松山光伸

石田天海師の「三代の天覧」に関する記憶違い
第2回

存在しなかったと思われる明治天皇への天覧

 明治天皇に対する天覧も同様で天海の思い違いと考えられます。
『奇術五十年』にある記述(p.24)をまず見てみます。

この軍隊生活中で、ただひとつ忘れ得ない思い出がある。それは明治大帝に奇術をご覧に入れたことである。まったく唐突な話であるが、入隊二年目には、隊の演芸係のようなことをしていた。つまり、軍旗祭だとか記念日などには、しかるべき芸達者を隊内から選抜して、聯隊長や上官を前に演芸のプログラムを繰りひろげる係がそれだ。たまたまそのころ師団演習が行われて、明治天皇が名古屋の離官においでになり、私はその儀伎兵として任務についた。

ある日、上官殿の命令で、陛下の旅情をおなぐさめ申し上げる趣旨で、何か芸を天覧に供えよとのことであった。もっとも今日の時代とはわけがちがって、天子さまをみると目がつぶれるといわれた時代だから、命令をきいただけで体がこまかくふるえる有様だった。「陸軍歩兵一等卒石田貞次郎。ただいまより手品をはじめるであります」最敬礼をして始めたのはいいが、何をどうやったのか、まるきり無我夢中のうちに終わってしまった。あとで陪席の士官にたずねると、なかなかの出来栄えだったとのこと。


 この前段で貞次郎(天海)は明治42年に入隊したと記している。明治42年(1909年)12月1日に満二十歳になり、国民の義務だった徴兵検査を受け甲種合格し、その直後に入隊になったようだ。ここで述べている入隊二年目というのは明治43年のことである。名古屋第三師団歩兵第六連隊に属したが楽士だったおかげでラッパの助教を仰せつかるなど比較的楽な軍隊生活だったと振り返っていますが、上記に引用した体験談はそのあとに出てきます。

 『明治天皇紀』に照らし合わせると陛下は明治43年の11月に名古屋に立ち寄られていますが、その前後の年に名古屋訪問はないため、この時のことを述べているのが分かります。ただ陛下が立ち寄られたのは1回のみで、皇太子殿下は3回この月に行かれていました。『明治天皇紀』には手品の演技やそれを演じた一兵卒の名前など具体的な記録は残念ながら記されていませんので、あとは類推するしかありません。
 天海がいうところの離宮とは名古屋城のことです(明治26年に名古屋城は名古屋離宮になりました)。


 その離宮に泊まられたのは岡山県で行われた特別大演習を統監するために途中下車した11日の一泊のみに過ぎず、それも午後二時四十分に停車場に到着した後、忙しく行動されていて自由な時間はほとんどないことがわかりました。「旅情をおなぐさめ申し上げる」というようなタイミングはなかったのです。実際、陛下は名古屋に到着後そのまま離宮に向かわれ、その後は皇太子や梨本宮を拝謁し、内務大臣や師団長や県知事などの訪問をも受けるなど忙しく、更に夜になると離宮内で県産品を御覧になったり、タイ国王の戴冠式へ親電を発したりと忙しく過ごされていました。そして翌日は七時二十分には名古屋駅を出発していますから正に長距離移動の途中のお立ち寄りで必要最低限の方の拝謁を受けるような日程をこなされていたのです。
 一方、この時は名古屋でも師団対抗演習が行われていてその視察のために皇太子殿下が現地を行啓されていました。そして殿下の場合は11月6日から6泊滞在されていたのです(滞在場所は将校クラブだった偕行社でした)。そして陛下が名古屋に到着された際は停車場に出迎えられており、11日は離宮に拝謁に向かっていたのです。

 従って、天海が「ある日、上官殿の命令で、陛下の旅情をおなぐさめ申し上げる趣旨で、何か芸を天覧に供えよ」といわれた思い出話は、皇太子殿下が6日間にわたって師団対抗演習等を連日臨視(見渡)していた間の出来事だったのではないかと考えられるのです。その間殿下は天海が属していた歩兵第六連隊をはじめとしてその傘下の各大隊を視察されており「旅情をおなぐさめ」する機会はあってもおかしくはないのです(天覧ではなく台覧という)。
 100%の確証があるわけではありませんが離宮で儀仗兵として任に当たった経験と、殿下への台覧演技とが、相前後して行われたため両者が混在してこのような記憶が定着したものと考えられます。ちなみにこの時演じた手品は千切った紙を吹き流しに復活させ、その後、それをどんぶりに入れて食すという「紙うどん」でした。

記憶の曖昧さ

 歴史の調査を行っていると、記憶違いで書かれたものが極めて多いことに驚かされます。私自身も記憶違いしていることに気づく機会が少なからずあることに気づくようになりました。本人が言っていることだから一番信頼がおけるというものでもないのです。そのことをデータ的に教えてくれるものがあります。
 ノーベル生理学・医学賞を受け、脳生理学・認知科学者でもある利根川進氏の話がそれです。以下は氏の話を『私の履歴書』から引用したものです(日本経済新聞朝刊、2013年10月29日)。

過去に起こったできごとを思い出すとき、私たちの脳は、断片的な記憶を集めて再構成するわけですが、その際、一部を変化させてしまうことが往々にしてあり、間違いの記憶が重大な影響を及ぼすこともあります。例えば米国では、目撃者または被害者の証言を重要な証拠として長期投獄された250人のうち、約75%はその後導入されたDNA鑑定によって無実であることが判明しました。
 間違った記憶は、本人にとっては正しい記憶として残っているのですから、必ずしもウソの証言をしているわけではない点がかえって問題です。例えば、強く記憶に残っているようなできごとを思い出しながら、何か別のことをしていると、その両者が記憶の中で結びついてしまうことが時には起こるのです。

 間違いの記憶は自然な状態では動物には起こらず、人間に特有なようにみえます。何か進化上のメリットがあるのか、ということですが、私はむしろこれは副産物ではないかと考えています。人間にはすばらしい想像力と創造力が備わっています。そのおかげで、科学・芸術・音楽などを通して、文明・文化を築いてきました。 人間の脳細胞は、その時その時の外界からの刺激と直接かかわりなく、ため込んだ過去のできごとの記憶をもとに常に活発な活動をしています。そのため、過去のできごとと関係のない現在のできごとが結びついてしまって、新しい経験が創造されてしまうことがあるのではないかと考えています。


 このような記憶違いにかかわる研究がデータ的に立証されていることと、それが私の歴史調査における本人の経験談の信憑性への疑問とが、ピッタリ重なって大いに納得したものです。

【2017-12-15記】

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