松山光伸

国際芸人の先駆者、ジンタローの生涯
第8回

ジンタローを支えたとみられる家族

 1901年の国勢調査だけでは一時点の動向でしかないため、もう少し細かなデータがないものかとアチコチの機関に照会をかけていたところ、未完成ではあるものの構築過程にあるもう一つの戸籍データベースの存在を知った。これは戸籍データ(出生・結婚・死亡)に関し、苗字等の断片情報さえ入力すれば該当年を特定しなくても対象者を見つけられるよう、前述の「1837年以降の戸籍総合台帳」を再構築しているものであった。そこでこれを使って、再度ブヒクロサン名で検索すると、何とブヒクロサン姓を持つ人物の出生・結婚・死亡時期に関する断片情報を20件近くも見つけることができた。1901年の国勢調査で見つかったブヒクロサン姓の人物が4人だけしかいなかったのは苗字による検索だったためで、その時点において既に嫁いで姓が変わっていた娘は網にかからなかったということだったのである。

図1
図1

 これを元に重要な出生・死亡・結婚届をすべて手に入れ、記されている親子関係や年月日の辻褄があうよう家系図を何度も書き直す作業に没頭した。その結果、出来あがったのが図1の一覧表である。余談であるが、これをまとめる過程で氷解した謎がある。1901年の国勢調査時に同宿させてもらっていたバプティ姓の夫婦とブヒクロサン一家との関係である。実は、この部屋にいたフレッド・バプティの奥さんのウィニーという人物は、ブヒクロサンの娘のウィニフレッド(Winifred)で、孫が生まれて間もないこの日、ルースをはじめとしてブヒクロサン一家が総出で赤子の顔を見に来ていたということだったのである。

 これでブヒクロサン一家の全容がほぼ完全な形で解明でき、次のことが判った。

  • タンナケル B.N.ブヒクロサンというのは、正しくは、タンナケル・ビリンガル・ネビル・ブヒクロサンであること。
  • タンナケル B.N.ブヒロクサンの夫人であるルースの正式の名は「おたけさん(Otakesan)」であった。
  • 1901年の国勢調査を見て、当初3人の子持ちかと思っていたが、実際には10人程の子を持つ子沢山だったこと。(「1885年日本人村」の書の中にはブヒクロサンが1884年に来日した折、「8人の子供がいる」との自己紹介があったとされているが、その時点でおたけさんとの間に生まれていた子供は正に8人であった)
  • 「おたけさん」が英国で生んだ最年長の子は1869年生まれであったことから、彼女がタンナケル氏と英国に渡ったのは1867年頃、即ち、開国直後のことで17~18才の頃と考えられること。
  • 出生届が英国には存在しない数人の子がいるが、これは年齢的に「おたけさん」の子とは考えられないため、多分タンナケル氏は子連れの再婚者だったものと思われること(この年長の子も1881年の国勢調査で他の兄弟と一緒に住んでいたことが後日確認された)。
  • この一族の中で、日本人村(Japanese Native Village)の著者である「O」のイニシャルを持つ人物は「おたけさん」以外には考えられないこと。(子供の中には「O」のイニシャルを持つ人物が何人かいるが、著作の発行年にはまだ10代前半の年齢に過ぎない)

日本事情を著していた日本人女性

 特に目を見張ったのは、日本を紹介した前述の書の著者「O.Buhicrosan」とは、実は、この「おたけさん」だったという結末である。ジンタローのジャグリングに関する論文の存在にも驚いたが、この150ページに及ぶ書を著した日本人女性がいたということは予想外の大発見だった。10人もの子供を育てた上に、日英相互理解のために意義ある大著を著した偉大な女性であるばかりか、開国直後に渡航した第一号の日本人女性であった可能性もある。この人物の研究はぜひとも必要である。取り寄せた著作内容にも驚くべきものがあった(注6)

 ブヒクロサン一家は長い間ルイシャムに住んでいた。1870年代後半以降に生まれた子供達がルイシャム生まれだからである。ただ、住居を知ろうとすると正確な住所が必要である。ランスロットやおすにさんの出生届を見るとYeddo Grange, Lewishamと出生場所が書かれている。また、「日本人村」の書の前書きの最後にも、Yeddo Grange, Lewisham と締め括った上で、O.Buhicrosanと記されていることから、ルイシャム行政区にYeddo Grangeという地区名や住所名の特定をお願いすることにした。

