松山光伸

第5回 タカセの死

 タカセは少なくとも10本の映画に出演しました。最後の作品となったのは1935年3月公開の作品 “Inside the Room”でした。実は、この作品が公開されて間もない8月26日、タカセはあまりにも突然亡くなってしまったのです。死亡届を見ると、死因は心臓の動脈瘤(Aneurism of the Heart)及び冠状動脈閉塞(Coronary occlusion (atheromatous))で、更に加えて、肺の梗塞(Infarct of lung)がありました。これは自分で病院に駆け込めるような病態ではありません。一人暮らしのタカセでしたから異変を察知した隣人が急遽救命活動に手を貸してセント・メアリーズ・ホスピタルという救急病院に運び込んだものと推測されます。あるいは外出先で倒れたのかも知れませんが、搬送の経緯はどうであれ、状況はきわめて重篤で救命することは出来ませんでした。

タカセの死亡届
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 ただ晩年の画像を見る限り当初のスリムな体形から肥満傾向が進んでいたように見受けられます。長期にわたる無理な生活習慣が影響したのかも知れませんが、ステップダンスに興ずるなど本来はスポーツ好きな彼でした。バイオスコープ紙(The Bioscope:1928-12-12号)にあった著名俳優名鑑によれば、映画出演がピークに達するまでは、趣味特技として、ボクシング、柔術、レスリング、とんぼ返り(Tumbling)が挙げられているほどでしたから、その後多忙な生活が続いていたのかも知れません。


タカセが眠る墓地

 死亡届を見ると役所に届を出したのはT. Oyamaという人物でした。そこに書かれている“causing the body to be buried”という言葉は“assuming responsibility for burial of the body”の意味で、オヤマ氏が埋葬手続きの責任を託されたようです。オヤマ氏のアドレスはNew Oxford StreetからArthur Streetに入ったところと書かれていましたが(現在Arthur Streetはその名称をEarnshaw Streetに変えています)、当時ここには在英同胞会(The Japanese Friendly Society)がありました。この同胞会は日本人同士の互助活動を目的に設立され、その活動の中には現地で亡くなった方の葬儀のお手伝いなども含まれていたのです。想像ですが、タカセが危篤に陥った際、病院側はこの在英同胞会に連絡をとり「タカセの身寄りに危篤を知らせてもらうべく依頼を行ったと思われますが、アクリントンに住む娘リリアン・ハナにすぐに連絡が付いたのかどうかは判然としません。取り急ぎオヤマ氏が急遽派遣されてタカセの最期をみとり、亡くなった後の届け出も家族に成り代わって対応したのではないかと考えられます。仮に遺族である娘リリアンやすでに高齢になっていた義母リリーに連絡できたとしてもファニー夫人が眠るアクリントンの地は遺体を運ぶには遠すぎる距離でした。また、真夏であったこともあって埋葬時期を遅らせるわけにも行かず、ロンドン周辺で埋葬する段取りを考えざるを得なかったものと考えられます。幸いなことにこの在英同胞会は日本人同胞の葬儀の手伝いもしていたので遺族としてはこの会に任せざるを得なかったように思えます。
 さて、墓地埋葬情報を辿っていったところ、タカセの亡き骸がロンドン北部にあるヘンドン・パーク墓地(Hendon Park Cemetery)に埋葬されたように書かれたものを見つけました。一次資料ではなかったもののそこにはセクション番号J8、墓地番号40845とも書かれていたので信頼できそうに思いました。調べてみると現在この墓地は「ヘンドン墓地・火葬場」(Hendon Cemetery and Crematorium)と名を変えていますが、ここには日本人のための専用区画があることが分かりました。その沿革をたどると在英同胞会(現在はJapanese Residents Associationと名を変えています)が以前この一角を買い取って、現地で苦労した同胞が一緒に安らかに眠れるように計らったものであることもわかりました。
 ただ、この区画を購入して日本人用に供されたのは1936年10月からで、開所式には当時駐イギリス大使だった吉田茂が出席して挨拶していたことが分かりました。となると、その一年以上前に亡くなっていたタカセがここに埋葬されているとは考えにくく、墓地探しは暗礁に乗り上げてしまったのです。

