松山光伸

鎌倉時代まで遡れる日本で最も古い手品

【 目次 】


鎌倉時代まで遡れる日本で最も古い手品(その1)

一次資料でたどれる最古の手品

 現在、日本で最も古いマジックの解説本とされているのは元禄9年(1696年)に刊行された『神仙戯術』で明の陳眉公が著述したものを馬場信武が和訳編集したものとされている。ただ、ここには手品以外にも面白科学遊びに類するものが半分は含まれている。現在の感覚からするとマジックの解説書とは言い難い内容のものであったが、実はヨーロッパの17世紀の解説書でも同じような傾向があって数学遊びとマジックが混在した本がその時代に次々と出ていたことはとても興味深い(注1)

 一方、個々のマジックの記録がどこまで遡れるかという点については必ずしも明確にはなっておらずいまもって研究途上といっていいだろう。旧約聖書の中にある奇跡のようなエピソードや説話の中で語られる怪奇現象は論外としても、壁画などに描かれたそれらしきものなどは近年の研究で徐々に否定されてきている(注2)。記録性の高い文書や資料を吟味して歴史を再検討しているというのが欧米の現在の流れといっていいだろう。 そういった動きを横目にしながら日本の古文献を精査していくのも面白い。

注1:英語圏以外のマジック関連の古資料の翻訳(英訳)は限られていたがConjuring Arts Research Centerが発足した2003年以降その論文誌であるGibeciere誌上で次々と新たな古文献が英文に翻訳されてマジック史の見直しに拍車がかかっている。

注2:例えば、エジプトナイル川流域のベニハッサン霊廟に描かれていた「Cups and Ballsを演じている絵」らしき壁画の真偽に関しては Jim McKeagueがエジプト考古学博物館の専門家を交えて行った研究の結果が近年公になった。 それによれば二人でゲームを楽しんでいる様子を描いた可能性はあるにせよカップと玉の演技はありえないとの結論に至っており現在ではこれが定説になっている(MAGIC、1997年3月号)。 一方、一千年以上の昔から伝えられているともいわれるインディアンロープ伝説は The Chicago Daily Tribune紙に1890年に初めて掲載された創作話がきっかけになって繰り返し語られ伝説化したものであることがPeter Lamontによって突き止められている (“The Rise of the Indian Rope Trick: How a Spectator Hoax Become History”, 2004)。

日本の最古の数理トリック「目付字」

 「目付字」というトリックを知っているマジシャンはどの程度いるだろうか。ほとんどいないに等しいのではないかと思えるほどいままで奇術界では話題になることがなかったが、実は数学史の研究家の間ではよく知られている。『塵劫記』という名の江戸時代初期の有名な数学遊戯書に出てくるからである。数十個の文字が並ぶリストを客人に示してその中から好きな一文字を記憶してもらったあと簡単な質問に答えてもらうとたちどころにその文字を当ててしまうというトリックがそれである。何世紀も前の数理トリックなので、かなり原始的で面白みのないものというイメージでとらえられがちであるが、実際にその演じ方を紐解いていくとその第一印象とは大きく違うことに驚かされる。原理にせよ演出法にせよ多彩な工夫が施されていて、多くの人の遊び心を呼び起こしたであろうことが感じとれるからである。そしてこの「目付字」がいつ頃から人々の間に知られていたかを特定しようとその初見の時期を調べていくと、鎌倉時代まで遡れることが一次資料で確かめられる。『神仙戯術』より四百年も前のことである。これほどまで早い時代にこの種のトリックを楽しむ文化が日本に育まれていたということに誇りさえ感じられるとともに、人間のクリエイティブな能力は当時も今も何ら差がないことを示してくれる史実なのである。

 前書きはさておき、「目付字」とはがいったいどのようなものだったのかをまずは眺めてみることにしよう。ここでは説明の都合上、『塵劫記』という江戸時代の教養書に現われる目付字を最初に見ることにしたい。ここに代表的な目付字のいくつかが出てくるからである。

 日本人の書いた最も古い数学書は『算用記』で、著者が明らかになっていないもののその成立時期は安土桃山時代から江戸時代初期とされている。続いて元和8年(1622)に毛利重能による『割算書』が刊行になるが、これらを元にしながら中国の『算法統宗』も参考にして吉田光由(1598~1673)が寛永4年(1627)に著わしたのが『塵劫記』(四巻本)である。

 内容は数の表記の仕方、単位、掛算の九九など基礎的な知識のほか、面積の求め方など日常生活を送る上で役に立つ基本的なものであるが、パズル的な問題も徐々に追加して改訂をしながら版を重ねた江戸時代のロングセラーである。また内容を多少変えた異本が多数存在していて明治時代に至るまで実に400種類を超える『塵劫記』が出版されたともいわれている。

寛永8年版の『塵劫記』に現れた「花の目付字」

 初版が寛永4年(1627)に四巻本として刊行された塵劫記は、二年経った寛永6年(1629)に五巻目が追加になり、この時点から「まま子だて」や「ねずみ算」が含まれるようになって数理や数学遊戯の色彩が増していくことになる。そして「目付字」については三巻本に再編集した寛永8年(1631)版が出た際に初めて登場する。この時、三種類の目付字が同時に現れるのであるが、その内の一つが図1に示したものである。これは今日「花の目付字」と呼ばれているもので上巻の巻頭に示されている。

図1「塵劫記」寛永8年版の花の目付字

 幹からは枝が5本伸び、それぞれに花と葉が広がりそれらに文字が書かれている。 そこにあるのは数を現わす漢字で、一、十、百、千、万、億、兆、京、垓、秭、穣、溝、澗、正、載、極、恒、阿、那、不、無、の二十一文字が見える。 木の幹をよく見ると枝の出ている付け根の部分に数字が書かれており下の方から順に 「一」「二」「四」「八」「十六」と記されている。 『塵劫記』の本文中では目付字の使い方がまったく説明されてないため一見すると単なるイラストのページにしか見えない。 多くの人にとってその遊び方は当時かなり知られていて説明する必要がなかったのであろうか。 後世の我々にとってその使い方は後年に発刊された校注付きの版で知ることができるのである。 遊び方は次のようなやりとりで行われる。

演者:「この中にある文字を一つ心に選んで下さい」
 (相手は「一」から「無」までの二十一文字の中から一つを選んで覚える)
演者:「覚えた文字が一番下の枝の花の中にあるかどうか教えてください」
相手:「はい、花の中にあります」
演者:「では下から二番目の枝の花にはありますか」
相手:「はい、花にあります」
演者:「では三番目の枝では花にありますか」
相手:「いいえ、葉の中にあります」

 同じように四番目と五番目についても尋ねる。 例えば四番目と五番目がともに「葉の方にある」との返事であれば、相手が覚えた文字は「百」と言い当てることが出来るのである。

 タネは簡単で、花の中にある枝の根元の数字を足し合わせるだけである。この例でいえば、花にあると答えた枝が一番目と二番目であったため、それらの根元の数字である「一」と「二」を足し合わせ「三」を得れば良く、葉にあった枝については無視するのである。「三」が答えの場合は、文字列「一、十、百、千、万、・・」の前から「三番目」にある文字が相手の選んだものということになる。

