松山光伸

三代目柳川一蝶斎を自称したのは誰だったのか
(その1)

 柳川一蝶斎というと「うかれの蝶」で有名な初代一蝶斎が良く知られている。弘化4年(1847年)に柳川豊後大掾の名を許されたあとは倅(せがれ)の文蝶に一蝶斎の名跡を譲り、その後は幕府からの要請を受けて、開国交渉にやってきたタウンゼント・ハリス(米国)やエルギン卿(英国)をはじめとする各国の公使や総領事にその芸をもって楽しませた人物である。
 弘化4年4月に行われた初代の息子文蝶の二代目一蝶斎襲名披露は浅草観音境内の興行で、その時のビラの左側に口上書きが記されている。それによれば一蝶斎は七年前に京に移って興行を重ね、大坂表で大仕掛けの出し物を完成させて今回浅草観音の開帳を機に江戸に戻って御礼の興行をすることになったとある。

柳川豊後大掾の興行
浅草観音境内における柳川豊後大掾の興行ビラ(弘化4年4月)
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 一方、三代目になったのは初代に弟子入りし、慶応3年(1867年)にオーストラリアやニュージーランドに向かった一座に20歳で参加した柳川蝶之助(当時)こと青木治三郎である。日本手品を演じた最後の手妻師と言われることもあるが三代目を襲名した時期は二代目が襲名してから50年近くたった明治29年(1896年)のことであった。

 実は、最近まで一蝶斎の研究が進んでいなかったがそれには理由があった。秦豊吉の有名な「明治奇術史」(実は阿部徳蔵がゴーストライトしたもの)でも取り上げられなかったが、それは彼らが幕末から維新にかけての手品師だったため史料に乏しかったことが一因と考えられる。また、一蝶斎の名が何代にもわたっているため多くの人物史事典の著者が混乱した挙句それぞれ内容の異なる説明をしていたこともあって一門の全体像を整理できていなかったからである。
 特に三代目については自称三代目が何人かいたようで当時の新聞紙面に一蝶斎の名が時々出てきているなど混乱に拍車をかけていたという事情があった。そして初代・二代目の下で精進を重ねた青木治三郎が正式に三代目を名乗ったのが遅くなった背景には、先輩門人が許可なく名乗った自称三代目の問題が長く尾を引いていたことが大きな遠因だったことが明らかになっている。その辺の事情は『実証・日本の手品史』に詳しく記述した。  ただ、誰が三代目を自称していたのか、そしてなぜ自称者が出たのかが未だ明確になっていなかったのであるが、それに関してその後の調査で新たな進展が得られることとなった。

 まず、自称三代目の特定であるが、その候補について『実証・日本の手品史』の出版当時では四人を挙げた(p.54)。その中で確実と思われる人物に柳川長七郎がいる。というのも長七郎は蝶之助(後に正式な三代目となった青木治三郎)に遅れること5年後の明治5年に芸人一座に加わって豪州・ニュージーランドに遠征しており現地でもEchowsi(一蝶斎)を名乗っていたからである。明治5年と言えば初代はすでに亡くなっているが二代目はいまだ現役だったため本来であれば一蝶斎を名乗ることは出来なかったはずである。そこには何らかの事情があったに違いない。海外遠征メンバーとして手を挙げるに際し、一蝶斎を名乗っておいた方が契約金の面で有利になると考えた可能性もありそうだ。実際、長七郎はこの一座に座長格で参加しているからである。そして渡航直前にはすでに長七郎が一蝶斎の名を使っていたことも確認できた。それは同じ一座に加わって渡航した柳川蝶太郎という若者が渡航後十年以上たって音信が途絶えていることを心配した母親が明治19年12月15日に東京府知事宛てに提出した「外国出稼所在地御取調願」に示されていたからである。

外国出稼所在地御取調願
柳川蝶太郎の母親が安否調査を依頼した「外国出稼所在地御取調願」

 そこには以下のように経緯が書かれていた。

長男銀蔵儀、芸名柳川蝶太郎と唱え、去る明治四年十月中手品業柳川一蝶斎の門人に相成り、同人に従いヲヽスタリヤ国へ向かい出稼いたし候。その後明治八年四月中柳川一蝶斎儀は帰朝つかまつり、そのみぎり、マルホン[メルボルン]と申す地より文通には、・・・



 ただ当時の旅券発給の記録を見ると願書を出した時点ではまだ一蝶斎は柳川長七郎で申請しているため急ごしらえの一蝶斎だったように見受けられる。実際、初代はすでに鬼籍に入っており、二代目も少なくとも明治10年までは息子の鬼一郎を助手に引き連れ一蝶斎として活動していることからこの時期に長七郎に一蝶斎の名を許せる立場の人物はいなかったはずである。ただ長七郎は豪州に向かう直前の明治5年にはすでに53歳になっていて蝶之助(後の正式な三代目)より30歳程年長であったばかりか二代目よりも年上だった可能性が高い。となると長七郎が一蝶斎の名を勝手に使ったとしても年長であるが故に二代目が咎めだてをしたり制したりすることは難しく、そのまま豪州に旅立ったものと想像できよう。

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