松山光伸

長崎オランダ商館での手品による接待

 いまでこそ外国人と接触する機会を持つ人は増えてきたが、そういった場の雰囲気をなごませたり、相手の印象に残るようにしたりするのは容易なことではない。ただ、プライベートな場や食事などの合間で簡単な手品で間を持たせたり楽しませたりした経験を持つ人は少なからず増えているのではないだろうか。言葉が通じなくともコミュニケーションできる手品の素晴らしさを実感する場面でもある。

 そういった異文化コミュニケーションのための手品はかなり以前からあったと思われるが、なんと200年以上前の日本に確かな公的記録が残っていた。それは長崎の出島にあったオランダ商館でのことである。

伝川原慶賀筆「長崎出島の図」(出島資料館本館発行パンフレットより)

 よく知られるように西洋各国との行き来を禁じた鎖国政策は1639年から1859年の外国船への開港まで220年もの年数に及んだが、その間、江戸幕府が唯一認めたのがオランダで、長崎に設けた人工島「出島」で限定的な交易が行われていた。ここに赴任してくるオランダ商館長(カピタンという)は歴代163人の数にのぼるが、彼らは日記を公務記録として残していてそこに手品という言葉が出てくるのである。以下は、ウィレム・ワルデナール(Willem Wardenaar)商館長の日記(Diaries kept at the Dutch Factory in Nagasaki during the early 19th century, Vol. I, Anno 1801-1803)に見つかったもので、長崎オランダ商館日記(日蘭学会学術叢書第八:1989刊)の中で訳出されている。

 該当する文言が記されているのは1802年6月15日の日記である。

 朝六時に、奉行は遊覧船で両御番所に行ったので、私はその出島通過の際に旗を揚げさせた。

 午後一時に、私は奉行がまさに出島に到着しようとしているという知らせを受けたので、私は直ちに水門に赴き、そこで奉行並びに奉行に随行して来たほとんどすべての長崎の高官たちを迎え、続いてまた私は私の住居の玄関に迎えて家の中に入り、奉行並びに一行を、できる限りの方法で、菓子や料理や甘い葡萄酒およびリキュール酒を以て接待し饗応し、また若干の手品や玉突きを見物させて気晴らしをさせたので、奉行はこれにすっかり満足したらしく、三時頃になってやっと表門を通って自宅に帰った。

 ここだけを読むと単なる社交の場で手品が演じられたというだけの光景に見えるが、そこに至る動きを追ってみると大変興味深い。というのも当時の長崎奉行は商館の活動に大きな疑義を感じていて常に監視の目を光らせていた時期にあたり、商館側はそれを逃れようと日本側の気分を損なわないように最大限の注意を払っていたという政治的な思惑による饗応だったという事実がわかってきたからである。「若干の手品」が何であったかはさておき当時の状況を確認しておこう。以下は、当該翻訳書の解説文からの引用である。

 日本との貿易開始当時、とくに1639年、いわゆる「鎖国」の時代に入って以降、この出島の商館は非常に利益をあげた商館であった。例えば1649年という時期には、遠く西はペルシャ湾岸から東はジャワ・台湾また日本、極東方面にわたって南アジア地域の各地に東インド会社が広く商館を設けていたが、これらの多くの商館の中でも最大の利益をあげた商館はこの出島の商館であった、と言う。しかしオランダの日本貿易が好調であったのは大体十七世紀の間のことであって、十八世紀に入ると次第にかげりが見え始める。その原因はいろいろあるが、第一には日本側の貿易制限政策にある。

 ・・・そしてついに1790年には船数1隻・貿易額銀700貫目(銅60万斤)に抑えられた。・・・特に大きな影響を受けたのは1789年に勃発したフランス革命の影響である。・・・1795年にはフランスの革命軍がオランダ本国に侵入し、総統ウィレム五世はイギリスに亡命し、・・・本国が事実上フランスの治下に入って滅亡の状態に陥ったため一時混乱した。・・・日本貿易だけが平穏裡に営まれるはずはなかった。ヨーロッパの製品は届かず、東洋産の商品も入手ままならず、その上、長崎に派遣すべき船舶一隻さえもなかなか調達することができないという事態さえ生じた。そこでやむを得ず採られたのが、当時東洋貿易に進出して東インド地域にも出入していた中立国とくにアメリカの船舶を臨時に傭い入れてオランダ船として仕立て長崎に派遣する方策である。

 ワルデナール商館長のこの時期の日記はこのような時期に書かれたものである。日記の全体像について解説者は以下のように続けている。

 長崎奉行から、オランダ船の来航がないこと、あっても外国船で小型であって輸入商品が少なく、あるいは粗悪であって、日本側の要望を充たすに足りない事情などを尋問されたのに対して、例えばイギリスとの戦争が続いているとか、あるいは終息はしたけれど、まだその後ヨーロッパ産の商品が入手できないとか、あるいは折角輸入しようとしても途中海難のため多大な損害を蒙った事情などを縷々陳弁すると同時に、それらの損失をカバーするためにも、より一層輸出銅を規定額以上に増額してほしいことなどを、何回も陳情に努めている。ことに阿蘭陀通詞や奉行所の家老・用人に極力働きかけては事情を説明し、奉行を動かしてもらおうと努力していることが手に取るようによくわかる。

 まさに当該箇所は饗応の場面の記述であり、宴会のみならず奉行一行を何とか楽しませようと考えた末、手品のうまい館員をも動員したことを綴っていたのである。

 分かったことはそれだけのことである。ただここで重要なことは、この時代に街頭芸としての手品のみならず、アマチュアで手品を楽しんでいた人物もいたということで、それもビジネス等の付き合いの場面でうまく活用していたという歴史的事実である。ルイス・キャロルやチャールズ・ディッケンズが19世紀後半にアマチュア奇術愛好家だったことはよく知られているが、18世紀末には既にこのようなアマチュアがいたということで楽しみとしての手品がかなりはやくから広まっていたことが読み取れる。

国指定史跡「出島和蘭商館跡」にあるカピタン部屋の復元模型(撮影:阿部伸一)

 蛇足であるが、2点付記しておこう。ワルデナールは1800年7月16日に着任し。前任者との引継ぎを終え、その後3年間商館長を勤めた。饗応の場面では誰が手品を演じたのかは記されていないが、当時の商館員の名はスペルを含めて全員明らかになっている。荷倉役ヘンドリック・ドゥーフ・ユニア、筆者頭マールテン・マック、上外科ヘルマヌス・レツケ、簿記役アヘ・イヘス、商務員補ヤン・ピーター・ポヘット、商務員補ヨハネス・フレデリック・フィッセルである。従って、これを元にオランダの史料をたどれば、この時手品を披露した商館員が誰だったのかを特定できる可能性はゼロではない。

 もう一つ。オランダ商館長は大名の参勤交代と同様に江戸城の徳川将軍を訪問する慣わしだった(商館員の何人かと共に大行列で行き来した)。これをカピタンの江戸参府というが(当初は毎年であったがこの頃は4年に1度)、大坂や京都を通過する際には必ずといっていいほど芝居見物をしていたことがわかり興味深い(残念ながら手品興行の話はなく歌舞伎見学が多かったようだ)。また1802年の江戸参府には筆者頭のマックと上外科レツケも同行しているためもし手品を演じたのがこのどちらかだったとすれば江戸滞在中に役人や蘭学者との宴席等でも手品を演じていたものと考えられよう。

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