ヘンドン墓地に出来た日本人向けの区画の開所式が10月3日に行われたこと
を報じる記事(Hendon & Finchley Times紙;1936年10月9日号)

 ところが近年この日本人用の区画が荒れ放題になっていたため在英同胞会の手で本格的な整備修復工事がなされておりその工事が2010年に完了していたことを知りました。そしてそのことを報じた記事に注目すべきことが記されていました。
https://www.japantimes.co.jp/news/2010/01/09/national/japanese-cemetery-in-london-restored-to-its-former-glory/

 それによると墓地の購入は1919年に行われたものの、霊園としての整備の着手はしばらく行なわれず、ようやく1935年になって日本から墓石を運び込みこの区画の中央に慰霊碑(central memorial stone)を建てるなど完成までに数年を要したことが書かれていました。加えて、1935年から1959年にかけて、合計31人の日本人の名前と1人の英語の名前が埋葬石に記載されている(There are a total of 31 Japanese names and one English one listed on the burial stones, ranging between 1935 and 1959)とも記されていたのです。となると、埋葬されているのは1936年からではなく、1935年の人が最初だったということになります。タカセはやはりこの墓地に眠っているとの確信を持ちました。

現地への問い合わせ

 ここに至ってヘンドン墓地に直接問い合わせをすることにしました。事情を知った職員の方には快く協力をいただき、墓地の全体マップと日本人向け用地の区画図を送ってくれました。日本人用の区画は地図上のJと8が交差するところに確かにありましたし、タカセの墓地番号40845もその中にありました。

日本人の墓地はJと8の交差する所
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タカセの墓地番号がありますが
実際にここに眠っているかどうかは不明
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 写真も何枚も送ってくれました。墓地の全体像、中央に位置する慰霊碑、タカセの名が彫られた足元の埋葬板などです。タカセは間違いなくここに眠っていたのです。埋葬されたのは亡くなってから4日後の8月30日だったことも読み取れました。以下の写真はいずれもHendon Cemetery and Crematoriumのご好意で掲載させていただいたものです。

日本人墓地の区画
中央慰霊碑

正面から展望したタカセの墓標
タカセと他の5人が併記された墓標

 ところが、なお判然としないことが残りました。それは個々人の墓地が隣り合わせにギッシリと詰まっているレイアウト図を、実際に撮ってもらった写真と比較すると様相がかなり違うのです。写真では入口の二つの石燈籠の間を抜けて慰霊碑に向かう石畳が敷かれていますが、レイアウト図は全く違います。また、周辺の個々の墓地では相互に隙間が確保されていますが、日本人墓地ではそのようにはなっておらず、更には、タカセが眠っているはずの40845番に彼が埋葬されているとも思えません。個人の名前が彫られている墓石は一つ一つの墓所に置かれているのが普通ですが、ここではそうなっておらず6人ほどの名が記された埋葬板が、アチコチに点在するように置かれているのです。これはどう理解したらいいでしょうか。