 数理マジックに詳しい人であれば、これが二進法に準拠したトリックであることにすぐに気付くだろう。まずは、下の枝から順にそれぞれの枝を1の桁、10の桁、100の桁、1000の桁、10000の桁と考える。選んだ文字がそれぞれの枝の「花」にある場合にはその桁を「1」とし、葉にあれば(或いはどちらにも無かった場合も)「0」として二進数を作るのである。「百」が選ばれた上記の例であれば、その文字は一番下と下から二番目の枝の花のみに現れるため二進数は「00011」ということになる。二進数の「11」は十進数では「3」であるから演者は文字列の3番目を見て「百」であると当てることができるのである。とはいえ演ずる上では二進数の知識自体は不要で、枝の根元の合計値を文字列に当てはめればいいだけである。そしてその文字列は右下に五つずつ行を区切って示されているので即座に相手が思った文字を当てることができるようになっている。

西洋の文献に現れる二進法を使った手品

 二進数を使った同様の数理トリックは欧米でもかなり古くから存在している。私の気づいた最も古いものでは1857年の出版になる “The Magician's Own Book”の中の “The Mathematical Fortune Teller”(数理の予言)がある。同名タイトルの異本があって紛らわしいがDick & Fitzgeraldが出版し著者名はないものの一般にはGeorge Arnoldが著者と考えられているものである。

 これにはバラバラの数字が記入された6枚のカードが必要で(図2)、客に、1から60までの間の任意の数字を選ばせたのち、6枚のカードのうちどのカードにその数字があるかを尋ねる。演者はその返事をもらうとたちどころに客の選んだ数字を当ててみせるのであるが、演じ方は簡単で、客の選んだ数字があるすべてのカードの右上コーナー部の数字を足し合わせるだけである。それが客が選んだ数なのである。

図2 The Mathematical Fortune Teller (1857)

 例えば、客が「21」を選んだとしよう。「21」が書かれているカードは図2の最上段にある2枚と最下段の左側にある1枚の計3枚で、それぞれの右上コーナー部の数字を足し合わせると、1+4+16=21となるため、客が「21」を選んだことがすぐに分かるのである。 改めて6枚の右上コーナーの数字を見ると、1、2、4、8、16、32となっている。 この6つの数字は二進数では000001、000010、000100、001000、010000、100000である。 二進法では0か1のいずれかで数字を現わすため、1(000001)から63(111111)までであれば、この6つを組み合わせることでどんな数でも表現できる。 実際、21を例にとってみるとこの数は二進法では010101であり、これは010000(十進法の16)と000100(十進法の4)と000001(十進法の1)の合計なので、右上の数字が16、4、1の3枚のカードに21を書いておけばいいという単純な原理なのである。 言い替えれば、右上にある数字が「花の目付字」における枝の根元の数字と同じ役割を果たしていることになる。



鎌倉時代まで遡れる日本で最も古い手品(その2)

鎌倉時代の公家社会ですでに知られていた目付字

 “Magician’s Own Book”よりも前の時代に西洋に同じようなものあったかどうかは不明であるが日本の目付字はかなり昔までさかのぼることができる。 平安時代(794-1185)の末に成立したとされる『簾中抄』(上下二巻)の中にこの目付字のことが記されているからである。 この書は藤原資隆の編纂になるもので、公家の日常生活に必要な事項について要点を記した事典のような性格のものである。 とはいえ当初のものには目付字は書かれておらず後年に追補されている。 例えば、『改定史籍集覧』第23冊(明治34年刊)で翻刻された『簾中抄』にはすでに目付字のことが書かれている。 その刊行時期を見極めるために内容を精査すると、過去の年号の変遷を記載した部分が元弘元年まで加えられており、累代天皇の系譜の方でも後醍醐天皇が廃位して量仁親王が即位した元弘元年まで記載されていることから1331年(元弘元年)に改訂されたものであることが確認できる。 鎌倉時代(1185~1333)の最末期には目付字が流布していたのである。 実際に目付字のことが出てくるのはその下巻である。 ほんの数行ではあるが「いろはの文字くさり」として記されている。

いろはの文字くさり 「はな(花)にあり、は(葉)にありとのみいひおきて、人の心をなぐさむるかな。はな(花)はとれ、は(葉)はあだものと思ふべし、一 二 四 八 十六」


 目付字という言葉自体は出てこないものの、前段は「葉はあだものとして捨てて花にあるものを取れ」とあり、最後の「一二四八十六」の部分は「第一枝(1)、第二枝(2)、第三枝(4)、第四枝(8)、第五枝(16)にあった場合には、それぞれの数を加え合わせなさい」との意で、正に目付字を詠んだものである。 注目されるのは、ここには『塵劫記』同様具体的な見せ方が一切書かれておらず、そればかりか花や枝の絵すら描かれていないことである。 演じる上での「心覚え」だけしか示されていないということはそれだけで十分読者の用が足りたことを意味しており、目付字自体は『簾中抄』を目にする上流階級の読者層の間ではすでに一般的に知られていたことを伺わせるものになっている。 鎌倉末期と言わず鎌倉後期、すなわち紀元1300年頃には目付字がかなり知られていたのではないかと推測する由縁である。

 “The Magician's Own Book”にあった“The Mathematical Fortune Teller”と比べるとそれより五百年以上も前にこのような「当て物」が日本で楽しまれていたこと自体驚くべきことであるが、感心するのはその演出である。 数字が並んだだけのカードではその規則的な並び順から二進法の原理が推測されないとも限らないが、そういった懸念は図柄や文字を使うことによって解消しており、その結果視覚的にも楽しめるアート性の高いものになっている。 また6枚の数字カードでは選んだ数字があったりなかったりするが、この目付字では客が選んだ文字はどの枝にも存在していて「花にあるのか葉にあるのか」だけを尋ねているため二進法の原理がすぐには分からないようになっている点が注目される。

 ところでこの『簾中抄』で書かれている目付字は『塵劫記』に出てくる前述の「花の目付字」とはデザインが異なっている。 それは当時のタイトルが『いろはの文字くさり』となっていることから分かるもので「花」や「葉」に記された文字は「漢字」ではなく「平仮名」であった。 『塵劫記』にある目付字では枝が5本描かれていたため使える文字は32字(=2の5乗)まで可能だったが実際には漢字21文字しか使っていなかった。 それに対し『簾中抄』で述べられていた平仮名では「いろは48文字」あるためそれが全部書かれていたとすれば枝は5本では足りずに6本は描かれていたことになる。 “The Mathematical Fortune Teller” では数字カードを6枚使っていたが鎌倉時代の目付字も同じ数の枝を使っていた可能性が高い(注3)

 いずれにせよ初期の目付字は平仮名を使った文字当てだったということになり最初から女性や子供にも楽しめるように作られていたことは特に注目したい。 というのも中国から伝来する事物が多かった日本にあって目付字については中国起源のものが一切見つかっておらず、平仮名という日本固有のものを使ってもともと独自に考案したものだったと考えられるからである。 また、目付字が日本のオリジナルという点とは別に、日本人の識字率が昔から極めて高かったことの要因の一つとして目付字がかなり寄与していた可能性があり、文化史の発展の面からも興味深い。そのことについては改めて後述することにしたい。

注3:48文字の中の一文字を当てるには「いろは文字くさり」に 書かれていた1、2、4、8、16以外に32も使う必要がある。 従って平仮名のすべてを使っていなかった可能性もある。

若き公家の日記に記された目付字のやりとり

 さて、この目付字が実際に公家の間でやりとりされていたことを示すものがある。室町時代の後期になって戦国時代といわれる頃、山科言継(1507~1579)という公家が遺した『言継卿記』という日記にそのことが記されている。この日記は大永7年(1527)の正月から1576年(天正4年)に至るまでの50年間に及ぶ記録で、その最初の年に目付字のやりとりが現れる。山科言継が20歳になったばかりのことである。

