松山光伸

国際芸人の先駆者、ジンタローの生涯
第9回

長崎市への問合せ

 いままでの調査で、本人の名前と生年月日、父親と母親の名前、更に出生場所もわかった。この限られた情報から本人が日本を出るまでの背景を調べようとするとその手掛りは長崎市の協力を得て戸籍を調べるしかない。何と言っても海外で活躍した歴史上の芸人であり、本人の情報もこれだけ調べあげた上でのことである。また調査の過程でBuhicrosan Otakeという日英相互理解に貢献した第一号女性とも思われる人物が長崎出身だったことも明らかになった。こちらも朗報のはずである。幸いにもそれまでアドバイスを受けていた外交史料館の事務官の方から長崎市に話を通していただくことも出来た。

 ほどなく、市史の編纂部署である統計課からのコメントを受けた。また幸運にも当時の戸籍は原爆の被災を免れているとのこと。ところが戸籍情報の提供は難しいとの話ももたらされた。外務省経由で話を通しても話が通らないとなると障壁は相当高いものが予想されたが、案の定、市長宛ての依頼状は市立博物館に回付されたものの、「GINTAROの記録は博物館にはない」の一言が返ってきただけで、更なる問合せにも「戸籍にかかわる情報は行政上必要なものは例外として、本人或いは直系親族からの申し出の時しか開示できない」と門前払いであった。日本の戸籍法では「市長が認めれば開示可能」とされているにもかかわらず、である。

 そこで戸籍を扱う市民課に直接問合せて見た。ところが、ここでも同じように開示はできないとされた。確かに個人情報管理は厳しさを増してきているが、実のところ先進諸国の厳しいOECDルールに準拠して平成15年に立法化された日本の基本法では、その保護の対象は生存者に限ることとしている。実際、英国でも戸籍情報や国勢調査は開示され自由に入手できた。そういった話をしながら判ってきたのは、国の基本の法律がどうあろうとも、省令・条例と具体化する過程で、市町村には開示義務を負わせない適用除外規程を設けてしまっていることである。となると誰にも見せることのない古い戸籍を市が税金を使って大事に管理保存しているのは一体何のためなのかという疑問が生じてくる。文化行政の欠陥が歴史調査の最大の障壁であることを知るのである。

勘違いしていた名前

 そんな膠着状態が続く中、日英博覧会で渡英した人物への旅券下付記録をチェックしていた或る日、思いがけないものを見つけた。ロンドンの総領事館が在留邦人のために発行したパスポート発行記録が1909年4月以降、外交史料館のマイクロフィルムに収められていることを発見したのである(その種の記録は残っていないと思われていた)。これが意味することは、もしジンタローのパスポートが1909年4月以降に現地で発行されていれば、その記録がこの中に収録されているということである。すぐに自宅にとって返し帰化申請資料に記されていたパスポート発行日を確認してみたところ発行日は1915年3月5日だった。喜び勇んで改めてマイクロフィルムをチェックしてみると正に期待に違わず、3月5日発行したものとして、住所が「長崎県長崎市※※五十」、職業は「藝人」、生年月日は「明治8年(1875年)3月2日」というのが見つかった。生年月日こそ1日ずれて記載されていたが遂に本人との対面が実現したのである。

ジンタロー
写真24:在ロンドン日本総領事館での
ギンタローのパスポート発行記録

 ところが記録を見て驚いた。漢字名が「※※甚太郎」となっていたのである(写真24)。実のところ、ここに至るまでGINTAROは「ギンタロー」と読むものと思い込んでいたが、本当は「ジンタロー」だったのである。早速テリーに報告したところ、「GINTAROという綴りは英国ではJINTAROと発音する」という答えが返って来た。我々が日常的に使っているヘボン式ローマ字の常識は間違っていたというわけである。次なる問題は判読困難な苗字と住所の漢字表記である。これさえ判れば戸籍を突き止めることが容易になるという代物である。苗字はどうみても、水原や瑞原ではなかった。複雑な草書体のため「ミズ」の部分は皆目見当がつかなかったが「ハラ」の部分は「祓」ではないかと感じた。すなわち「はらう」をハラと読ませるという想像である。

