松山光伸

開国期に下賤の芸から表舞台の芸に
格上げになった手品師達
第5回

ハリスの機嫌をとりなすための大衆芸

 少し気になることがある。それは、大統領の親書を携えた大国の代表にこの種の演芸を見せることに幕府は不安を感じなかったのかという点である。というのも日本ではそれまで天皇に能楽や雅楽をご覧にいれることはあっても演芸を見せるようなことは一切なく、歌舞伎ですら天皇の目に触れさせないよう礼節を重んじていたからである。実際、猥雑野卑と蔑視されることもあった歌舞伎を近代社会にふさわしい内容のものに改めるべく明治時代に入ってから「演劇改良運動」が提唱され、その後ようやく天皇の観劇が実現したのであり、当時の演劇や演芸は一般的に低俗なものとみなされていたのである。

 ただ、将軍の場合は、天皇と違って、それまでもまれに曲馬や曲独楽を見物することがあった。古くは、寛永13年(1636)の朝鮮通信使の来日に際し将軍家光が馬上才(曲馬)の実演を所望し、延宝8年(1680)には都右近が時の将軍家綱への慰みに得意の手品を二の丸で披露しているほか、その後も浅草寺に立ち寄った将軍が松井源水の独楽の芸を見物することがあったという前例がある。これらの芸は芝居などに比べて風紀への影響が少ないと考えられていたからであろうか。

 そのような背景の中、幕府の交渉当事者が、通商条約への勅許を得るまでハリスの機嫌をとっておこうとこの種の芸人を動員しようと思いついたのは自然の成り行きだったと考えられる。そして、それが先方に対して失礼な接待には当たらないと考えるだけの理由もあった。

演芸が外交の場の接待に使われたキッカケ

 それは四年前の経験に遡る。二百余年の太平を破ったあの黒船が来航した時のことである。日米和親条約の締結を間近にした1854年3月27日、ペリー提督が日本側の委員を艦上に招待して饗宴が開かれた。食事と酒が振る舞われた後、水兵がニグロ(黒人)に扮して歌い踊るミンストレル・ショーが演じられ日本側委員のみならず艦上の人全員が楽しんだのである。このショーは、白人の出演者が顔を黒く塗り、それぞれの役柄の服装で歌ったり寸劇をしたりして、黒人を面白おかしく風刺するもので、正に大衆エンターテインメントとして当時はやっていたものである。

ペリー来日時のポーハタン艦上の饗宴の様子
(この食事の場面のあとミンストレルが演じられた)

 それまでの日本の価値観から言えば、こういった演芸は低俗なものと考えられ、貴族や幕閣を接待するような場に供されることはなかったが、猥雑な中にも皆が陽気に楽しんでいる様子を目の当たりにした日本側委員は米国の懐の広さや民衆の活力を感じ取ることになった。そしてこの艦上のミンストレル・ショーは条約締結直後に訪れた箱館(函館)や下田でも行われるなど一度ならず演じられたのである。そのことについて、ペリー艦隊に同行した宣教師のS. W. ウィリアムズはその随行記で次のように述べている。これは下田で、ミシシッピー艦上でミンストレス・ショーが盛大に行われた日(1854年6月16日)の記述である。

思うに、こうした余興や箱館で行なわれた同様の催しは、われわれのためにはこの類のことをほとんど何一つしてくれず、また、ありふれたもてなしだとか楽しみ事だとかにさえわれわれを招待しようともせず、あるいはまた、われわれに対して何かを見物するように勧めることもしない。まこと気の利かない日本人たちをかくも喜ばせるために、われわれの方はできるかぎりの努力を傾注しているのだ、という印象を彼らに抱かせることになるであろう。われわれとしても、そうした印象を与えたいと願っているわけだが。(ペリー日本遠征随行記、洞富雄訳)


 それまで饗応といえば、御馳走と贈物と相場が決まっていて、高貴な人には大衆芸を見せることは一切なかったが、このような経験を経て、それ以降、幕府の交渉担当者は外国人でも楽しめるパフォーミング・アーティストを動員することを考え始めたに違いない(注6)。その結果、ハリスの気晴らしのために日本の大衆芸が一躍駆り出されることとなり、それ以後外国使節への接待の場などで芸人が引っ張り出されることが多くなったのである。

注6:演芸とは異なるが、黒船来航時に相撲を見せている。ペリーから贈られた献上物への返礼品の中に米二百俵があり、これを積み込むために力士90人が動員され、その後簡易に作った土俵で相撲の取組みを見せている。

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