大永7年(1527)5月16日 御方御所へ祗候仕り候。「目付桜」二つ持参仕り候うて見参に入れ候。先づ留め置かる由申し候。


 「目付桜」とは桜の木の花と葉を使った目付字のことで、ここでは桜木をデザインした目付字を二種類持って行って披露したことが書かれている。 ちなみに言継が会いに行った御方御所(おかたごしょ)というのは将軍の跡を継ぐ立場の人を指す言葉であり足利義維(当時は義賢で18歳)だったと考えられる。

大永7年(1527)5月20日 萬里小路へ罷り候て、阿古御料人と暫しはなし候。目付字見度き由申され候間、遣はし候し了んぬ。


 阿古御料人とは後に浅井久政(大永6年生まれ)の正室になった小野殿のことで、浅井久政との関係からいままでの研究では大永6年頃の出生と考えられていた。ただ、もしそうであればこの時談笑した阿古御料人は当時高々満1歳の年齢に過ぎなくなってしまう。今までの推測は誤りということを意味する非常に重要な記述である。いずれにせよ当時阿古御料人10歳に満たない少女だったと考えられ、浅井久政の年上の夫人となって浅井長政を生んだ人物である(注4)。万里小路(までのこうじ)というのは天皇家とも姻戚のあった家柄の高い公卿で、たまたま阿古はそこに預けられていたか訪問していたようだ。

大永7年(1527)5月22日 萬里小路へ罷り候て、色々はなし候。阿古御料人に目付字二部四帖借し候。二時はかり候し了んぬ。


 阿古御料人も目付字に興味を持ったとみえ貸して欲しいとねだった様子が記されている。ちなみに「借し」はここでは「貸し」の意味で使われている。二部四帖というのは「目付字集」を意味しているのか二枚組になっている目付字を二種類(計4枚)持参したということなのかここでは判然としない。後述するように二枚組の目付字が一般的だからである。いずれにせよ『簾中抄』から二百年近く時を経ているので「いろは文字」だけでなく漢字を取り込んだものもこの頃にはあったようだ。このように貸し借りを繰り返しながら各人が目付字を写し書きし、周囲の人に演じて見せて広まっていった様子が伺える。

注4:浅井久政の夫人になったこの阿古御料人(小野殿)は、後に子供の浅井長政が織田信長に滅ぼされたあと、無残にも両手の指を一本ずつ切り落とされるという処刑を受けて亡くなった人物として知られる。



鎌倉時代まで遡れる日本で最も古い手品(その3)

塵劫記に出てくるもう一つの目付字

 話を『塵劫記』に戻そう。寛永8年版に現れた三種類の目付字の二番目は『初製目付字』というものである。こちらは二枚一組になっていて相手が選んだ文字を当てるというものである(図3)。「始」とある方は下巻の巻末に、「終」の方は中巻の巻末にあってそれぞれ8×8=64文字の異なる漢字が並べられている。ただ「花の目付字」と同じく演じ方は一切示されていない。やり方自体は広まっていてあえて解説する必要がなかったのか、知らない購読者向けには本文とは別のチラシが用意されていたのかなどが考えられる。また「初製目付字」を含めどの目付字もデザイン性が高いため必ず巻頭か巻末に配されており、今日のグラビアページのように見て楽しむ位置づけになっていた可能性もありそうだ(注5)

図3-1 初製目付字(始)
図3-2 初製目付字(終)

注5:ここで取り上げた「初製目付字」は寛永8年版ではなく貞享版のものから引用した。寛永版は一文字誤りがあるためである。貞享版では「始」が「本始」に、「終」が「未終」になっている。

まずやり方を示しておきたい。
  1. 最初に「始」のリストを示し、64文字の中から任意の一文字を選んで記憶してもらった上で、その文字が右から何列目にあるかを教えてもらう。例えば「猟」を選んだとすれば右から四列目という答えが返ってくる。
  2. 次に「終」のリストを示し、いま選んだ文字がこのリストでは右から何列目にあるかを教えてもらう。「猟」の場合は右から五列目ということになる。
  3. 演者はこの答えを聞いて直ちに選ばれた文字が「猟」であることを当てるのである。

 例えば、上のように「猟」が選ばれた場合、「始」では四列目「終」では五列目という答えが返ってくるので、二つのリストを見比べて共通の文字を探せばそれが答えということになってしまいあまり不思議ではない。そこで実際に演じる際は、二枚を重ね持って、最初に「始」だけを見せ、その中から相手が選んだら「始」のリストは裏に回し、次に「終」のリストを見せるなど同時に二つを見比べていないことを示す工夫が必要である。

 タネはリスト上部にある四文字の句にある。演者は「終」のリストだけを眺め、選んだ文字がある列(この例では右から五列目)の最上部にある四文字の中の一番下の文字を見ればよい。この例では「琥珀餝宮」なので「宮」がキーとなり、その列の中の「宮」を探して(8文字の上から二番目にある)、そこを一番目として下方に数えると四番目(「始」のリストでの右から四列目だったため)が選んだ文字というわけである。この例では「猟」という文字にたどり着いて答を見出すことができるのである。

 もう一つ例題を挙げてみよう。選んだ文字が「始」の六列目と「終」の四列目だったとしよう。「終」のリストの四列目を見るとキーになるのは「月下汲酒」の「酒」で、「酒」から六番目を下に数えれば「錢」となってこれが選ばれた文字というわけである(再下端にきたら上に戻って数え続ければいい)。

 仕掛けを理解するために文字配列の基本構造を見てみよう。実は、「終」のリストの文字配列は基本的に「始」のリストを反時計回りに90度回転させた構造になっている。「始」のリストで選んだ文字の右からの位置を「終」のリストでは上から数えているのはそのためなのである。ただ、タネが見抜かれないようここに巧妙な工夫が施されている。「終」のリストでの数え始めの位置を列ごとにずらすことによって規則性が分からないようにしているのがそれである。

マトリクス・ディビネイションとして知られる西欧のトリック

 欧米にはこれと同じ数理トリックは見つかっていない。従って「初製目付字」のアイデアは日本独自のものなのである(中国にもない)。とはいえ「縦横マトリクスに並べた文字列の中から一つを選んでもらい、その後その列配置を並べ直してから(縦の構造を横の構造に置き直す)、選んだカードの位置がその前後でどのように変わったかを相手に聞くことで、すぐさま言い当ててしまうというトリックは古くからある。

 もっとも分かりやすい事例は、W. W. Rouse Ballの “Mathematical Recreations and Problem” (1892) の中のArrangement of Rows and Columnsである(図4)。やり方は最初に16枚のカードを左図の番号順に表向きに並べ、そのうち一枚を覚えてもらったら、それが何行目にあるのかを尋ねる(例えば三行目だったとすれば、演者には9、10、11、12の位置のカードのいずれかであることが分かる)。ここで一旦16枚を集めて再度配り直すのであるが、その集め方は表向きのまま一枚ずつ16、12、8、4、15、11、7、3、14、・・・ の順に左手に重ね取っていき、しかるのちに左図で配った時と同じように左から右へ、上から下へと並べ直すのである。すると右図のように、最初の配置とは鏡像の関係になるような配置が出来上がる(左上から右下に向かった対角線を軸とした鏡像)。そして再度覚えたカードが何番目の行にあるかを尋ね、仮にその時二行目との答えが返ってきたら、選んだカードは10の位置にあることが分かるというわけである。

図4

 もちろんこのままのやり方では気づかれる可能性が高いことから、著者は配り直す前にカットを数回行って混ぜ合わることでより完成度の高いトリックになると述べており、その方法について更に解説を行っている。

