一番】
日本はいままで見た中で一番素晴らしい国。
真っ白な蝋や、銅製の鋲を作り、最高級のお茶を輸出している。
日本人の町中でのいでたちはとても風変り。
男も女もいつも扇子を手に下駄を履き、長い着物を身に付けている。
(コーラス)
紙で作った傘を持ち、髪を縛り上げている日本人は一度見たら忘れるものか。

【二番】
女性の手は可愛く、足もとても細い。
畳敷きの部屋でくつろぎ、木の枕で眠るのさ。
白い歯に、低い鼻、黒っぽくてアーモンドの形をした目をしているけれど、
ひとたび結婚することが決まるとその歯は染めてしまうのさ。
(コーラス)
紙で作った傘を持ち・・・、

【三番】
嫁さんになると眉毛は剃り上げ、歯は黒くすることになっている。
子供が生まれると、おんぶして動き回るのさ。
赤ん坊はいつも髪を剃られているから、みんな小僧に見えてしまう。
そして欲しいものが手に入らないと、恐ろしい泣き声を発するんだ。
(コーラス)
紙で作った傘を持ち・・・、

【四番】
子供は話ができるよりも早く、いろんなことを覚えてしまう。
箸を使って自分で食べ、それぞれがお膳を持っている。
お茶を飲むとき塩をいれ、それをおいしいといい、
パンは食べずに、いつもお茶碗でお米を食べるのさ。
(コーラス)
紙で作った傘を持ち・・・、

【五番】
男たちは子供と一緒に凧揚げを楽しみ、女性は小さな
湯吞でお茶を飲むけれど、彼らは煙草もよく吸っている。
この花が咲き乱れる国についてこれ以上は話せないが、
君が気球に乗っていけば12時間で行けるだろう。
(コーラス)
紙で作った傘を持ち・・・、

【六番】
雲間にしばらく漂って起き上がっていれば、流れは止まり
日本が見えたらここぞとばかりに急いで降下すればいいだけさ。
でもどうやって帰るのかだって。それは私に聞かないように。
だから安心で快適なここで楽しむのがお薦めっていうわけさ。
(コーラス)
紙で作った傘を持ち・・・、


 タンナケル・ブヒクロサンという人物は、日本人とオランダ人の血が混ざっていると自称していたものの本当のところは謎でした。出国に至るまで日本にどれ程長く住んでいたのか、本当にハーフだったのか、日本人の血は一部に過ぎなかったのか、それとも両親とも外国生まれで、日本で生まれた二世ではなかったのかなど、長らく判然としない謎の人物でした。ただこの “Nipongein Song”の発見によって、タンナケルの自称ハーフ説や子供の頃から日本で育った可能性にはかなり疑問を持たざるを得なくなりました。そうでなければこのような軽快な曲を着想することは難しいと思えたからです。ただタンナケルは日本人一座を率いて1867年に日本を出て以来帰国することはなくこの日本人村博覧会を開場した時点ですでに20年近く西欧の興行界に身を投じてきているため出自の謎に迫る決定打にはなりえなかったのも事実です。


 とはいえ、この詞のおかげで、当時、日本で使われていた白い蝋(ロウソク)や、銅製の鋲(びょう)が外国人には珍しかったことなどが分かってくるなど極めて貴重な資料であることには違いありません。また彼は “Nipongein Song” 以外に “Japanese Village Waltz” も作っていることが分かりましたが、そちらについては後述することにします。

注1:友人のピーター・ブラニング(Peter Brunning)がこの楽譜や歌詞の存在を知らせてくれました。

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