 ところがどのようにお願いしても「そのような場所は存在しない」の一点張りで、埒があかないのである。そこで、国勢調査の記録や出生届等の証拠資料を一つ一つ示しながら粘り強く説明していたところ、突如、これは住所ではなく建物の名前かもしれないと閃いた。タンナケルが極端な日本趣味だったことからYeddoとは「江戸」をもじったもので自宅をそのように名付けていたのではないかという直感である。そしてそのように伝えると案の定Yeddo Grange(江戸の農場屋敷)が見つかったとの報告があった。

豪邸に身を寄せていた可能性

 驚いたことにこの住居はルイシャム・パークの緑の中にあったのである。当時の不動産カタログによると、この館には、馬屋や馬車ガレージ、庭には噴水や温室などがある三層の大邸宅で、ベッドルームだけでも9室を備えており、正に、ブヒクロサンが最も手広く活躍していた最盛期に大人数で住むのに相応しい住居だったのである(写真23)。住所が一旦わかってしまうと、1881年、1891年、1901年のそれぞれの国勢調査の日に、この住居に誰がいたのかを知るのはそう難しいことではなかった。担当者の全面協力を得て、古い紙資料を確認してもらった結果、1891年の3月末にはこの住居の住人は既に入れ替わっていることや、1881年の時点ではまだ彼らはここに住んでいないことがわかった(但し、ランスロットとおすにさんはここで生まれているため少なくとも1883年から1890年の間はここを住居にしていたことは明らかである)。となると1887年に渡英したジンタローは当初この家に厄介になっていた可能性が高い。ただ残念なことに、この豪邸はその後の大戦の砲火で焼失しており、もはや往時の建物を見ることはできなくなっている(写真も残っていない)。

ジンタロー
写真23:ブヒクロサン一家が住んでいたYeddo Grange

 では、ここから彼らはどこに引っ越したのだろうか。データベースで調べたタンナケル B.N.ブヒクロサンの死亡日は1894年だったので、それを元に死亡届を入手してみると、その時点での住居は44 Hither Green Lane, Lewishamであった。この住所は、Yeddo Grangeに移る前、4人の子供が生まれたアパートの住所でもあったことがそれぞれの出生届で判明していたため、一家はYeddo Grangeを離れたあと、長年住みなれた住居に再度入居したことになる。いずれにせよ1891年の国勢調査の日には、この44 Hither Green Laneの住居に一家がいたわけで、その記録を見れば、ジンタローとブヒクロサンが一緒に住んでいた事実が確認できるものとの期待が高まった。ところが、1891年の国勢調査記録は一部散逸しており、この44 Hither Green Laneの調査記録は不運にも欠落していたのである。やっと確認できるとの思いが強かっただけに落胆は大きかった。ちなみにその10年後に当たる1901年の国勢調査も確認してみたが、ブヒクロサン一家はこの住居からもはや姿を消していた(その日トッテナムを訪問していた3人の住居はこの家ではなかったことになる)。

 ジンタローの若かりし頃の足跡については最後の肝心な局面で証拠をつかみ損ねてしまった。ただ、私はジンタローがブヒクロサン一家と一緒に住んでいたものと確信している。夫人のおたけさんにしてみれば、多くの子供を世話するのもジンタローが一人増えるのも同じであろうし、何よりも日本人と日本語でやりとりできることで日々のストレスから開放されるという思いもあったはずである。事実、倉田喜弘氏の「1885年ロンドン日本人村」によると、日本人村で雇用された日本人女性は日曜ともなるとこの邸宅に3、4人ずつ招かれていたとされており、おたけさんはのびのびと会話を楽しんだものと想像される。また、おたけさんによる日本紹介の大著も、そういった人達の話を聞きながら最後の詰めをしていたに違いない。年を経てジンタローがストランド・マガジンに自らの論文を残したのもこのおたけさんの著作に啓発されてのこととも思えてきた。

注6: この書は日本を広範に紹介したもので、1635年のキリスト教弾圧から始まる海外との交流の歴史、出島を通じた交流から始まり、開国に向けての軋轢、官吏の海外派遣の実話はもとより、近代明治国家への転換した際の諸々の政策、国土・気候、宗教・信仰、民族の気質や民度といった地理的概観、更には鉄道、交通、警察といった行政の現状、芸人や劇場の様子、裁判や懲罰の内容、国勢調査の最新の数字といったものまで、当時の日本という国の実情を網羅している。また、訪日した外国人が記述した日本観が随所に引用されているのが特徴で、おたけさんが一人で書いた著作とは思えない代物である。実質的には夫君の協力を得た共著であろう。後段は日本人村で展示した日本の工芸や製造手法についての紹介である。

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