 このタイプのトリックはマトリクス・ディビネイション(Matrix Divination)と欧米では呼ぶことがあり、いくつかの重要なバリエーションがある。実際、相手の選んだカードがどのグループにあるかを尋ねた上で、それを特定するタイプのトリックには、Ballの紹介した上記以外にも歴史的に重要なトリックがそれ以前に二つ存在している。

 その一つは、フランスのClaude Gaspar Bachetによる“Problemes plaisans et delectibles, qui se font par les nombres” の第2版(1624年刊)の143ページ以下に解説されているものである。演技に当たっては、何十枚かのカードを準備し、客の一人一人に二枚ずつカードを覚えてもらい、すべてを回収したらそれを表向きにマトリクス状に縦横に並べて示す。そしてそれぞれの人に覚えた2枚のカードがどの行にあるかを答えてもらうと(二枚が二つの行に別れている場合もあれば同じ行にある場合もある)、すぐにその二枚を当ててしまうという現象である。これは後に英訳され、特に20枚のカードを使って10人を相手に演ずるものが “Mutus, Dedit, Nomen, Cocis”の名で広く知られるようになっている(図5)。ここでは演じ方の説明はしないが、十人の客が選んだそれぞれ二枚ずつのカードを、四行×五列になっている以下の配置図の中のペアになっているところ(同じ文字のあるところ)に置くのがタネである。例えば、客が「自分のカードは一行目と二行目にある」と言えば、Mの位置の二枚がその人のカードということで、「二枚とも四行目にある」と言えばCの位置の二枚がその人のカードとわかるという仕掛けである。相手の答えを聞いて一意的にその二枚を特定できるような配置について考察したのが前述のBachetの1624年の研究なのである。

図5

 もう一つは更に古くイタリアのHoratio Galassoが1593年に出した “Giochi di Carte Bellissimi di Regola, e di Memoria”というカード奇術の本に出てくるものである(p.16)。ここではよく混ぜられた15枚のカードを使い最初にその中の1枚を覚えてもらう。これを表向きのまま1枚ずつ左から右に配る操作を繰り返して三つの山に配り分ける。相手にどの山にそのカードがあるかを教えてもらったらその山が真ん中になるように三つの山を集める。この操作(配ってから相手のカードがある山が真ん中になるように集める)をあと二度繰り返す。こうすると相手のカードは手元の15枚のパケットの8枚目(中央)に必ずなるので容易に当てることができるというものである。15枚でなくとも奇数枚でさえあれば同じような配り分けを三回行うことで必ず相手の選んだカードは中央にくるという説明も最後に添えられている。テーブル面にマトリクス状に広げるわけではなく積み分けの操作になっているので分かりにくいが、配り直しによって縦横の配置が逆転するためMatrix Divinationと原理的には同じなのである。現在では、21 Card Trickとか、ジェルゴンの積み分けトリック(注6)という名の方が有名になってしまったが、Galassoのオリジナルでは15枚を使って三回配り分けるようになっていたのである。

 いずれも「初製目付字」との関連性が少ないため別個に考案されたものと思われるが、Matrix Divinationの最初の事例が洋の東西で同じような時期に広く知られていたという事実は興味深い。

注6:フランスの数学者であるJoseph-Diez Gergonne(1771-1859)がこの積み分け問題を発展させいくつか演出のパターンと演じ方を完成させている。目付字との更なる関連について後述する。

 「初製目付字」で更に注目されるのは、そのデザインの中に多くの百科事典的な情報が埋め込まれていることである。8×8の漢字のそれぞれの下には細かい文字が付されているが、そこには黄帝、神農、少康、武王、紂王などと中国の歴史上の王侯の名前が記されている。これは個々の漢字で示される事物が誰の時代に起源を持つものなのかを示したもので、初製目付字の「初製」という言葉は「最初に作られたのが誰の時代なのか」という知識がこの中に書かれていることからきているのである。日本で古くから知識層の中で読まれていた史記(中国の歴史書)などを参考に作られたものと考えられる。また漢字にカタカナが添えられていたり、四字の句には「返り点」が付されていて漢字仮名混じりで読み下せるようになっていたりしている点も庶民への教育的な配慮が行き届いたものになっている。

 このような工夫が施された「初製目付字」だったため文字当て遊びのためだけに使われたというよりは、目に触れるところに貼って日常の一口知識として珍重する家庭もあったであろうし、二枚で遊べるものだけに写し書きして遊ぶ層がでてきたり、自分の独自の文字に置き換えて楽しんだりしたこともあったのではないかと想像が膨らむのである。



鎌倉時代まで遡れる日本で最も古い手品(その4)

類似文字や読みの異なる文字を使った目付字

 話を再度『塵劫記』に戻して寛永8年版に現れたもう一つの目付字について紹介したい。こちらも冒頭に紹介した「花の目付字」と似たデザインであるが、一枚ものではなく、二枚を一組にして使うタイプになっていて、その一つは中巻の巻頭の「八つの花の絵」で、もう一つは下巻巻頭にある「四つの花の絵」である。前者は花びらにのみ文字があり、後者は花と葉の双方に文字が配されている(図6)

図6

 この目付字の演じ方も他と同様で本文中にはどこにも解説されていない。後に刊行された注記付の本によって知ることが出来るのであるが、当時の読者がどのように演じ方を知ったのかは常に気になるところである。目付字が鎌倉時代からあったとなれば三百年経たこの時期にはかなりの人の知るところとなっていて演じ方は流布していても不思議ではない。アート性の高い最新のデザインを単に巻頭や巻末に挿絵として付した可能性も考えられる。そして『塵劫記』を購入した人だけが口頭や別チラシで教わるという販売促進策があった可能性も考えられる。

まずやり方を示しておきたい。

  1. 相手に左図(八つの花がある絵)を示して一つの文字を選ばせ、それがどの枝にあるのか教えてもらう。
  2. 次に右図を見せて同じ文字が四カ所の枝のどこにあって、それが花にあるのか葉にあるのかを教えてもらう。
  3. これらの答えをヒントにして相手がどの文字を選んだかを当てる。

 似かよった異字が二つずつ散りばめられていたり、同じ字でも読みを変えているものは別々の文字として扱っていたりしているところが他の目付字とは異なっており、注意深くその違いを見極めたり、漢字を読解出来るようになったりすることなどを期待した教育的な要素があったと考えられる(注7)

注7:この目付字には名前が付いていないため野口泰助は似字目付字と呼んでいる。

 仕掛けはとても巧妙である。結論から言えば最初に紹介した二進法に基づく「花の目付字」と縦横の配置を変えた上で数え初めの位置を変える「初製目付字」の両方の要素を取り入れたものになっている。加えて、二つの秘密の仕掛けが施されているため、やり方を見抜くことはほとんど不可能になっている。

 その仕掛けの一つは左図の両脇に書かれている文字である。これは四文字ごとに一まとまりになった句で、全部で八つありその隣に描かれている花に対応しているのであるが、それぞれが或る特定の数字を意味している。具体的には、左上の「社数三七」はその下端の文字から7を意味し、「雨中囲碁」は碁の読みから5を、「色赤似丹」は丹の読みから2を、「人集如市」は1を意味するというわけで、同様に右側は上から「鐘音百八」は8を、「人間福禄」は6を、「深抽懇志」は4、「俄企社参」は3を意味することになる。