 これらの疑問に管理事務所の方は答えることはできませんでした。埋葬の具体的な方法や慰霊の仕方については当初から在英同胞会に託されていたからだと思われます。以下は私の推測です。
 墓地が修復されたニュース記事が伝えた「計31人の日本人」のほとんどは実際には火葬されて埋葬されたものと考えられます。当時のイギリスではお棺に入れて地中に埋葬する土葬が大多数でした(もちろん火葬もありました)。土葬の場合、購入した狭い一区画の墓地に家族が入ります。亡くなった順に深いところから埋葬されるため、一体用とか二体用とか区画ごとにあらかじめ決められており、家族ごとに事情に合わせて購入するのです。
 ところがこの地で埋葬された日本人の場合、多くは単身であり、将来日本から遺族が詣でる可能性もほとんどなかったと見られます。そのような意味からもみんなが同じ場所で安らかに眠る墓地が求められていたのです。推測するに中央の慰霊碑の下に彼らの骨壺が納められていることはほぼ間違いないのではないでしょうか。第一に、墓地の区画通りに埋葬されている形跡がほとんどないことがそれを裏付けます。また慰霊碑の形を見るとそれは日本の一般的な墓石そのものであり、その下に遺骨を納める納骨室を設けているように見受けられます。実際、墓石の前には拝石が敷かれており(慰霊碑であればこれは不要です)、そこから墓石下の納骨室に新しい遺骨を納められるようになっていると思われます。

 墓地を詳しく見てきたのには理由があります。異国の地で大活躍をしたタカセの墓前にいつか誰かがお参りしてくれる可能性もあるのではないかと思い始め、正確な位置を特定しておきたかったのです。ロンドン中心部からヘンドン墓地に訪問するには、地下鉄のノーザン線の終着駅ミル・ヒル・イースト(Mill Hill East)で下車し10数分歩けば到達できる距離にあります。ロンドン郊外を半日楽しむようなイメージで立ち寄ることも可能です。ロンドンに行かれる機会がある方でタカセの墓に立ち寄ってくれることがあれば、タカセはきっと喜んでくれるのではないかと思えるのです。
http://www.re-limited.co.uk/media/106688/london-borough-of-barnet-visitors-guide-web-low.pdf

 時代の荒波を乗り越えながら日本手品の素晴らしさを広め、更には無声映画からトーキーに移る過渡期の映画界でも活躍した47年の生涯でした。ただ、彼は最後まで映画俳優に転向したというわけではありません。機会がある限りミュージック・ホールで最後までマジックを演じていました。晩年の1933年、Worthing Gazette紙(10月25日号)の芸能欄に、サセックス州の海沿いの観光名所ワージング・ピアの劇場(Worthing Pier Pavilion)で彼がデビュー以来演じていた十八番の芸で観客を楽しませていた様子が次のように報じられていました。

 Takase, a Japanese conjuror, mystified with his rope tricks, worked with tied wrists and tied thumbs, …


タカセが残したもの

タカセが1928年以来住んでいた家
(立木の真後ろ:68 Blenheim Crescent, Kensington, UK)

 ただ、一つ気がかりなのは遺された一人娘のリリアン・ハナです。亡くなった母親の実家で育てられたリリアンでしたが、タカセの晩年は映画出演が多かったことから地方回りは少なくなっていたようにも思われ、彼女との行き来は増えていたのではないかと想像します。いずれにせよ、リリアンは彼の没後の1940年に自宅に程近いダーウェン(Darwen)から迎えた夫君と結婚し家庭を築いたことが確認できました。一人娘だっただけにタカセがそれなりの資産を遺せたとすれば、彼の旅回り人生もきっと報われたのではないでしょうか。そのリリアン・ハナは結婚したあと実家のアクリントンと夫君の実家のあるダーウェンとの中間点となるブラックバーン(Blackburn)の町に住んでいましたが1983年4月に68歳の生涯を閉じました。ちなみにリリアンの実質的な育ての親であった祖母リリーは晩年リリアン夫妻の元に身を寄せており、こちらは75歳で1943年に亡くなっています。