 各種のくずし字の辞典を何冊も調べてみると、苗字の最初の1文字は「愛」のように思えた。ただ、それが正しければ、ミズハラ・ジンタローとは読めなくなり、むしろ今まで否定的に考えていたアイキオ姓である可能性が頭をよぎりはじめた。すると「愛」の次の字が「教」のように見えてきた。即ち、「愛教」姓をAIKIOとしたのではないかとの推理である。ちょうどTOKYOのことをTOKIOと書くことがあるように思えてきたのである。そこで近くの書道の先生に見てもらったところ、まず住所は夷町(えびすちょう)に読めるとの話。現在の長崎市には「夷町」はないが、代わりに恵美須町(えびすまち)というのがあったため、夷町が恵美須町に転じたものと確信した。一方、苗字の先頭は「愛」で間違いないとのこと。その次の字はすぐには結論が出なかったが、連絡を受けた長崎市でも書家の先生に確認してくれた結果、町名は夷町、名前の方は「愛敬甚太郎」という結論となった。漢字こそ違ったがアイキョウだったのである。

愛敬一家とのつながり

 早速、長崎の市民課で「夷町50番地」を、現在の町名である恵美須町で確認してくれたところ、その番地に愛敬一家がいたのが見つかった。ようやく家族を見つけることが出来、いよいよ首相秘書になったとされる弟の名前をたどってその真偽に迫ることが出来ると期待したところ、実はそんな単純には事は運ばなかった。説明によると「この世帯の記録には甚太郎の名のみならず、東京に出たとされる弟の名や甚太郎の母親の名も一切見当たらないため、甚太郎とは関係のない家族である」とされ、加えて「記載内容は見せることができないのでこれで打切りにしたい」との回答であった。

 とはいえ、愛敬甚太郎はロンドンでのパスポート受給時に日本の住所としてこの番地を明記しているのである。ここの住人が最も近しい人物であることは間違いなく、簡単に納得できる回答ではなかった。経緯をしたため改めて市長の姿勢を確認することも考えたが、市民課とのやりとりを続けた結果、「とにかく調べられるだけ調べ、その結果、戸籍のコピーが証拠資料として必要となれば、その時点で解決策を考えることにしたい」と前向きな打開策を示してくれた。とりあえず判ったのは、

  • この家族は熊本から明治20年に長崎に転籍してきた一家で、父親はその時点ですでに無く、母親(甚太郎の母であるタカミ・アサトとは別人)と2人の兄弟の3人家族だったこと。
  • その後、兄の方は明治33年にドイツ人の妻と結婚し、3人の娘をもうけたもののスイスジュネーブで明治45年に死亡届が出されたこと。
  • 一方、弟の方は長崎市内を転々として妻も子もないまま市内で没していること。

 であった。これはどのように解釈したらいいのだろうか。とりあえず考えられることは、この一家とは異なるもう1つの愛敬姓の一家があって、そちらが甚太郎の家庭であったものの、何らかの事情で連絡がとれなくなり、近しい親戚である夷町の愛敬宅を留守宅にしたという推測である。いずれにせよ、首相の秘書になった弟というのは、この夷町の一家にはいなかったのである。

 とはいえ甚太郎の実の弟も母親の再婚に伴って愛敬姓になったと考えられ、愛敬名で出世した可能性がある。その可能性を見極めるために、東京と神奈川の電話帳からすべての「愛敬」氏を抜き出し、祖父の代に首相秘書が存在したかどうかの問合せの書状を出してみた。関東大震災の頃に東京地区に住んでいた「首相秘書」となれば、お孫さんの代になっても京浜地区に住まわれている可能性が高いと思ったからである。珍しい名前のため合計12人に過ぎなかったが、それを裏付ける回答は一切得られなかった。この結果、甚太郎に「首相の秘書」になった弟がいたとすれば、それは愛敬姓ではない可能性が強くなった(ミズハラ姓のままだったか、養子になって姓が変わったかのどちらかだろう)。

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