 実際の演技に当たっては、まず左図の中から一文字を選ばせる。仮に左上の「臼」(読みは、キウとウス)が選ばれ「左上の花の文字を選んだ」と告げられたとしよう。ここで演者は左上の四文字の句から7を心に刻むのである。次に四つの枝が描かれた右図の中から「選んだ文字がどの枝にあって、それが花にあるのか葉にあるのか」を尋ねると答えは「左下の葉にある」と返ってくる。これをどのように当てるかであるが実はここにもう一つの仕掛けが隠されている。それはそれぞれの花や葉に描かれている漢字のうち特定の八つの漢字が数え始めの文字として決められているのである。その漢字とは、夲、啇、絰、延、戌、卭、孑、刀の八つで、これを答えのあった花や葉の中に見つけたら、その文字をスタート点として先ほど心に刻んだ数字の数だけ反時計回りに数え進むのである(キーとなる八つの漢字は、4つの枝の花と葉のグループそれぞれに一つずつ割り当てられている)。注意が必要なのは数えるべき数が5以上のケースである。その場合は四つまで進んだら一旦元の文字に戻って今度はその左から時計回りに数え継いでいく必要がありその終着点が相手の選んだ文字になるというわけである。

 上記の「臼」が選ばれた例で言えば、左下の葉の中で目的の文字を探すのであるが、この葉における数え始めのスタート点は「啇」(二つあるうちの左)と定められており(花の場合であれば「絰」がスタート点)、その「啇」を1としてそこから反時計回りに「身」(シン・ミ)まで四つ数えたら次に「啇」の左の「甲」を5として時計回りに7まで数えると「臼」となってこれが選ばれた文字とわかるのである。

 もう一つ例を示しておこう。左図の右下にある「柬」(ケン・エラブ)が選ばれたとして、「右図の左下の花にある」と教えてもらったものとする。 この場合、キーとなる数字は3で、右図の数え始めは「絰」なので、「絰」を1として反時計回りに3数えると「柬」(ケン・エラブ)が見つかることになる。このケースでは、3なので5以降について反時計回りに数え続ける手順は不要である。



鎌倉時代まで遡れる日本で最も古い手品(その5)

文字を覚えるのに有効だった目付字

 『簾中抄』にあった目付字の記述から鎌倉時代の目付字は平仮名で作られていたことが明らかになっている。しばらくの間は読み書きしたり写本を手に入れることが出来た層と言えば公家や一部の武家階級か仏僧に限られていたが、いまだ女児に過ぎなかった阿古御料人が目付字を楽しめたのは平仮名で書かれた平易なバージョンがあったおかげといっていいだろう。もちろん室町時代もその頃ともなれば『簾中抄』の時点からは二百年以上も経っており、山科言継から借りた二部四帖の目付字集の中には漢字バージョンもかなり含まれていたと考えられる。目付字は遊びながら平仮名から漢字まで学べたため公家を中心とする上流階級では子女の教材として重要な役割を担っていたと考えておかしくはない。

 その後、漢字が中心になった数々の変種や、漢字に片仮名の「読み」を振るなどの混み入ったバリエーションなどが作られていくが、三百年以上の時をかけて、それらが口から口へと伝わり、貸し借りを経て写し書きが繰り返され、更に改案が作られるなどして徐々に多くの人に親しまれるようになっていく。当初こそ公家層を中心として知られていたものも武士が社会を動かす時代になると武家層に愛好家が広まっていき、更には出入りの商人を経て一般の町家の人の中にもこの知的な遊戯に興じる町民が出てくるのは当然の流れである。そして江戸時代の初期ともなると、読み書きできる多くの人にとって目付字はそれほど珍しいものではなくなっていたはずだ。『塵劫記』に取り上げられた寛永8年版で目付字の演じ方は何故か本文では解説されておらずイラスト的に扱われていた。目付字がもはや珍しいものではなくなっていたということの表れとも考えられよう。『塵劫記』は数の数え方や錢勘定の仕方など日常生活を送る上で誰もが最低限知っていなければ困りそうなことをまとめたものではあったが、それがベストセラーになっていくにつれて目付字は更に多くの人に親しまれるようになっていった。

 ここに至る目付字の発展経緯を眺めてみてようやく腑に落ちたことがあった。いままで歴史上の謎とされていたことが突然理解できたからである。日本人の識字率が江戸時代から高く、世界的に抜きんでていたのは何故かという謎がそれで、目付字が識字率の向上に大いに関係したものと理解できるようになってきたのである。

 実は、大方の研究で江戸時代の日本は、庶民の就学率、識字率はともに世界一だったとされている。一説によれば、嘉永年間(1850年頃)の江戸の就学率は農村部も含めた江戸府内で70~86%で、市中の場合は裏長屋に住む子供でも手習いへ行かない子供は男女ともほとんどいなかったという(注8)。昔の識字率については正確な統計があるわけではないが、多くの研究でその高さの原因を寺子屋(手習所)が全国に広まっていったことの教育成果だったとして論じている(図7)。また、平泉澄は著書『中世に於ける社寺と社会との関係』(国史研究叢書、1926、至文堂)において、天文24年(1555)の漁村(越前の江良浦)で寺庵の僧が百姓に「いろは」を教えていることを伝える文書があった事実を指摘するなど文字教育が都市部以外にも広がりを見せていたこともわかっている。

注8:これに対し1837年当時のイギリスの大工業都市での就学率は20~25%だったという。またフランスでは1800年前後の婚姻届に署名できた人の比率は37%という数字があるが文章を読み書きできたかどうかは不明という。(出典:『大江戸ボランティア事情』、1996年、石川英輔)

図7 寺子屋の様子(出席率が悪く勉強している子も少なかったという話が散見される)
文学万代の宝:東京都立図書館所蔵

 一方、Richard Rubingerは識字率の水準を国際標準で再考すべく“Popular Literacy in Early Modern Japan, 2007”(和訳版『日本人のリテラシー:1600-1900年』, 2008)を著したが、寺子屋の就学率で識字率を図ることに大きな疑念を呈す一方で、中世にすでに初歩的な読み書きの教育や訓練を地方の寺が担ったことを示す記録があることや、16世紀末に行われた兵農分離政策が村落の指導層に行政文書を読み書きできるような能力を持たせることになった史実などを示している。また農民に関しては年貢を払う本百姓(農民の半分を占める土地持ち百姓)の読み書き能力は17世紀末までにほぼ浸透したという研究を紹介していてリテラシーが全土でかなりのレベルにあったことを述べている。

 加えて、室町時代後期の戦国時代に来日した宣教師フランシスコ・ザビエルの記述も興味深い。二年以上にわたって滞在し、その間キリスト教の教義について領主や僧侶の質疑に答えたり街頭に立って布教にあたったりするなど各層との交流を行っているが、その印象をヨーロッパのイエズス会員宛ての1552年1月29日付け書簡の中で次のように報告している。「日本人は男も女も多くの人たちが読み書きを知っており、特に武士階級の男女や商人たちは読み書きができます」と記しており、更に寺が若者たちに字を書くことを教えていることなども伝えている(聖フランシスコ・ザビエル全書簡3、東洋文庫、1994)。

寺子屋以前にかなり高かった識字率

 ところが井沢元彦はどのようにしてこの読み書き能力を獲得できたのかについて疑念を提起した。寺子屋が全国的に広がりを見せたのは江戸時代も後年のことで、人口の9割程度が農民だった江戸時代に男性の40~60%が読み書きできたという識字率の高さは説明できないという 単純な疑問である(注9)。江戸時代の初期には雑誌もなければ本もない。あったとしてもそれは印刷物でなく高価で希少な写本でしかない。読む機会もなければ、農民などにとっては読む必要もない。多くの人にとって読み書きは「習いたい」と思うようなものではなかったという素朴な疑念である(注10)

