松山光伸

天一と天勝が吹聴した「ホラ話」(3)

誤報だった「カーネギー未亡人の園遊会」

 一方「カーネギー未亡人の園遊会」に天一と天勝が招かれ大変な評判になったという話がある。村松梢風の『魔術の女王』(新潮社、昭和32年)にこのことが初めて記されたが、それによると、

 天一は、三十四年の夏、アメリカの鉄鋼王カーネギー未亡人から突如、ニューポート海岸地の別荘へ招待された。実は伊藤博文を招待するについてのお相伴だった。(中略)  行ってみると世界の大富豪の別荘。どうどうと押し寄せる波の音を下に控えた芝生の上には、夏の宵を燃え上らせる緋を織りまぜたじゅうたんを大玄関から敷いてある。輝くシルクハットの紳士、ローブモンタント軽やかな貴婦人のむれ。大玄関の入口で妙な傘のような物が三、四十本立ててあるのを立派な服装の従僕がこれを丁寧に一本ずつ来客にくれた。海辺のプロムナードに一寸さして歩くといったものだが、その柄にはサファイアだのダイヤが燦としてちりばめられ、どんなに安くみても二、三千ドル以下のものではない。 天一も驚いたがそれよりもつれて行った天勝の服装で苦心した。窮余の策で前夜近くのホテルから他へ回すように留めおいたトランクに水芸や剣芸の時着る竜の模様の縫いとりのある打ち掛けのことを思い出し、それを取寄せて天勝に着せ、シャンデリヤに目も眩む大食堂へ打ち連れて入った。・・・貴婦人達がゾロゾロそばへ集ってきて「シェイネ・マドモアゼル」とほめたたえた揚句、六、七人が交る交るそれを借りて着て写真をとるという騒ぎだった。・・・このことが新聞に報ぜられ、天一・天勝の名をアメリカに知られる一つの宣伝になった。


 となっている。ところがこの話は天勝による脚色か、伝記小説の著者が推測で書いたものであることが判ってきた。というのも、そもそも伊藤博文がアメリカに着いたのは夏ではなく、10月2日のシアトルで秋のことである。その後伊藤はワシントンでルーズベルト大統領に会い(20日)、エール大学の創立二百年記念式典にも出席して名誉学位を受け(23日)、10月26日にはニューヨークを発って欧州に向かっている。一方、天一はその頃モンタナ州のビュートで興行をしていて、伊藤候に相伴した可能性は全くない。また何よりも奇妙なのは鉄鋼王といわれて巨万の富を築いたアンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie:1835-1919)は当時まだ健在で、その未亡人の主催によるパーティに招かれるということもあり得ないのである。そして、この話は、石川雅章の『松旭斎天勝』や丸川賀世子の『奇術師誕生』にも引き継がれ事実のように伝わるのである。

 では、これは全くの作り話なのだろうか。どうやらこの話は、執筆当時存命だった天勝一座の座員から聞き込んだものを村松梢風が多少アレンジして描いたものだったようだ。その糸口は読売新聞が伝える明治35年10月9日の記事にあった。

読売新聞 1902(明治35)年10月9日 朝刊4面
読売新聞 1902(明治35)年10月9日 朝刊4面

 これを見ると、天一が当時の富豪層の別荘地として名高いニューポート(ニューヨークに近いロードアイランド州)に招かれていたことは事実ということになる。実際、一座は前の週はニュージャージー、翌週はボストンで演技をしており、中間点のニューポートをこの時期に訪問しているのは不思議なことではない。ただその集まりはマルボロー夫人を主賓とするダンスと晩餐の会であり、加えて主催者(ホステス)はフィッシュ夫人であってカーネギー夫人とは無縁であった。
 この催しの詳細は現地の「ワールド」紙に報じられていたが、この会が行われたのは明治35年8月22日の事で伊藤候とのエピソードから1年近くたってからことであった。記事によると、この集まりはニューポートの社交界で常に最先端の企画をすることで名高いフィッシュ夫人がその高級別荘クロスウェイズに多くの招待客を集めて行ったものであった。ニューポートの避暑地の夏を締めくくる恒例の舞踏会として主要な各紙が毎年レポートしていたものなのである。

フィッシュ夫人の別荘「クロスウェイズ」(当時)
フィッシュ夫人の別荘「クロスウェイズ」(当時)

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