松山光伸

夭折した三代目松旭斎天一

 松旭斎天二(服部勝蔵)が松旭斎天一を継いで二代目になったことはよく知られています。 子供の頃に天一の養子になって芸を身に付け、父の一座に加わって天勝らとともに欧米巡業を経験したあと、帰国を思い止まって西洋流のマジックを本格的に学んだ初めての日本人といっていいでしょう。 米国や英国での滞在は4年にのぼり(明治42年夏帰国)、四つ玉を中心とする手練マジックや、西洋流の演技スタイルを日本にもたらしたパイオニアでもあります。 明治43年の新富座における正月公演では華やかさと容貌を売り物にした天勝と小気味の良いスライハンドが特徴の天二という両輪を得て、天一は海外巡業の成果がここに大きく花開いたものとさぞ鼻高々な心持ちだったに違いありません。

明治43年の新富座(東京)における正月興行のポスター

実在した三代目天一

 二代目(天二)の息子が三代目として活動していたことを示す貴重な写真があります。 天一の娘である満子が嫁いだ先の久保家に残されていたもので、現在は福井県立こども歴史文化館に寄託されているものです。 写真は二代目天一の追善法要を行った時のものですが、正面の祭壇の左側3番目の塔婆を見てわかるように三代目天一の法要も同時に執り行われたものであることが確認できます。

二代目の50回忌と三代目の23回忌の合同法要 (所蔵:福井県立こども歴史文化館)
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 祭壇に飾られた写真が天二(二代目天一こと服部勝蔵)なのか三代目なのか定かではありませんが、いままで公になっている写真と見比べると二代目というよりは三代目である可能性が高いようにも思います。法要時の写真を集めたアルバムに同じ写真があってそこには松旭斎天一と書かれていますが、そのアルバム作成時点での天一は三代目のことを意味しますし、天二の写真は関東大震災や戦災という二度にわたる災禍を経ているので祭壇に飾りたくとも手許になかった可能性が高いからです。
 なお、上記アルバムの見返し部分には昭和44年6月8日と書かれていましたが、後述するようにこの法要は昭和45年6月8日に行われたものと思われ、書き違えたものと考えられます。
 さて、この法要は二代目の50回忌であるのに対し、三代目は23回忌ですから二代目が亡くなってから27年後に三代目が亡くなっています。天二の没年は大正10年(1921年)ですから、三代目は昭和23年(1948年)に亡くなったことになります。
 三代目の存在はいままでほとんど知られていませんが、大正初めの生まれと考えられるため30代半ばで終わった人生でした。戦時中が本人のピークにあたりますから大きな仕事に恵まれることもなく名を挙げるに至らなかったものと考えられます。松旭斎一門からの塔婆もそのすべてが二代目の50回忌追善と書かれているため三代目と親交の深い仲間は多くなかったように見受けられます。
 施主として、服部たつと二村君野の二人の名が見えます。このうち前者は天二の後妻だった達子(たつ:天栄)と思われます。それは松旭斎天洋の『奇術と私』に以下のように書かれているからです。

この時代(注:上記新富座の興行の頃)が天二の全盛期であった。天一先生引退にあたって薬研堀の邸宅と大道具、舞台用の物いっさいを貰い受け、天一を襲名せず、天二一座を組織して地方巡業をし、ロシアに渡って興行に失敗し、帰朝後一座を解散、松子夫人とも離婚した。 一時、孤独の人だったが、やがて再度一座を組織し、京都興行の際、ちょうど見物に来ていた一婦人が天二の舞台姿に惚れ込み、交際を申し込み、やがて結婚した。これが達子夫人で、のちに天栄の芸名で奇術もやった。家庭的にも一男一女を設け幸福だったが、・・・


 ここにある「一男一女」の男の方が三代目ということになります。 ちなみに天一一座の大正8年の東京の興行(明治座・御国座・有楽座など)の中に「天榮」の名が度々出てきます。 以下は8月20日の読売新聞紙上での御国座における天一一行の演技評ですが、ここにある「天榮」が天二夫人の「達子」とみられます。

(前略) 天一の各種奇術は手先がすこぶる素早いのが見ものだ。他に支那人の曲技、天龍、天壽、天榮等の諸芸はそれぞれ鮮やかである。


 一方、もう一人の施主である二村君野(為野?)は姓が服部ではないため他家に嫁いだ天二の娘さん(一男一女の他方)ではないかと思われます。三代目自身は独身だったのかも知れません。もし夫人がいたのであれば服部姓の名になっている夫人からの塔婆があるのが自然だからです。

 この写真の撮られた日についてアルバムの見返し部分には昭和44年6月8日とありましたが疑問があります。天二の50回忌となれば昭和45年のはずで丸1年もの食い違いが生じているからです。実は、天二の没年は長い間諸説がありました。ところが昇天斎登喜夫の「奇想天涯大奇魔術集:第二編」(大正10年6月22日印刷、25日発行)の奥付の隣に天二の訃報が急遽追記されていたため確定できた経緯があります。これはその後見つかった大正10年6月7日の都新聞の訃報からも裏付けられています。


奇想天涯大奇魔術集(第二編)の奥付ページ

都新聞の訃報
(大正10年6月7日)

 家庭内で二人の年忌法要が同じ年になることは時々起りますが、そのような場合、参会者の便を図って一方を数カ月ずらして二つの法要を同時に行う事例は少なくありません。
 ただ、実際に天二が亡くなった日は6月6日でした。法要は6月8日でしたから、この日取りは二代目の50回忌として決められていたことがわかります。そして三代目の23回忌の方はそれに合せて執り行われたものと理解出来ます。となるとこの法事は天二の50回目の命日に当たる49年目、すなわち昭和45年(1970年)の6月8日に行われたはずです。従って「年」については久保家で後日アルバムにした際に誤って記載したものと考えられます。(注)
 この写真には塔婆を建立している弟子や手品関係者の名前が何人も確認できます。祭壇中央に近い所から、松旭斎天雷(二代目)、松旭斎天洋、松旭斎天歌、松旭斎晃洋、・・、と続き、手前に石田天海、松旭斎天道、渡辺まこと、引田天弘(誤字?)となっています。左側には松旭斎天秀の名が見えますがそれ以外は不明です。今日知られていない方も多い一方、塔婆は故人に近しかった人から順に並べられることが一般的なため人間関係を伺い知ることができます。
 この内、天洋は二代目がまだ天二として全盛期だった時に一座に加入して指導を受けており弟分に当たる人物です。天雷は二代目の元にいた初代天雷を継いだ人物ですが、それ以外の多くは天洋に近い人達です。二代目が亡くなった大正10年の時点では三代目はまだ子供でしたから父から直接マジックの手ほどきを受けることはなかったはずです。その息子が三代目になったのは二代目の遺言だったのか、母「たつ」の意向だったのかもはや知る由もありませんが、いずれにせよ三代目は天洋を始め二代目との関わりの深かった人の力を得ながら再興を期していたのでしょう。
 その三代目がなくなったあともここに塔婆を持ち寄った人は折に触れ天一宗家と接点を持っていたようです。その歴史の重みを感じさせてくれる写真です。

注: 施主がかなりの高齢で、且つ内々の法要の場合には、「自分の生きているうちにお爺さんの遠忌法要も繰り上げて一緒にやっておきたい」といった施主の希望がなされることがマレにあります。ただ天一の合同法要の場合は参会者が親戚以外を含めた大人数であり、日取りもニ代目を主体としてその命日に合わせたものですから繰り上げ実施された可能性はほとんどないと考えられます。


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