注9:『週刊ポスト』誌上の「逆説の日本史」(2008年5月からの7回連載)の中で寺子屋を中心とした過去の研究では識字率の高さが説明できないとして新たな説を打ち出したもの。
注10:一時期、古活字本と呼ばれる木製活字を使った印刷物などが存在したが、あまりに高いものでほとんど市場に出回っていない。

 

 この識字率の高さを説明し得る唯一のものとして井沢は「平家物語を音曲で諸国をめぐって民衆に語って聞かせた盲目の旅の琵琶法師」がその立役者だったと結論付けている。平家物語は十三世紀に成立した遠大な平氏滅亡の鎮魂のストーリーであるが、最初から音曲化して民衆に聞かせることを意図したものだったという。文字文化を知らない地方に出向いてリズム感豊かに琵琶の音曲に載せて語り聞かせる琵琶法師は時代を超えて数多く各地で活躍し、その語りは民衆にとってもまたとない楽しみだった。そして「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。・・」という難しい言葉でも琵琶法師が語る面白い物語の中でしかもリズムに乗った言葉であれば子供でもあっという間に覚えるはずで、耳から入ったストーリーは多くの聴衆の心に刻み込まれることになったという説である。今でも語学の習得法に歌から覚えるというのがあるように音曲から入った言葉を文字と照らし合わせて学んでいく語学教育は文字を学ぶには非常に有効でこのことが識字率を上げた大きな要因になっていたに違いないという。

出典:『藩校と寺子屋』
石川松太郎著, 教育社1978刊

 音曲によって平家物語が耳から浸透していったことと文字を取得したことの因果関係の実証は実際には難しい。 ただ記録の調査が中心だったいままでの学説には見られない民衆側からの視点には真相に迫るものを感じ取ることができる。 とはいえ歌を耳で聞いてその音と文字を照らし合わせながら言葉を学ぶには、手許にその歌詞を書いた紙なり、テキストがあってこそ可能になるものである。 耳にする平家物語は長編でテキストを準備できるようなものではなく、琵琶法師もそれぞれ全く同じ文言を暗誦出来ているわけではなく独自の語り口になっているところが多いこともこの説が十分な説得力を持ちにくい点である。 とはいえ初めて文字を獲得するには耳から聞いた言葉を手許にある文字と照らし合わせて理解するのが基本であることは間違いないだろう。ただそれを可能にしてくれるものは物語ではないはずだ。 むしろ表音文字である平仮名や片仮名自身が持つ基本的な特徴こそが文字の獲得には大きな役割を果たしていたと考えたい。 仮名文字は一つの文字が一つの音に対応する日本独自のもので、それ故に日本人は最も早く文字を獲得できた民族だったと理解できるからである。そしてそれを促進したのは何と言っても「いろは歌」である。 無意味な音の羅列ではなくて意味を伴った歌であるからこそ年端もいかない子供でも暗誦することができ、ひとたび手許に「いろは文字」を持たせれば無理なく仮名文字が習得できたのである。読本や写本がなくとも「いろは四十八文字」程度は親なり年長者が書いて与えればいいだけのことである。 紫式部の長編小説『源氏物語』が世界最古といわれる時代に出来たのもこの平仮名の存在なくてはありえなかったのである。「いろは歌」の浸透とともに多くの日本人が自分の名前くらいは読み書きできるようになっていったのはそれほど不思議なことではない。 アルファベットとも違う純粋な表音文字としての「仮名文字」とそれを暗誦できるように工夫した「いろは歌」は識字率向上と日本の文化の発展の礎となった大発明といってもいいものなのである。

 問題は漢字の習得である。表音文字ではない漢字は、使う場面に応じて色々な読みがあるため仮名のように簡単に習得することは困難だからである。一つの漢字を覚えさせるためにはそれを使う場面とその時の読み方を例文で示す工夫がどうしても必要で、実際、小学校の教科書では明治期の尋常小学校の読本以降今日に至るまで同じような手法をとっている(図8)。では教科書のような読本がなかった昔はどのように漢字を獲得できたのであろうか。

図8 明治19年の尋常小学読本(四年間で七冊。二冊目から漢字が出てくる)

 ここで目付字の存在が俄然意味を持ってくる。当初は平仮名で作られていた目付字であったが、時がたつにしたがって漢字を使った目付字が姿を現わした。目付字で使われる漢字は、文章中に示される用例としてではなく、単漢字であったため読めない人も多かったに違いないが、文字を選んで当てるという遊びをする上では何の支障もなかったため漢字になじむことは自然にできた。目付字遊びのいいところは選んだ漢字がどこにあるかを探す必要があるため文字をジックリ観察するようになるところと、その都度別の漢字を選んでは二度三度と繰り返し遊ぶところにあって、そのおかげで徐々に漢字が頭に定着することになる。おまけに冊子のようなテキストがなくとも書き写しした一枚モノの紙を誰かが用意してくれさえすればいつでも楽しめたため版本がなかった時代でも流行し得たという優れものだったのである。それが知的な興味さえ呼び起こす遊びとなれば誰しも知人に触れ回りたくなるだろう。様々な漢字に書き換えた独自バージョンも次々と生まれたに違いない。漢字に振り仮名を振ったり、百科事典的な一口知識が加わったりすれば、もはや押しも押されもせぬ教材としてもてはやされることになる。人口の9割が農民と言われた江戸時代にあって、識字率は男性の4~6割に達したといわれる大きな謎の手がかりがようやく見えてきた。草の根的に広がりをみせた目付字が民衆の識字率を向上させるうえで少なからぬ貢献をしたとようやく確信を持てるようになった。



鎌倉時代まで遡れる日本で最も古い手品(その6)

星野實宣の目付字

 出版物としては『塵劫記』を皮切りに登場した目付字であったが、当然のことながら色々なバリエーションが世の中に紹介されるようになっていく、その中で原理的に重要なものを一つだけ紹介しておきたい。星野實宣(1638~1699)が著した寛文12年(1672)の『股勾弦鈔』の中にある「目付六十字」である。星野實宣はこの書に当時世界最先端だった20×20の魔方陣を「四百子並物」の名のもとに発表するほど優れた和算家であったが、「目付六十字」の原理は『塵劫記』にあったものとは異なっている(図9)

図9 星野實宣が考えた魔方陣「四百子並物」(実際には漢数字で書かれている)

 この目付字の特徴は、前述の「初製目付字」のところで触れたジェルゴンの積み分けトリック(Matrix Divinationの一種)との類似性である。配り分けを行う都度どこに選んだ文字があるかを聞いていく演出法が似ているのであるが、その背後にある数学的な原理が先駆的でジェルゴンより二百年早いこの時期にすでに使われていたということに驚かされる。

 具体的に見てみよう。彼の「目付六十字」に使う文字は五行、五常、十干、十二支、二十八宿にある合計60文字の以下の漢字である。

 【五行】:木火土金水
 【五常】:仁義禮智信
 【十干】:甲乙丙丁戊己庚辛壬癸
 【十二支】:子丑寅卯辰蛇馬未猿酉犬亥
 【二十八宿】:角亢氐房心尾箕斗牛女虚危室壁圭婁胃昴畢觜参井鬼柳星張翼軫

 準備するのは三種類の異なるグループ分けをした三枚のリストである。その三種類とは次の第一(三つの局に別れる)、第二(四つの局に別れる)、第三(五つの局に別れる)の三つである。