エピローグ:腑に落ちなかった疑問の氷解

 タカセの生涯の全容が明らかになったいま、これまで腑に落ちなかった疑問が氷解しました。それは、彼が天一一座のメンバーとしてヨーロッパに渡っていた時に途中で一座から抜けたという話です。それが事実とは思えずいつまでも疑問として残っていました。その話というのは、村松梢風の『魔術の女王』(新潮社、1957年)にでてくる「天晴はタップダンスを研究し、英国人の妻となってイギリスに残った」(p.304)という一節であり、それを踏襲した石川雅章の『松旭斎天勝』(桃源社、1968年)の中にある「天晴はロンドンでタップダンスの稽古をしているうちに、その師である英国人と結婚していたし・・」(p.65)という記述です。
 「天清」であるべきところを「天晴」としているところや、村松の言うところの「英国人の妻になった」というところは単なる誤植だと解釈したとしても、一座と行動を共にしている最中にタップダンスの稽古に励んで、それがすぐに結婚にまで至ってしまうというのは、先を急ぐ巡業一座としてはあまりに不自然極まりない話です。真実は全く違っていました。天清(高瀬清)は天一が帰国する間際まで一座の一員でしたし、それから6年を経て英国で単身マジシャンとして成功した後、タカセはランドリーの仕事に従事していたイギリス人女性と結婚していました。そしてステップダンスに注力したのは更にその3年後だったのです。
 なぜこういう誤解が生じたのかは明らかです。著者の村松は徹底した聞き書きを元にこの話をまとめたはずですが、それは関係者の古い記憶の断片を組み合わせて作り上げたものだったのです。高瀬は留守宅や親しい友人への便りの中でステップダンスのことにも触れていたと思われますが、40年ほどかけて人から人へとその話が伝わる過程で記憶も定かでなくなり適当に脚色されながら事実が大きく歪んでしまったということだったのです。

調査エピソード

 イギリスでは故人の戸籍が早くから画像化されて、それらが検索できるようになっており海外からもその原票のコピーを取り寄せることができるようになっています。そのことを知ったのは15年ほど前でした。そんなデータサービスのおかげでタカセの生涯については『実証・日本の奇術史』(2010、東京堂出版)で概略を紹介していました。
 その後も古い情報がデジタル化されて公開されるにつれ彼の詳細な動向が次々と明らかになってきましたが、肝心の彼の顔写真などが見つからず今一つ実像に迫れないもどかしさがありました。ところが偶然というのは恐ろしいものです。突然彼の写真が見つかったのです。それは「彼がジョージ・タカセ(George Takase)という名を使っていたことがある」ということを私が何気なくフェイスブック上で呟いたのがきっかけでした。それを目にした友人の森下洋平氏がオークションサイトeBayにその名を打ち込んでみたところ彼の写真とおぼしきものが出品されていたのです。連絡を受けて「間違いなし」と判断し、そのまま氏の手で落札することが出来たのです。何と落札額は1000円だったそうで価値を知らない出品者が破格の値付けをしていたようです。eBayではこの種の古写真は、渉猟している蒐集家の手に落ちてしまうのが通例ですから、何気ないつぶやきをきっかけにその日のうちにタカセの写真が入手できたことは正に奇跡といっても大げさではない展開でした。

25歳の頃のタカセ
(絵葉書:森下洋平所蔵)
天一と渡米した頃の高瀬(天清)
(The Cosmopolitan, Dec., 1902)

 ところで、タカセがジョージの名を使っていたことは、ファニー夫人の死亡届にあって分かったものです(画像は前出)。そこにはWife of George Takaseとか書かれていたからです。Kiyoshiではイギリス人が発音しにくいので、友人からジョージと呼ばれていた愛称をそのまま使ったということだったのでしょうが、なぜジョージなのか、を考えると、多分タカセ自身がジョージの名を好んだということだったように私には思えてきます。セント・ジョージ・ホールに出演を果たし、その後も頻繁にその舞台を飾った誇りをその名に感じるのは私がタカセに感情移入し過ぎているせいかもしれませんが・・。

謝辞:現地資料の英文解釈については正確を期するため友人のピーター・ブラニング(Peter Brunning)氏のアドバイスを受けました。またヘンドン墓地のポール・ヒューズ(Paul Hughes)氏には現況説明や写真提供など多大な協力をいただきました。森下洋平氏からは一早く若きタカセの写真提供を受け、記事に花を添えることができました。各位に御礼申し上げます。

【2020-10-6記】

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