松山光伸

石田天海師の「三代の天覧」に関する記憶違い
第1回

 バートラムの来日事情等について調べる中で、マジックの天覧・台覧の歴史について改めて全貌を確認してきました。 そしていままで正しいと思われてきたことに誤りがあることに気づきました。 ここでは石田天海氏がその著書『奇術五十年』で敗戦後の昭和24年に一時帰国を果たした際に天覧演技を行ったことが書かれていますが、その中に事実誤認がなされていたのです。それは以下の一節です(P.117)。

この日本の滞在中、私どもの忘れることはできないのは、御殿場にご静養中の秩父官殿下ご夫妻をご慰問申し上げ、つづいて六月二十六日、宮中にお召しをうけたことだった。このとき、表御座所の大広間で、天皇・皇后両陛下に奇術を一時間余にわたってご覧に入れ、皇太子はじめ、五十数方の各宮様もご覧下さった。敗戦の責任を一身に負われた陛下のご苦衷を拝察して、万感胸に迫るものがあったが、陛下は終始微笑と拍手をもって、私どもの奇術に応えられた。これで私は、明治、大正、昭和の三代の天皇に、奇術でご奉仕申し上げることができた。まことにはからずも、私の生涯を飾る大きな喜びである。


 昭和天皇に対する天覧は昭和天皇実録の当該日に、宮中の「表三の間」における菊栄親陸会での余興として演じられたことが宮内庁の記録にも正しく記されていました。実は、問題はそこではなく最後の部分のところです。大正天皇や明治天皇を含めて三代にわたる天覧を成し得たことへの感慨が記されていますが、そこに天海の勘違いがあったのです。

摂政宮殿下を陛下と思い込んでいた天海

 まずは、大正天皇に対する演技の様子について引用してみます。同じく『奇術五十年』のp.28に天海はその場面を次のように記しています。

ちょうど高橋是清内閣の大正十一年、英国のウィンザー公が来朝された。このとき総理のお声がかりで、大正天皇とウィンザー公に奇術をご覧に入れることになって、首相官邸が会場に当てられた。そのときは天勝の水芸と私のカードとボールの奇術だけお目にかけた。しかし官内省のお役人がなかなかやかましく、演技中は天皇を見てはいかん、必ず横を向いてやれといわれて、これにはホトホト閉口した。


 実は、大正10年11月25日から皇太子裕仁親王殿下は大正天皇の御病気を受けて、天皇の公務を代行する摂政宮になっていました。従って、それ以降、大正天皇は公の場に姿を現すことはなくなっていたのです。 ここで言うウィンザー公というのは、その当時はまだエドワード皇太子でした。15年後にエドワード8世として王位についたのですが、一年経たずして退位し民間の女性と結婚しました。いわゆる「王冠を賭けた恋」として知られ、その後ウィンザー侯爵となった人物です。そのエドワード皇太子をお迎えしたのは摂政宮である裕仁皇太子殿下であって大正天皇ではありませんでした。

 
晩餐会を伝える記事(読売新聞4月17日)

 手品が演じられたのは大正11年4月16日総理大臣官邸における総理主催の晩餐会での余興でした。 琴尺八の演奏や鏡味小仙一座と春本助次郎の曲芸に加え、天勝一座の手品が用意されました。 石田天海が摂政宮殿下を天皇と勘違いしたのは「御尊顔を見てはならぬ」との言葉通り主賓を目にすることなく大人数の招待客を相手に演技していたため、陛下に代わって摂政宮が来席されていたことを勘違いし記憶にしまい込んでしまっていたのです。 その事実はその後の天勝一座のプログラムでも確認できます。水芸の演目のところに「摂政宮殿下と英国皇太子殿下の御台覧を賜った」ことが誇らしげに載せられていることでも確認できます。


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