 演じ方としては、最初に以下の順に並んだ六十文字を示し、どれか一つを覚えてもらう。
木火土金水 仁義禮智信 甲乙丙丁戊己庚辛壬癸 子丑寅卯辰蛇馬未猿酉犬亥 角亢氐房心尾箕斗牛女虚危室壁圭婁胃昴畢觜参井鬼柳星張翼軫

 次に準備した三つのリストを見せ、選んだ文字がそれぞれのリストでどの局に属するかを教えてもらう。仮に第一のリストでは「二局」、第二でも「二局」、第三では「四局」と言われたら即座に「丁」が覚えた文字であると当てるのである。

 原理は巧妙でそれを理解するには高度な数学の素養が必要になるためここでは詳しい解説は省くこととし、演じ方の説明に留めることにしたい。実はタネとしてはそれぞれの局にキーとなる数字が配されていてこの数字を頭に入れておくのである。それは以下のカッコ内の数字である。

第一グループ:

一局(40)、二局(20)、終局(0)

第二グループ:

一局(45)、二局(30)、三局(15)、終局(0)

第三グループ:

一局(36)、二局(12)、三局(48)、四局(24)、終局(0)

 上記の例では、選ばれた文字はそれぞれのグループで「二局」「二局」「四局」に属していた。従ってそれぞれの該当する数字を合計し(20+30+24=74)、その和から60を引くと、74-60=14となるので冒頭の60文字並んでいる漢字を先頭から数えた14番目に答えが見つかるのである。そこに「丁」を見つけることができるというわけである。何故60を引くのかというと60は3×4×5だからである(3、4、5はそれぞれのグループの中の局の数。詳しい説明は省略する)。もし3つの合計が120を超える場合は60を二回分引く必要がある。逆に合計が60以下であれば何も引く必要はない。いずれにせよ答が1~60の間になるように必要なだけ60を引くのである。例題を追加しておこう。「木」が選ばれた場合、「一局」「一局」「一局」という返事になるので、合計値は40+45+36=121となり60を一回引いただけでは61なのでもう一度引いて答を「1」にする。「1」というのは60文字の先頭を意味するので「木」という答えを得ることができる。「鬼」が選ばれた場合は「一局」「三局」「終局」なので、40+15+0=55となって60以下であるため、答えはそのまま「55」となり文字列の55番目にある「鬼」が選んだ文字とわかるのである。

 三つのグループがどのように作られているか見てみると面白い。六十枚の白紙のカードを用意して60個の文字列をその順に記載したとしよう。トップカードが「木」でボトムカードが「軫」になるように左手に保持し、トップから順にテーブル上に3つの山ができるように左から右へと一枚ずつ配っていく。右端に来たら再び左から右へと重ねていくことを繰り返して全部を配り終える。すると配り終えた三つの山のそれぞれの中味というのは左から右に向かってそれぞれ第一グループの一局から終局の山に属している漢字群と同じ中味になっている。同じようにこの六十枚を四つに配り分けると第二グループの四つの局のそれぞれと同じ中味になり、五つに分けた場合は第三グループの五つの局と一致する。要するに、三つのグループのリストを示して覚えた文字がそれぞれのグループでどの局に属しているかを聞くという行為は、西洋におけるマトリクス・ディビネイションやジェルゴンの積み分けトリックにおいて配り分けや積み分けをしたグループのどこに覚えたものがあるかを聞いて当てる行為と同じなのである。

高度な整数論に先駆けていた星野の目付字

 ただ上記の計算によって何故正しい答が出せるのかを理解するのは簡単なことではない。Modular Arithmetic(日本では合同算術と訳す)という整数論でその原理が理解できるのであるが、実はこの整数論はガウス(Carl Friedrich Gauss: 1777~1855)というドイツの大数学者が1801年に公にして西洋では有名になったものである。それに先んじた1600年代に既に日本の和算家がこの理論を目付字に応用していたことが注目されるのである(実は日本では合同算術の原形が「百五減算」として古くからあった)。ここで数学理論を細かく解説することは省略するが、合計60字を使うところに大きな意味がある。この数が3×4×5の積になっていることがこのトリックを可能にしているからである。五行、五常、十干、十二支、二十八宿の漢字を使ったのは演出を神秘的にすることとその合計がちょうど60字になるからであって文字自体に仕掛けがあるわけではないのは言うまでもない(注11)

注11:上述した三つのグループのキーナンバーがそれぞれ何故(40, 20, 0)、(45, 30, 15, 0)、(36, 12, 48, 24, 0)なのか簡単に記しておく。それにはまず合同式の知識が必要になる。 A≡B(mod n)が合同式の表現でこの式は「整数Aをnで割った余りはBである」ということを意味する。 そして上記のキーナンバーは以下の九つの合同式

  x1≡k1 (mod 3) x1≡ 0 (mod 4) x1≡ 0 (mod 5)
x2≡ 0 (mod 3) x2≡k2 (mod 4) x2≡ 0 (mod 5)
x3≡ 0 (mod 3) x3≡ 0 (mod 4) x3≡k3 (mod 5)

のk1=1(一局), 2(二局), 0(終局); k2=1(一局), 2(二局), 3(三局), 0(終局) ; k3=1(一局), 2(二局), 3(三局), 4(四局), 0(終局)に対する解なのである。
例えば、最初の事例のように「丁」が選ばれた場合は各グループの「二局」「二局」「四局」に丁があるため、k1=2、k2=2、k3=4となるが、実際その条件を満たす解はx1=20、x2=30、x3=24なのである。そしてその合計の74から60を引けば答が出る。

 いずれにせよ星野はジェルゴン(Joseph-Diez Gergonne:1771-1859)の積み分けトリックや、ドイツの大数学者ガウス(Carolus Fridericus Gauss:1777-1855)の合同算術(modular arithmetic)に関する整数論と同類のものを彼らの二百年近く前にすでに目付字で実現していた。氏の論理思考のレベルの高さと数理トリックへの応用を考えついた遊び心はマジック史の記録にも留めたいものである。



鎌倉時代まで遡れる日本で最も古い手品(その7)

目付字の発展と衰退

 相手に選ばせたものを当てるという目付字のトリックは平仮名や漢字を使わなければならないという制約があるわけではない。平山諦は『東西数学物語』(恒星社厚生閣、1956)の中で「文字のかわりに、魚、鳥、草などを使って、この種の目付字を作って、江戸時代には盛んに出版されたもののようで、絵入宝物目付字、絵入仙人目付字、絵入魚目付字、絵入鳥目付字、絵入獣目付字、絵入草目付字、絵入木目付字といった名前が残っている」と述べている。遊戯やマジックの観点からいえば演出を重視するために文字を絵に置き換えるのは自然の成り行きである。実際、1700年代以降は「目付絵」と呼ばれるものが主流になっていく。ただ文字に対して絵はそれを描くスペースが大きくならざるを得ない。その結果、1、2枚ものが主流だった目付字が5、6枚ものになったり、以前は選べる文字数が50~60は優にあったものが絵に変化することで格段に少なくなってきたりして不思議さや数理的な面白さが失われ、絵を中心としたノベルティ物へとその性格が変わっていく。

 例えば、文政9年(1826)の当世戯子目付絵(鶴屋喜右衛門刊)を見てみよう。これは18人の歌舞伎役者の絵(それぞれ番号が付られている)が見開きで描かれていてその中から一人を覚えてもらうものである。

当世戯子目付絵:いろは短歌新版役者目付絵に所収(文政9年)

