松山光伸

開国期に下賤の芸から表舞台の芸に
格上げになった手品師達
第2回

ハリスが友人に語った独楽と蝶の芸の印象

 実は、ハリス自身の日記にはこれらの芸を見たことは書かれていない。彼の日記は日英修好通商条約の交渉がまとまりかけた頃を期に途絶えているからである。ただ、ハリスから曲独楽と蝶の芸のことを聞いた人物が、その話を帰国後伝えたところ、直ちにPhiladelphia Ledgers紙(米:1858年11月頃)が報じることとなってその事実が明らかになった。


 ここに記されている「ミスターH」とはハリスのことであるが、彼が目にしたものとして4つの芸が描かれている。そのうち三つは独楽を使ったもので、第一に、回転している独楽を刀の刃に載せ、それを回転したまま切っ先まで進ませ、また手元まで引き戻すというもの。二番目は、独楽を回した直後に、その紐の端を独楽に投げつけてからませ、そのまま紐を巻き上げさせながら独楽師の手元に引き寄せるという芸。三番目は、棒の上にしつらえた扉付きの小屋に向けて、回転する独楽が紐を伝って駆け上り扉を開けて小屋に入っていくというもの。最後の四番目が一番驚いたようで、紙で作った蝶が扇子の動きに合わせて動き回るというものである。同席していた守(かみ:条約交渉に関わっていた上級官僚)から「お望みの所に着地するよ」と言われ、「耳の上に止まらせて欲しい」と言ったところ見事にそのようになったと述べられている。

 これを演じたのは曲独楽師と手品師の2人だったのではないだろうか。というのもハリスはこの記事が出るより半年ほど早い1858年5月26日(安政5年4月14日)、神明社境内に立ち寄った機会に松井源水の曲独楽の芸が見られるよう手配されており(注2)、またそれより前の4月22日(安政5年3月9日)には柳川豊後大掾(初代柳川一蝶齋)がハリスの宿舎に連れてこられ「蝶の手品」を見せていることがハリスの通訳兼書記だったヒュースケンの「日本日記」に書かれているからである(注3)

 ところが上述の英文記事を改めて眺めてみると、記事のタイトルが ”A Japanese Juggler” と単数になっていることに気づく。従って、四つの技のすべてを一人の人物が演じていた可能性も考えられる。というのも、当時の手品師や芸人の多くは独楽もレパートリーに加えていた事実があるからである(養老滝五郎や三代目柳川一蝶斎も一時期独楽も演じていた)。事実は追ってわかるので後段で触れるとして、話を先に進めることにしよう。

またたく間に広がった日本の不思議な芸の話

 いずれにせよ、ハリスが見たユニークな日本の芸は、Philadelphia Ledgers紙に掲載されるやいなや、確認できたものだけでもThe Brooklyn Daily Eagle紙(米:11/20)、The Lowell Daily Citizen and News紙(米:11/26)、The Fayetteville Observer紙(米:11/29)、The Times紙(英:12/7)、The Evening Star紙(英:12/7)、The Evening Herald紙(英:12/7)、Frank Leslie's Illustrated Newspaper紙(米:12/11)、The Observer紙(英:12/12)、The China Telegraph紙(英:12/15)、The Patriot紙(英:12/17)、The Monroe Sentinel紙(米:12/22)、Ballou's Pictorial Drawing-Room紙(米:1/1)の各紙に転載され、あっという間に英米の人々の耳目を集めることになった。また、これを追いかけるように南半球でも同じ内容がPhiladelphia Ledgersからの転載として報じられている。The Perth Gazette and Independent Journal of Politics and News紙(豪:2/11)、The Courier紙(豪:2/19)、The South Australian Advertiser紙(豪:3/1)、The Daily Southern Cross紙(NZ:3/4)、The Hobart Town Daily Mercury紙(豪:3/10)、The South Australian Register紙(豪:3/31)がそれである。

 冒頭に触れたように、エルギン卿使節団が見た「蝶を操る手品師」の詳細な様子を描いた ”Cruise in Japanese Waters” が読者の目に触れたのは翌1859年の5月のことだった。ところがそれより約半年も早く、ハリスのこの体験がこんな形で世界に広まっていたのである。

注2:松井源水は浅草で活躍していた有名な独楽遣いであったが、この時わざわざ呼び出されている記録が「幕末外国関係文書之十九」の中に残っている。

注3:ヒュースケンの日記の1858年4月22日木曜日(安政五年三月九日)のところは次のようになっており、曲独楽のことは触れられていない。

 今日、手品遣いが来た。滑稽なトリックを使って二つの太鼓を叩く道化者がいた。笛吹きもいた。その次に頭をツルツルに剃った手品師が登場した。これもすこぶる変った手品を使ってみせた。小さな蝶を出して、宙に舞わせたり、花や扇子の上にとまらせたり ― それを一時間以上も続けて、自分の身のまわりをとびまわらせ、こうしたことをすべて扇子一本でやってみせた。ほんとうに驚いた。

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