 選んだ役者を当てるには、これ以外にあと五枚の見開きページが必要でその一枚目だけを以下に示したが、やり方としては、この中に選んだ役者があるかどうかを聞き、もし右側にあれば下部に「右一」とあるように「一」を頭に入れ、左側にあれば特に聞き置くだけで何もしない。同様にあと四枚の見開きページでも左右のどちらかに選んだ役者があるかどうかを聞くが、常に右側にあるという場合だけ注目することとし、そのページの下部にある数字を頭に入れる。二枚目の右には「右二」、三枚目には「右四」、次は「右五」、更に「右十」と続いており、右にその役者があったときだけそのページの数を頭に入れて全部を合計するのである。「一」「二」「五」「十」だった場合は合計十八なので、冒頭の一覧にある十八番の「柴若」が選んだ役者ということになる。 この時代の同種のものも含めここではもはや二進法は使われなくなっている。「一・二・四・八・十六」でなく「一・二・四・五・十」になっているからである。 数学史の観点からは注目に値しないものになったことになるが、その反面ブロマイドのような扱われ方になって芝居好きな人々など新たな層にまで目付絵が広まったのではないだろうか。


 ちなみに、この種の目付絵は少なくとも享保年間には作られていたことが確認されている。享保12年(1727)に山本九左衛門版の目付絵が画工近藤助五郎清春によって出版になっているからである。

円形に配置された目付絵

 一方、一枚ものの目付絵も引き続き考案されている。ここでは歌川国安の画による「新板役者目附絵」(文政5:1822)を紹介しておこう。これは十六枚の役者絵が描かれた大きな円盤と、十六個の数字が並んだ小円盤を使って相手が選んだ役者を当てるという現象で原理的にはそれまでの目付字とは全く違うものになっている。

 小円盤の右上の文章を見ると 「まん中のほしへ こよりをとふし まはすなり」とある。 こよりとは細く裂いた丈夫な紙を寄り合わせて紐のようにしたもののことでそれを中央に差し込んで独楽のように回しなさいとなっている。切り抜いて使うことが前提になっているが現代であればこよりではなく爪楊枝で代用すればいいだろう。その下には「見やうの事」と題して演じ方の解説がある。

見る人めやすのかす三とあらは三の所より三ッ目ニあたる役者をたれと見おぼへしておき見たといふべし。又はめやす十八ならば十八の所より十八目の役者を見おほへして見たといふべしめやすのかず何ほどニても同し見やうなり。


 解説に省略があるため少し補足を加えないとわかりにくい。実は小円盤と大円盤は対になっていてその二つを重ねて一緒に回すのである。独楽を回して止まったところの数字が選ばれたことになるが、その数字が三であれば三のところから三つ時計回りに数えて到達したところの役者を覚えさせるのである。もし十八が出たとしたらそこから時計回りに十八だけ数えたところの役者の絵を覚えるというわけである。実はどの数字が出たとしてもその数だけ時計回りに数え進むと必ず十七のところで止まるのであらかじめ十七の位置にある役者を目にしておけば、相手が数え終わったところで盤面を見ることなくその役者の名を当てることが出来るというわけである。最後に「当ル人 当たる事奇々妙々なり ▲十七」とあるのは十七の位置の役者を言えば当たるということを説明している。小円盤と大円盤は糊付けする必要もなくその都度ずれてもよく、大事なことは回転が止まった時に十七の位置にある役者を一瞥し頭に入れることであって、それからおもむろに選ばれた数字からの数え進み方を後ろ向きの状態で説明するのがポイントである。

歌川国安「新板役者目附絵」文政5年(1822)

 見てわかるようにこれは二進法を使った当て物でもなければ、マトリクス・ディビネイションの原理を使ったものでもない。にもかかわらず日本では目付字(目付絵)として扱われている。一覧の中から選んだものを当てるというこの種のトリックはおしなべて目付字と言われていた。ただ面白いことにこの時計回りに数えながら相手の選んだものを当てるという現象は西洋にも存在する。Professor Hoffmann の“Modern Magic”(1876)の中の“To Indicate on the Dial of a Watch the Hour Secretly Thought Of by Any of the Company”にその初見がある。国安の画になる新板役者目附絵の半世紀あとのことであるが、もちろんその前に同種のものがあった可能性がある。

 では西洋版がどのように違うか見てみよう。使うのは時計の文字盤と鉛筆だけである。客に1時から12時までの任意の時間を覚えてもらう。演者はここで鉛筆を持って「これから文字盤を鉛筆の先でタップして(叩いて)行きますからそれに合わせてあなたの選んだ時間に続けて心の中で20迄数えていって下さい。そして20まできたらそこでストップと言ってください」という。例えば9が選ばれたのであれば最初のタップを10と心の中で数えて順次11、12、と数え上がっていくのである。一方、演者の方は最初の内は文字盤上のどこをタップしてもいいが、8回目は12時の部分を叩き、それ以降は11時、10時、というように反時計回りに打ち続けていくのである。このようにするとストップがかかったところが相手の選んだ時間を示しているというわけである。原理自体は国安の新板役者目附絵よりも少し洗練されていてこれ以降も時計の文字盤を使った色々なバリエーションが西洋では考えられている。

 日本で時計の文字盤が使われずに独楽を回す演出が江戸時代から考えられていたことが興味深い。当時の時計は現在のような一日を24等分した定時法ではなく、太陽の日の出から日の入り、日の入りから日の出の間をそれぞれ6等分した不定時法で季節によってその間隔は変化し、それも明け方から夕方にかけて、六つ、五つ、四つ、九つ、八つ、七つ、六つと時を刻む数え方だった。和時計の文字盤も子・丑・寅・卯・辰・巳・・と書かれていた。そのため周回的に数える原理を使った手品を考え出したとしても西洋流の文字盤を使って数え進むという発想は起こりようがなかったのである。むしろ身近にあった回転する「独楽」が演出に使われる必然性があったのであろう。

おわりに

 目付字は鎌倉時代から長い歳月をかけて大衆に親しまれるようになった日本古来の不思議遊びである。 不思議さ故に写し写され人から人へと広がりを見せていった結果、各層における文字の取得にも少なからず役割を果たしたに違いない。そして江戸時代も中期にさしかかると目付字は徐々に目付絵にとってかわられていった。 またそれを楽しむ側の主役も数学や手品に興味のある好事家や子供向けの教材に使っていた限られた層から、絵師のデザインによる販促性の高い宣伝ツールとしての価値に目を付けて利用する層へと変化していくことになる。 そして販促ツールとしての目付絵は明治から大正を経て昭和の初期まで続いていったのである。 また明治から大正にかけた一時期、横浜のO. Kai & Co.が前述の役者目付絵と同じ原理を使った25種類の絵柄の目付絵を外国人向けに出版している。これは和紙を使った和綴じの冊子であるがタイトルを ”Japanese Parlor Magic: Home Amusement to All” とし、 従来の「右」と「左」はRIGHTとLEFTに、和数字はアラビア数字に置き換えて外国人でも理解できるようにしたもので、彼らのサンフランシスコの支店で販売するとともに、同市内のSing Fat & Co.でもこれを販売するなど海外でも一部の人にはノベルティとして知られていたこともある。

Japanese Parlor Magic


 とはいえ、いつしか手品としては時代遅れとなり、今日では目付字の事を知っている若手マジシャンはほとんどいなくなりわずかに歴史にその痕跡をとどめるばかりになっているのが実情だ。 日本の高い識字率にも貢献してきたであろう日本オリジナルのこの手品の意味合いを再評価し、世界のマジック史の1ページを飾って欲しいと願うものである。

 【2014-9-10記】



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